拾 ウミネコの糞で運はつくのか 

 大晦日になった。関東ではその日は蕎麦を食べるだけで、割と質素だが、穴見家では昔から、紅白歌合戦を見ながら、御馳走を食べながら大いに騒ぐのが習わしだった。だが、今年はロストデジタルの影響で、テーブルは例年より質素。それでも、漁港の町である、新鮮な魚介類が並んだ。

 アナログ放送に戻ったばかりで、何もかも準備が遅れ、一時は中止の噂も出ていた紅白だったが、無事に放送が終わった。NHKは何とか面目を保ったのだった。こうして、「ゆく年くる年」が始まり、穴見一家が蕎麦をすすっているときに、時報が鳴り、二〇一三年を迎えた。

「明けましておめでとう」

「今年もよろしくお願いいたします」

「こづらこそ」

 澄子と智也が源太郎と静代に改まって挨拶し、二人もそれに応えた。源太郎はいつものように神棚の前に立ち、ポンポンと手を打った。智也もその真似をし、酔っぱらったまま穴見も手を打った。

「ロストデジタルとかいって世間は騒いだが、我が家はパソコンもないし、特にいつもと変わらながった。いやはや、このまま平穏でいられれば、わしは幸せだな」

 酔っぱらい、上機嫌になった源太郎が言った。

「私は嫌だねえ、こんな世界。戦後すぐに戻ったみたいで、本当に嫌だ。電話もないし、タクシーも、台数が少なくて、なかなか来ないし、料金も高い。私ら年寄りは車が頼りなんだよ。それに台所用品も、なんでも不便になって。早く、きれいな電化製品に囲まれて清潔な生活を送りたいね」

 静代が、その場の雰囲気を思い切り暗くした。穴見が慌てて、場を盛り上げようとした。

「そうだ、思い出した。九月一日の夜。電車に乗ってたとき、丁度、源太郎さんからのメールが届いたんだよ」

「そうか、で読めたか?」

「読めましたよ。何だっけ。そうそう、<届いたか? 早く返信よこせ>だったかな。すぐに返事を書いて、送信したところでロスト・デジタルさ」

「そういえば、こちらも昭一からのメール受信したんだ。だけど、ほれロスト・デジタルで、読む前に消えてしまったんだな。まんず、残念だったな。結局、あれが最初で最後のメールだというわけだな」

「まだ、最後かどうかは、分からないよ」

「だといいんだが。わしらが生きてるうちにロストデジタルはなぐなってるがなぁ」

 

 二〇一三年、最初の朝日が水平線から上がった。新年の朝日を拝むために蕪島にたくさんの人たちが集まっていた。蕪島は標高十九メートル、頂上には市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祭神とする厳島神社があった。賽銭を投げ、鈴を鳴らし、手を合わせている人たちの中に穴見一家の三人もいた。

三人は、お参りが終わると、長い石段を降りだした。

「ウミネコ、あまりいないね。前に来た時はすごかったのに」

 智也が空を飛ぶ数羽のウミネコを見て言った。

「渡り鳥だからな」

「前は五月に来たのよ」

「最盛期だから、四万羽飛んでたんだな」

「ウミネコの糞攻撃大変だったよねえ!」

 澄子が穴見を見て笑う。

「糞がお父さんの頭に直撃したっけ!」

「いいんだよ。糞かけられるのは縁起がいいんだから」

 石段を降り、大きな鳥居を出た右側に碑が建っている。

<唄に夜明けた かもめの港 船は出てゆく 南へ北へ 鮫の岬は 潮けむり>

 昭和六年に誕生した新民謡「八戸小唄」の一番の歌詞が刻まれている。作詞した俳人・法師浜桜白の直筆の書から写されたものだ。

「いい唄だろ? 源太郎さん、昔からこの唄、酒が入ると歌ってたよ。昔と変わらない、この海を見てると、全然変わってない。しかも、パソコンも携帯電話もなくなってしまうと、何だか昭和三〇年代の子どものころに戻ってしまったみたいだよ」

「昭一さんは、ロスト・デジタルのままがいいの?」

 澄子がぽつりと言った。

「えっ、お前たちは違うの?たしかに前より不便だけど、こうだと思えば楽なもんさ。僕は、ずうっとこのままの世界でもいいかな」

「お義母さんは、こんな世界大嫌いだって言ってたわよ。息子と全然違う」

「そうだねえ、ほんと、考え方が違うね。でも、それは、あの年齢の彼女なりの真実で、一方、僕の考えも僕なりの人生の中で生まれた真実だと思うけどね。僕は、なんだかこう、ロストデジタルのおかげで、大袈裟に言えば、失っていた人間らしさを取り戻したって感じなんだな、智也もそう思うよな?」

「え、僕は…まあ、そんなにテレビゲームも好きじゃないし…」

 返答に困った智也はモジモジと体をよじった。

「あなたは優しい子ね」

 澄子が智也の髪の毛をグルグルとかき回しながら、抱きしめた。

「やめてよ、お母さん、髪が乱れる、それに気持ち悪い!」

「お母さんは、気持ちいいの。あはははっ!」

 澄子と智也がじゃれ合う、その真上を南の島に渡り損なった一羽のウミネコが飛び、甲高く鳴いた。

桜が満開になった二〇一三年三月上旬。菊池は小田急線に乗っていた。

「はははっ、あんたあ、何言ってんだよ。まったく、笑わせるよ!」

 中年女性たちの笑い声が響いた。車内には籠を背負った中年女性の集団が乗っていた。籠の中は野菜や魚の干物が満載されている。ロストデジタル以降、こうした行商をする人たちが増えていた。みんな儲かっているらしく、景気のいい話をしていた。

 菊池は、そんな女性たちの籠の群れをようやくすり抜けて経堂駅に降りた。ロスト・デジタル以後、音楽を再生するソフトの主流は完全にアナログレコードになっていた。Jポップ制作の第一企画についに正式異動した菊地に、ついに新譜を出す仕事が回ってきたのだ。アナログレコードで育った世代ではなかったが、とにかく新譜の仕事ができるのは嬉しかった。

 だが、菊池の足取りは、重い。アナログの新譜第一号に選ばれたのは奥尻さやかだったからだ。レインボウのドル箱である奥尻さやかのレコードを出すことは、会社としては至極当然のことではあるのだが、さやかの秘密を知ってしまった今では、複雑な気持ちだった。

 奥尻邸の門扉の前で、ため息を一つつき、呼び鈴を押した。すぐに、門が開き、菊池は敷地内に入った。

 出迎えた由美子が菊池を居間に招き入れる。菊池がソファに腰掛けるとすぐに、さやかが現れた。

「イラッシャイ、菊池サン」

 意外や、さやかは人工声帯を使って声を出した。

「お久しぶりです。あの、声が…」

「コンピュータが使われていない、古い機種を友人が探してくれて」

「前ノモノ、ヨリ、大キイシ、重イノ」

「でも、声が出せて良かったですね!」

「ソウデスケド…」

 さやかの顔が曇った。

「菊池さん、さやかの曲をレコード化する話ですけど。結論から言うと、お受けできませんね」

「駄目ですか…」

「ロストデジタル以降、スタジオにある機材はほとんど使えなくなりました。そこで、菊池さんにもお願いしましたが、昔のアナログ機器を、かなり集めましたよね。でも、所詮は昔の製品でした。どうしても以前の、さやかの声を再現することはできなかった…」

「ゴメンナサイ」

 さやかが小さな声で言った。

「大丈夫です。いつまでも待ちます。もし、納得できる声が完成したら連絡して下さい」

「納得できる声なんて、こんな世の中じゃ、できるわけないな…」

 菊池の望みを絶つように、由美子がポツリ言い放った。

 

 四月。青森にもようやく春の気配が感じられるようになってきた。桜も咲き始め、もうすぐ満開のときを迎えようとしていた。穴見の父・源太郎は、今日も日課である蕪島への散歩に出かけていた。

 蕪島は、今、ウミネコが盛んに訪れている季節である。産卵も盛んで、生まれたばかりのヒナも島中で鳴いていた。こうして五月には三万~四万羽の海猫が島を中心に乱舞するのである。

 源太郎は蕪島の入り口に立ち、急な石段を見上げ、その乱舞するウミネコを、目を細めて見ていた。

「ここは一発、写真でも撮るか」

 源太郎は、ためらわずに首から提げた、携帯電話の機動ボタンを押した。

「あ、いけね。ケータイは駄目だったな」

 しかし、駄目なはずの携帯電話が起動したのだ。

「ン? あれれ、点いたぞ」

 そして「ユー・ガッタ・メール」という音声案内が聞こえた。

「あれれ、昭一からのメールだ」

 源太郎は受信ボックスを開いた。そこに、確かに穴見からのメールが送られていた。

<父さん、メール届きました。すごいね、あんたは若い!>

「ン? 九月一日? これは去年の日付じゃないか」

 そのメールは二〇一二年九月一日、源太郎が穴見に出したメールの返信だったのだ。穴見が返信した瞬間、日本はロストデジタルに突入。源太郎の携帯電話に受信できたものの、開くことはできなくなっていたのであった。

「電話できるか?」

 源太郎は穴見の携帯電話や、自宅などに片っ端からかけてみるが、まったく通じる様子はなかった。

 慌てて家に帰って来た源太郎は、玄関を開けるなり、静代に叫んだ。

「ばあさん、大変だ。昭一のメールが、去年のメールがさっき届いた!」

「騒々しい。近所迷惑、大声やめて、お父さん!」

「まあ、そう言わず、これを見ろ」

 居間に走り込んできた源太郎は携帯電話の画面を静代の顔の前に差し出す。

「なんも、見えませんよ」

「あらら、そんなはずは!」

 画面には何もなかった、起動さえしていなかった。

「お父さん、物忘れ酷ぐなっだ。お父さん、明日、ウミネコ祭り、忘れないで。実行委員なんだがら」

「ああ、分かってる…」

 源太郎は、呆然と携帯電話の画面を見つめながらその場に座り込んだ。


 ロストデジタルから八ヶ月と一週間。相変わらずパソコン、CDなどデジタル機器は動かなかったが、人々は徐々に、そんな状況を受け入れるようになってきていた。しかし、ティーンエージャーから三〇代の中にはデジタル機器が使えないストレスからノイローゼになる者が続出した。携帯電話各社はアナログ通信を復活するなど必死に新しい携帯電話を開発したが、発売にはまだまだ時間がかかりそうだった。

 この影響から「ケータイ命」だった全国の若者から多くの自殺者が出た。中でも女子高生の自殺が一番多かった。それが原因かは不明だったが、全国の街から、金髪、派手な服装のいわゆるギャル系の女の子の姿が消えた。ある人類学の博士によると、「携帯電話がギャルを形成していた。携帯電話が神様だった彼女たちは、その教祖様が消えた今、深い喪失感から、目標も何もかも見失い、ギャルであることさえも止めた」という説であった。

「ケータイが神様か…こりゃあ面白いなあ。今度、この博士で番組作ってみっか」

 関東第一テレビ局・報道部で裕史は薄い十六ページほどの週刊誌を読んでいた。裕史は今月から報道部に配属されたのだった。

 電話が鳴り、受話器を取った。

「はい、報道。はい、そうですよ。なんだ、昭一おじさん? 珍しいなあ局にかけてくるんて、なんですか。レコードのプロモーションですか。え、違う? え、もう一度言って下さい。CDがかかったあ!?」

 だらしなく椅子に腰かけていた裕史は慌てて飛び上がった。

「おじいちゃんの所で、ですか!?」

 裕史は穴見の姉の子どもなので、源太郎の外孫にあたる。つまり、源太郎は裕史の祖父である。

 穴見はレンボウレコード第三企画部から裕史に電話をかけていた。

「さっき、おやじから電話があってね。今日、おやじ『ウミネコ祭り』に老人会の仲間と出かけたんだが、そこで確かに使えた、と言うんだ。それに、昨日はケータイも起動して、僕が去年送ったメールを読んだと言うんだ。ボケたかと思ったが、どうも、そうでもなさそうなんだ」


 その二時間前。源太郎は蕪島の前で開催されていた「ウミネコ祭り」に老人会のメンバーとして参加していた。「鮫町老人会」と書かれたテントの中で数人の老人に混じって源太郎と友人で会長の泉山幸二郎が座っていた。

「えーと、最初は老人会婦人部の『八戸小唄』による流し踊りですな。泉山さん、テープと機械はどこですか?」

「はいはい、ここです」

 泉山が差し出したのはCDラジカセだ。

「泉山さん、シーデーは使えませんよって、あれほど言ってたでしょう! 公民館の物置にあった古いテープコーダー持ってきてって言ったでしょ。」

「あらあ、そうだったがあ。近ごろ、物忘れがひどくて。鳴らねえがなあ」

 そう言って、泉山がスイッチを何気なく押した。

「唄に夜明けた かもめの港~」

 八戸小唄が流れた。

「あっ、鳴った!」

 源太郎は思わず叫んだ。

「ほら鳴るべえ。穴見さん、ボケが始まったんじゃねえの。さ、はやぐ、アンプさ繋いで。婆さんたづ、待づぎれでるよ」

 CDラジカセから出た音で、テントの前で準備していた浴衣の女性たちが踊り出した。

「泉山さん、ロストデジタル、終わったのがなあ…」

「何言ってるんだが。どっぢにしてもわだしら年寄りにはなーんも変わりはねんべよ、ハハハハ…」

 そんな泉山の高笑いも、上空で乱舞する何万羽ものウミネコの鳴き声にかき消されてしまった。


 裕史は「スクープだ!」とばかりに、カメラマンを連れて報道局を飛び出した。局が調達した中古車を自ら運転し、一時間後には東北自動車道に入った。

「車が少ないから、渋滞知らずだ」

「ほんとですね。知らないけど昭和三〇年代はこんなもんだったんでしょうね」

 二〇代のカメラマン・関口が十六ミリカメラのレンズを拭きながら言った。

「青森かぁ。津軽って行ってみたいと思ってたんですよ」

「八戸は津軽じゃないぞ!」

「あ、そうなんですか」

「青森って言うと津軽だと思ってる人が多いが、八戸市は南部地方だよ。言葉も違うし、文化も全然違うんだ。今はそうでもないけど、昔は仲悪かったらしいよ」

「えっ、津軽と南部がですか」

「そう。僕は東京生まれだから、そんなことはないけど。母とか、特に祖父は、今でも津軽を敬遠してるとこあるなぁ」

「なんでですかね」

「歴史的な背景があるんだよ。話すとこれが長いんだ。散々、祖父から聞いてきたけど複雑でね。簡単に言うと、十六世紀、南部藩の家臣・津軽為信が謀反を起こし、津軽藩を起こした。以来、両藩の確執が始まったんだな。もっとも、津軽側に言わせると『もともとの津軽家の土地を取り戻しただけ』と主張してるけどね。この後、津軽藩はどんどん隆盛、大きくなっていくんだが、これも不正によるものだという説もあって…義憤にかられた相馬大作なる人物が、津軽の殿様暗殺を企てたって話もあるよ」

「小説みたいですね」

「実際、小説、映画にもなってるよ。分かり易いのは『みちのく忠臣蔵』とかね」

「なるほど、忠臣蔵っすか。それは分かり易いですよね」

「でもまあ、僕らの世代になるとそんなの関係ないけどね。あ、そうだ。でも、東北新幹線が八戸経由になったときは、津軽側が怒ってたねえ」

「ふーん。同じ青森県でも、そんなに違うんですね。あ、そうだ南部せんべい知ってますよ。あれって八戸あたりの食べ物だったんですね」

「岩手県から八戸までの地域だね。南部鉄瓶とかさ、八戸は文化的にいうとほとんど岩手県だね。廃藩置県のときにさ、八戸は無理矢理、青森県になったという話もあるんだよ」

「どうしてですか?」

「岩手県が大きすぎるからだって言うけど。県境なんて適当に決めたんじゃない」

 

 八戸に夕方到着した裕史は、源太郎の家を訪ねた。

「いやいや、裕史くん、大きくなって、何年ぶりだが」

「たぶん、十年ぶりです。すいません、御無沙汰ばっかりで。ところで、早速ですが、CDが動いたとか」

「ああ、ウミネコ祭りでな。ケータイも昭一のメールが読めたんだ」

「それ、見せてもらえますか」

「いや、それが、また、まったく動かないんだ。会長の泉山さんから借りてきたCDラジカセだけど、駄目だった。せっかく東京から来てもらったのになあ」

「ケータイとラジカセ、どこで動いたんですか」

「蕪島の入り口あたりかな」

「両方とも?」

「そうだな、そういえば同じ辺りだな」

「おじいちゃん、行きましょう、蕪島へ」

 裕史はすぐに源太郎を車に乗せ、蕪島に向った。源太郎の家から距離にして一キロメートル。車で三分もかからない。

「うわあ、すげえウミネコ!」

 車の中から撮影していた関口カメラマンが大声を上げた。蕪島上空をウミネコが無数に乱舞し、道路にもウミネコが溢れていたからだ。

 鳥居の前に駐車し、三人が降り立った。すぐにウミネコが周りに集まる。

「すんげえ、ヒッチコックの『鳥』みたいですね!」

 関口が感嘆の声を何度も上げる。

「ちょうど、あの八戸小唄の碑の前が老人会の本部だったんだが」

「よし、やってみましょう。おじいちゃん、ケータイ、スイッチ入れてみてください」

 源太郎が携帯電話を起動させると、あの穴見からのメールが開けた。

「本当だ、すごい、メールが開けた!」

 裕史はナップザックからノートパソコンと携帯電話を取り出し、起動スイッチを入れた。

「おおおっ、すげえ、パソコンが立ち上がった。ケータイも起動した」

「こっちもだ! 出島さんにかけてみますね」

 関口が自分の携帯電話を起動させ、叫んだ。

「インターネットも使えるんですか!」

 関は興奮してさらに大声で言った。

「いや、ダメだ。ワープロはできるが。プロバイダーが不能状態だから繋がらないわけだな。ケータイも駄目だな。アンテナとか、中継地点がロストデジタルだから駄目なんだな、きっと。しかし、起動するのは確かだ。なんでここだけが…!?」

 空を見上げた裕史の顔にウミネコの糞がピシャリと落ちた。

 次の日。裕史と関口は本腰を入れて、鮫町一帯の聞き込み取材を始めた。その結果、蕪島から半径五百メートル位の家庭で何らかのデジタル機器が使えたということが判明した。

 島の側にあった飲食店では電気洗濯機が動いていた。裕史と関口は、その飲食店を訪ね、取材した。

「三月に入ってからかなあ、何気なく冷蔵庫に電源入れてみたら、動くんだよ。で、洗濯機も動いたんだよ。でも、不安定で、動いたり動かなくなったり。でも、四月に入ったら冷蔵庫も洗濯機も快調だよ」

 赤ら顔の中年女性が自慢げに言う。裕史はその洗濯機の説明書を手に、目を見張っている。

「確かに二〇一〇年製だ」


 裕史と関口は蕪島の入り口前に立っていた。

「不安定とはいえ、デジタルが復活していることは事実だ。鍵は蕪島か…」

 裕史は蕪島の頂上に建つ厳島神社を訪ね、宮司の類家雅春に会った。

「蕪島の秘密? 秘密はそうありませんが、蕪島の歴史をちょっとお話しましょうか」

 二代目だという宮司は六十九歳。古い日誌を取り出し話始めた。

「蕪島は江戸期以前から、東北地方太平洋側北部の碇泊地として知られていたようです。それ以前はちょっと分かりませんが。で、昭和十九年まで沖合いに浮かぶ無人島だったんですが、海軍が軍用基地を建設するために陸地の間を埋めて、現在のような陸続きにな

ったというわけです」

「軍はどんな施設を?」

「軍事研究所ですね」

「軍事とは、どんな軍事ですかね…」

「さあ、その辺は分かりかねます。先代なら知っていたかも知れませんが」

 夜。裕史と関口は源太郎の家にいた。

「おじいちゃん、昭一さんから聞きましたが、おじさんは終戦前、蕪島にあった日本軍の研究所のことを良く御存じとのことですが、詳しくお話していただけませんか」

「いやあ、裕史くん。確かにわだしは、当時、昭和二十年、弘前歩兵第52連隊から、八戸要塞構築の現場に出向命令が出て、赴任しました。でも、わだしは直接、蕪島にあった研究所は担当していないので、よぐ分がらないんだよ。もう、昔のこどだし、あんまり思い出したぐもねえしな」

 そう言うと、源太郎は下を向いてしまう。


「そうかあ、おやじが源太郎さんが、そんな風に言ったのかァ」

 穴見はレインボウレコード第三企画部で電話をかけていた。相手は裕史だった。

「戦争の話をするのは大好きな人なんだが、何か嫌なことを思い出したんだろうね。仕方ない、そっとしておいてあげてよ。高齢だから、これ以上追求すると、血圧上がるからさ」

 あたりを見回し、小声になって続けた。

「ところで、あの話はどうなのよ。デジタル機器復活は? へえ、蕪島の半径五百メートル。不思議なことがあるもんだね。もっとも、僕はデジタル復活は、あまり関心ないな。今は、このアナログな日本が最高だ。不便だけど、ほんと、いい世の中になったよ。蕪島界隈のデジタル復活も、今だけだよ。きっとまた、ダメになるよ。いやあ、そう信じたい」

 電話を切ると、上村のそばに行った。

「上村、菊池は?」

「お休みです」

 上村は、机の上に置いた小さなレコードプレーヤーでシングルレコードを聞いていたが、アームを戻し、穴見を見た。

「これで三日だ。あいつ、どこが悪いんだっけ」

上村が人さし指で胸を指した。

「心臓病?」

「心です」

「心って、あの『レコードプレーヤーって一般家庭にないじゃないですかあ』、『僕って横浜出身じゃないですかあ』、『朝って眠いじゃないですかあ』、『夜って眠いじゃないですかあ』、『僕ってバカじゃないですかあ』のジャナイデスカ男に心があったのか?」

「はい。そのジャナイデスカ男にも心があります」

「何を苦しんでるわけ?」

「ロストデジタル以降、価値観が逆転、いやグチャグチャになって。それまで、自分がやってきたことが無になってしまったんじゃないだろうか、という喪失感に襲われたんだと思います、彼はレコードは会社に入るまで触ったこともなかった。CDの単位で音楽を作ることを念頭に入社。その後、CDにも陰りが見え、今度はネット配信の時代。でも、彼には、この変化には違和感がなかった。でも、そんな時代が、いきなりアナログレコードに逆戻りしたわけですから…」

 上村はレコードにスプレーをかけ、クリーナーで拭き、袋にしまった。

「そうか、昔に戻って、喜んでるのは、俺たちみたいなひねくれ者だけだってことか…なるほど、上村はどうなんだ」

「私ですか。うーん、私は両親が古風ですから、こんなアナログ世界でも。そうは違和感ないですけど。ときどき、不便で嫌だなあと思うときも。突然、海外移住しちゃおうかなって思うときありますよ、私でも。でも、ロストデジタル現象は、海外にも拡がってるようですから、結局は世界中がこうなっちゃうのかな。だったら、日本にいてもいいですかね」


 裕史は東京に戻り、編集作業に入り、その日の夕方のニュースで放送した。「青森県の小さな町でデジタル復活」の報はビッグニュースとなり瞬く間に全国民に知れ渡った。一躍、八戸市鮫町には大挙してマスコミが押し寄せた。しかも、そんなとき、各地でデジタル機器が動いたというニュースが入って来た。山形県、宮城県、北海道の三ケ所だった。すべて小さな島であった。その島にもマスコミが殺到、もちろん政府機関も駆け付け、調査が行なわれたが、まったく成果は上がらなかった。

 四月下旬。横浜港から日本国内で使えなくなったデジタル機器を山のように積んだ貨物船が出航していった。そして、アメリカから到着したばかりの旧型の旅客船から一人の外国人が降り立った。男の名は英国生まれのテレンス・クロフォード。アメリカ政府から日本に派遣された電子学研究の博士であった。タラップを降りたクロフォードは、出迎えた数人の男たちと握手を交わし、アストン・マーチンDB五に乗り込んだ。

「すごい、ショーン・コネリーが乗っていたアストン・マーチンだ!」

クイーンズイングリッシュで話したクロフォードに運転席の男は日本人特有のピジョン・イングリッシュで答えた。

「旧式で申しわけありません。何しろ、日本では新型車は使えませんもので」

 首相官邸の会議室に福部首相、森安官房長官、気象学者の末永、そして裕史の姿があった。裕史は、例のスクープにより、重要人物となり、じきじきに首相から会議に参加するよう依頼されたのだった。クロフォードが入って来た。出席者は同時通訳用のイアホンを装着した。

「アメリカよりテレンス・クロフォード博士をお招きしました」

 首相の紹介に、全員が、小さな拍手をする。

「博士は電子学研究の分野では世界一といわれております。我が国が直面しているいわゆる『ロストデジタル現象』を救わんと、我が同朋アメリカ大統領からの命を受け、訪れて下さったわけです。さて、博士、お願いいたします」

「クロフォードです。ロスト・デジタルは日本を中心にアジアで発生している現象ですが、実はこの現象、アメリカやヨーロッパにも小さいながらも発生が確認されています。これまではアジアだけのことと、対岸の火事扱いしてきた国々も、危機感が募り、アメリカ政府は私を日本に派遣しました。アメリカ政府の目的は一つ。ロストデジタルの原因を探り、その病巣を破壊することであります。アメリカはやはり一番危惧しているのは、防衛面です。現在、中国、朝鮮半島も同じ状態なので、この時期を狙っての軍事行動は考えられません。また、予想だにしない某国がたとえ、ミサイル攻撃を仕掛けても、ミサイル自体のコンピュータが狂い、日本本土には到達しないでありましょう。しかし、それでも、余談は許しません。とにかく、早く、ロストデジタルを解消しなければなりません」

「博士はロスト・デジタル現象の原因は、やはり、あの黒雲だと確信していらっしゃるのでしょうか」

 首相がクロフォードに言った。

「私はあのクラウドをデジタルイーターと名付けています」

「デジタルを食う雲ですか!」

 森安が身を乗り出した。

「やはり電磁波の類いですかな?」

 末永が聞いた。

「はい、私も以前は電磁波ではないかと考えたことがありますが、そうではないようです。実は何と言って表現したらいいのか分かりませんが、あえて言うなら、デジタル機器から発生する歪みのようなもの、でしょうか」

「歪み? 以前、超常現象研究家がデジタルの膿とか癌とか言っていましたが、そのようなものでしょうか」

 首相の言葉に森安の顔が引きつる。

「クロフォード博士、あなたもインチキ超常研究家と同じ見解だということですか」

「森安官房長官、失礼な発言は慎んで下さい」

 首相が森安をたしなめる。

「いや、その超常研究家は存じ上げませんが、もしかすると、さほど間違ってはいないのかも知れません」

「では、あの雲の正体が霊魂だとでも、あなたもおっしゃるんですかね」

 森安の口調は激しくなった。

「いや、霊魂かどうかは分かりません。しかし、私もその研究家も、実は同じものを発見して、互いに違う表現をしているのかも知れません。日本ではたしか資料によると、一九八三年ころから急激にデジタル機器が増えました。実は、あの雲はそのときから目に見えないほどの大きさですが、日本上空で観測されていたのです。つまり、デジタル機器と雲は因果関係にあり、その発達は互いに比例して来たと思われます」

「そんな昔から。バカな、末永さん、どうなんですか」

 森安が、末永に水を向けた。

「実は、公になっていませんが事実です」

「おいおい、末永さんまでどうしたんですか。バカを言わないで下さい。あなた、気象学会から除名されますよ」

 今度は、森安は末永攻撃を始めた。

「そうです、今、森安官房長官の言葉のように、荒唐無稽と笑われ、怖じ気付いたから発表しなかったのです。しかしそれは間違いでした」

 森安が驚き、あんぐりと口を開けた。

「みなさん、オゾン層の破壊の原因がフロンガスにあると発表した学者は、当初、荒唐無稽な研究と見なされたのをご存じでしょうか。今度の事例も、そのことと同じなんです。私もクロフォード博士の論を勇気を持って支持します。

 それだけ言うと末永はすっきりした表情で座った。

「では、そのデジタルの膿、歪みはなぜ、デジタルを狂わせるんですかな」

 首相がクロフォードに聞いた。

「末永さん、御支持ありがとうございます。コンピュータはデジタル機器は〇一〇一という単純な二進法で演算して動くわけですが、あのクラウドはそれを嫌うかのように狂わせるのです。なぜでしょうか、分かりません。言えることは、この単純な二進法は機械にはいいのですが人間には不向きだということです。人間は十進法の方が、なぜか分かりやすいのです」

「二進法を憎む人間の霊魂がデジタルに復讐したか…」

 ぽつりと言った首相の言葉に、森安がいきり立つ。

「首相まで、そんなバカなことは言わないで下さい!」

 それを無視して首相は、初めて裕史の方を向いた。

「さて、そこで、いかにすればデジタル復活となるのか…。残念ながら、クロフォード博士も、まだ、そこが解明されていません。そこで、ここで我が日本の若者を紹介しましょう。出島裕史くん、関東第一テレビの優秀なる放送マンであります。彼が、朗報を持って来たのです。出島くんは、この度、ロストデジタルの日本国でデジタル機器が使える町を見つけたのです。はい、では出島くん」

 首相に促され、裕史は白板の前に立った。

「出島裕史です。デジタル機器が使える場所は現在五ケ所。和歌山県大島、宮城県足島、山形県飛島、青森県蕪島、北海道天売島。いずれも小さな島です。みな島を中心にした半径約五百メートルの範囲内でのデジタル機器の動作が確認されました。しかも、どの場所もデジタル機器が使えるようになったのは三月下旬から四月にかけて、つまり春になってから、ということになります」

 裕史は白板の地図に略図を書きながら説明をしていると、クロフォードが質問した。

「共通するのは島、ということですね。それ意外に何か、もっと共通点はありませんかね」

「そうですねえ。ほかの共通点ですか…。海岸の近くとか…、漁港があるとか…。海のそばって、どこも似たようなもので、海鳥が多いとか…、そうそう、そう言えば、すべての島がウミネコの繁殖地っての不思議かも知れませんね」

「オー・マイ・ガーッ。ウミネコの繁殖地、それは本当ですか! いや、まさか…」

 クロフォードが立ち上がり絶句した。

「何か手がかりがつかめましたか!」

 首相がクロフォードの前に歩み寄った。

「いやあ、ちょっとそれは考え難い」

 クロフォードが自問自答した。

「何でもいい。話して下さいクロフォード博士」

「はい…。昔、太平洋戦争当時、日本軍は海猫の研究をしていた、というのを米軍の古い資料で読んだことがあるんです」

 裕史がハッと息を飲んだ。

「それはどんな研究です」

 首相が聞いた。

「アメリカ軍のレーダーを撹乱させる研究です」

「レーダーを撹乱? 鳥を、ウミネコを使って? 馬鹿馬鹿しい!」

 守康は、あほらしいという顔で席を立ち、ドアへ向かう。

「敵のレーダーを撹乱させるために飛行機からアルミ箔撒いたといいますが」

 裕史の言葉に森安の歩みが止まった。首相が裕史の後を続けた。

「終戦末期、物資不足の日本でアルミ箔なんてあるわけがない。その代用としてウミネコを利用しようとした、というわけですかな」

「どうやって、ウミネコを使うのかは記述がないので分かりませんが、その可能性は充分、考えられます」

「しかし、その研究だって、成功してないんだろ!」

 森安が乱暴に言った。

「それは分かりません。研究が完成する前に、終戦となったわけですから」

 クロフォードがゆっくりと水を飲んだ。

「レーダー攪乱の技術が、あの雲にも効くとは限らないが、調べてみる価値はありそうですな。それに、とにかく、ウミネコの島ではデジタルが使えるんですから、これは何かあるでしょう。何島でしたっけ、軍事研究をしていたのは…そこを重点的に調べましょう」

 首相が言い終わるとすぐに裕史が言った。

「青森県八戸市の蕪島です」

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