捌 首相が膿を出すべきか
「カランコロン、カランコロン」
押上の公立十間橋第二小学校のチャイムが鳴り、二時間目の授業が始まった。智也のクラス、二-Bでは社会科の授業が始まった。担任は藤木貴弘、黒縁のメガネをかけた神経質そうな顔立ちだったが、見ようによっては美男子と言えないこともなかった。
「さて、みなさん、今日は、今、私たちの世界、厳密には日本と近隣のアジア諸国の地域に起っているロストデジタル現象を考えてみましょう」
藤木は黒板に大きく「デジタルとアナログ」と書いた。
「みなさんはこのデジタルとアナログって言葉は知ってますね」
「はーい!」
クラスのほとんど全員が声を揃えた。
「じゃ、このデジタルとアナログの違いを、具体的に説明できる人いますか」
「はい」
手を挙げたのは瑠璃香だった。
「ちゃんと数字で出る時計がデジタルで、針で示すのがアナログです」
「はい、よくできましたね。今、千原さんがとてもいいことを言いました。時計が一番、デジタルとアナログの違いを説明するのには最適かも知れません。今では、数字が十時十分というように表わすデジタル時計は機能しなくなりましたが、みなさんはどちらが好きでしたか」
「もちろん、デジタルに決まってるよ!」
翔平が大声で言った。
「でも、針の時計の方が、十一時までの残り時間が一目で分かって便利です」
智也が反論した。
「あ、穴見くん、いいこと言いましたよ。そうですね。アナログ時計は、一目で、絵でも見るような感覚で、おおよその時間が分かるという利点がありますね」
「デジタルだって、計算すれば残り時間くらいすぐに分かります!」
翔平も負けずに反論した。
「でも、そういうけど田口くんは、昨日の計算のテスト、四十五点だったぞ」
翔平が照れて頭をかくと、クラス全体から笑い声が起った。
「じゃあ、先生はデジタルがなくなって平気なんですか。パソコンもケータイも使えなくなったんですよ」
瑠璃香が藤木に挑むように言った。
「いや、平気とは言わないが、確かにパソコンで作業できなくなったのは、とっても不便だよ。でも、きみたち小学生には漢字を覚えるのにはパソコンがないほうがいいんじゃないか」
「あたし、自分の名前書くの大嫌い。瑠璃香ってとっても画数が多いでしょ。あたし、いつも試験のとき、名前を書くだけで疲れちゃう。試験も何でも、書くことはすべて、パソコンにしてほしかったのに…。あたし、こんな日本に耐えられない!」
瑠璃香はいつになく大人びた表情で藤木を見据えた。
「先生、アメリカやヨーロッパではロストデジタルにはなっていないって、ウチのお父さんが言ってました」
瑠璃香の隣の男子生徒が言った。
「そうなんですね。ですから、日本の人たちの中にはパソコンが使える海外へ移住しようとする人たちが現れたみたいですね」
「ケータイも使えない日本なんて、あたしも移住したいな。先生もしない?」
瑠璃香がまるで、大人の女のような誘うような目で藤木に言った。
「ハハハ、それはいいなあ。でも、飛行機が日本から飛び立てないし、船も海外渡航となると相当なる競争率らしいからなあ。第一、先生、海外行っても英語話せないし、お給料がもらえなくなるよ」
「カランコロン」
授業終了のチャイムが鳴った。
二十分の休み時間になった。智也と翔平は教室の後ろに集まりメンコを始めた。校庭ではB玉に興ずる男子生徒もいた。女子はリリアン編みとおはじき、お手玉、ゴム飛びなどに一生懸命だった。ロストデジタル以降、こんなレトロな遊びが全国の子どもたちに大流行していた。だが、瑠璃香は、そのどの輪にも入ろうとしなかった。
「あんな単純な遊び、何が面白いんだろ。バカみたい」
幼稚園児のころからパソコンと携帯電話、テレビゲームばかりしてきた瑠璃香には、智也たちの遊びが幼稚に思えてしょうがなかったのだ。
瑠璃香は遊びに加わることなく、職員室に向って歩いていた藤木の背後に近寄り、右手にそっと小さく折り畳んだ紙片を手渡し、すっと通り過ぎた。藤木は紙片をぎゅっと握りしめ、うっすらと笑った。
職員室の自分の席に座った藤木はさっきの紙片を広げた。それは瑠璃香からの手紙だった。
<藤木先生へ。メールができなくなってから、手紙にしましたが、めんどうで毎日出せません。それに、へたな字でごめんなさい。でも、告白します、わたし、本当に先生が大好きなんです。いえ愛しているんです。夏休みに二人で出かけたディズニーランド楽しかった。またデートしたいな。来週の日曜日のごよてい教えて下さい。るりか>
読み終えると、藤木は何とも言えない笑みを浮かべた。始業のチャイムが鳴り、手紙をズボンのポケットにねじ込み、廊下に出た。
急ぎ足の藤木のポケットから手紙が落ちた。拾ったのは校長の玉置康一だった。
「藤木先生、これ…」
藤木を呼び止めようとしたが、手紙の文面が目に飛び込み、うっと声を飲んだ。
レインボウレコードの第三企画部で穴見と上村がリストアップした数人のレコードコレクターの名前や住所を確認していた。
「この三枚は、この渋川というコレクターが保有してるんじゃないかというわけだ」
「はい。でも、渋川さんは相当頑固で、簡単には貸し出ししないという噂ですが…」
「そうかあ。でもまあ、当たって砕けろ。行って来ます」
渋川良三の家は杉並区阿佐ヶ谷南の閑静な住宅地にあった。庭が広く、蔵がある。建物は木造の平家で相当古い。
「昔はこの辺の名主ってとこだな」
庭を横切って玄関の前に進むと、縁側の前で麦わら帽の老人が鎌で草刈りをしていた。
「渋川さんのお宅でしょうか。良三さんに御会いしたいのですが」
「は、良三は私ですが」
振り向いた老人の顔に見覚えがあった。
「あなたは…電車で…」
2人は同時に同じことを言った。老人は渋川良三。穴見が地下鉄で出会った老人だった。
「あなたが日本で5本の指に入るというレコードコレクターでしたか!」
「ははは。名刺をご覧にならなかったか」
「すいません。失礼いたしました」
「それで御用件は?」
渋川はコレクションルームに穴見を案内した。そこは蔵を改造したリスニングルームを兼ねた一大レコード倉庫となっていた。
「レコード、どれだけあります?」
「八万三千枚までは数えました。それ以上はもう自分でも分からなくなりましたよ。親父の代からですから、いやはや大変な道楽ですよ」
「特に歌謡曲が充実しているとか」
「はい。昭和四年の流行歌第一号といわれる『東京行進曲』から、一九八〇年代まで発売されたアナログレコードはほぼ全部そろっていると思います」
「シングルもLPもですか」
「もちろん」
「まったく驚きだ…。で、私のお願いは…」
「喜んで。今こそ、このレコードのことを妻や息子や孫たちに自慢できる」
穴見はきちんと五十音順の歌手名ごとに仕切られた棚から、シングル盤を選び、テーブルの上に並べた。
「どうしても見つからないものがありますね」
「なんですか」
「夢崎ジュンの『青春ゴーゴーパラダイス』、昭和三十九年、日本フラッシュ発売ですね」
「あ、それですか。それは、人に差しあげました」
「どなたにですか」
「やはりコレクター仲間で、どうしても譲ってくれと言われて。私も1枚しかなかったので最初は断ったんだが、いやあ何度もやって来るんで根負けして」
「その人はどこにいらっしゃいますか」
「たしか群馬の人で、高野さんと言いましたな。でも数年前に亡くなったはずです」
「家の住所とか分かりますかね」
「いや、高野さんが亡くなって、家はなんでも借金の返済で売却されたようです。そのとき、一万枚あった高野さんのレコードもほとんど処分されたということですよ。ああ、そうだ、たしか、娘さんが東京で一人暮らしをしてましてな。コレクションの一部を保管しているらしいです。娘さん、まだ三十そこそこだが、ちゃんと父親の趣味を受け継いでるという、今どきの娘にしちゃあ奇特な子でしてな。住所は知りませんが、携帯電話の番号聞いてますよ。あ、そうか、使えないんでしたな」
高野麻紀は重い紙袋を両手にぶら下げ、重い足取りでアパートの階段を降りていた。
麻紀は歩きながら、この1ヶ月のことを思い出していた。あの日、ロスト・デジタルになった日から、彼女の仕事はなくなったのだ。彼女はネットで株取り引きをするネット・トレイダー。目標は一年一千万円。彼女の計算では五年で五千万円を稼ぎ、マンションが購入できるはずだった。そのマンションには今、群馬で借家住まいしている母と一緒に暮らすつもりだったのだ。父は、小さな衣料会社を経営していたが、倒産。そのショックで病に倒れ、やがて亡くなってしまっていた。残された母と麻紀は持ち家を手放し、父の趣味のレコードのほとんどを売却した。
実は麻紀も父の影響を受け、歌謡曲の大ファンになっていた。友人たちが流行りのJポップに夢中になっているときに、石原裕次郎や弘田三枝子を聴いていたのだから、相当の変わり者で通っていた。
パソコンが使えなくなった今、彼女は「夢も希望も消えた」と思った。明日、食べるものにも困った麻紀は、父が日頃から「これだけは売りたくない」と言っていた十数枚の希少アナログレコードをついに持ち出したのだった。
麻紀は池袋の要町にある有名な老舗中古レコード店にやって来た。店内はにぎわっていた。1ヶ月前なら、店は中年男性やオタク青年たちくらいしかいなかったが、CDが使えなくなってからは、中学生や高校生の姿も多くなっていた。
カウンターには丸いメガネをかけ、毛糸の帽子をかぶった中年店主がいた。
「すいません。レコード売りたいんですが」
「確かに、今、レコードは高く査定しますが、どれでもってわけじゃあありませんよ」
「はい、分かっています」
袋からレコードを取り出した途端、店主の目付きが変わった。が、麻紀に悟られないように、すぐに前の顔に戻った。
「いやあ、悪いねえ。全部、だいぶマイナーなやつばかりで、ウチあたりじゃ売れないなあ。でも、せっかくだから全部で二千円でどうだろ」
「たった二千円ですか」
恐ろしい顔で睨み付けた。
「あ、いや、それじゃお嬢さんのその押しに負けて、三千円ね」
麻紀は三千円を握りしめると、店主をキッと一瞥し、店を出た。そんな麻紀の姿が消えるのを確認した店主は、ニーッと気味の悪い笑顔を浮かべた。
「いやあ、こんなレアなものが手に入った。エレキ歌謡の極希少盤で名曲の誉れ高い夢咲ジュンの『青春ゴーゴーパラダイス』、おまけにミントだし、五万で出してみますか」
麻紀は立教大学の近くにある小さな公園のベンチに腰かけ、ひざ小僧に顔を突っ伏していた。まだ、右手にはむき出しの三枚の千円札が握られていた。
「ごめんよう、父さん。父さんの大事なレコード売っちゃったよ。それに母さん、ごめんよう、お金貯まんないよう。それどこか、貯金もなくなっちゃったよ」
デジタルが消えてから東証も大混乱したが、一週間後には昔通りの株取引が再開していた。しかし、ネット株ができなくなった麻紀には、もうどうしていいか分からなかった。そのとき初めて悟ったのだ。麻紀はパソコンがあったから株ができたことを。つまり、パソコンがなければ自分は何にもできない女なのだと悟ったのだった。
「パソコンなくなって、何にもできなくなっちゃったよう。父さん、母さん、あたし、どうすればいいんだよう…」
麻紀は、行き交う人の視線も気にせず泣きじゃくった。
瑠璃香は十間橋第二小学校の校長室で泣きじゃくっていた。目の前には困惑した玉置校長がいた。瑠璃香と例の手紙を見比べ、ため息をついた。
「千原さん、もう一度確認するよ。あなたと藤木先生は半年も前からメールの交換をしていたんですね」
「はい。わたしがケータイを内緒で学校に持っていったのを藤木先生に見つかってからです。先生は、教頭先生にも誰にも言わないから、その代わりメールアドレスを交換しょうって」
「それから、メール交換し始めたんですね。頻度は? それは毎日? それとも…」
「毎日、朝から寝るまで、多い時で二十通は交換します」
「二十通ですか…。それで、その何度、デートを」
「だって、藤木先生に2人っきりは嫌だって何度も言ったのに。そしたらケータイ学校に持ってきてることバラすって」
「なんてことを…。それで、千原さん、そのデートは遊園地とか、映画とか…そのほかには…」
瑠璃香はまた、しゃくりあげるようにして泣き出した。
「誰にも言わないから、本当のことを話して」
「誰にも言わない? お母さんにも?」
「ああ、言わないよ」
「藤木先生、ホテルに行こうって」
「なんてことを! で、千原さん、まさか」
「もちろん、入りませんでした。だって、あたし藤木先生なんか大嫌いだもん! あんな男、全然あたしの趣味じゃありません。校長先生、どうか、あたしをめちゃくちゃにした藤木先生を辞めさせて下さい! そうじゃないとあたし、きっと引きこもりになって、悲惨な人生を歩むことになります!」
瑠璃香は、この後もえんえんとしゃべり続けた。八歳の小学校二年生だったが、中身は既に魔性の女だった。
瑠璃香が帰った後、玉置校長は別室に待たせていた藤木に会った。玉置はオープンリールの旧式テープレコーダーに録音した瑠璃香の声を再生した。藤木は動揺し、激しく震えた。
「藤木先生、これは本当ですか。今、携帯電話は使えませんので、履歴は調べようがありませんが、困りましたなあ」
「教育委員会に報告を?」
「いや、なるべくはそうしたくありませんが…。藤木先生、あなたには奥さんも産まれたばかりの子どもまでいるんですよ。一体、何を考えているんですか。呆れて、言葉もありませんよ」
「る、瑠璃香は、ほ、本当に本心からこんなことを言ったんですか…」
「今聞いたでしょう。これが真実です。藤木先生、もし、また千原さんとの交際が発覚したら、そのときはかばい切れませんからね」
「は、はい…」
藤木は朦朧としたまま押上駅前の道を歩いていた。藤木は相当のショックを受けた。校長にバレたこと、下手をしたら免職になるかも知れないことも、充分、大変なことだった。しかし、藤木にはそれ以上に、心を乱れさせることがあった。それは、瑠璃香のこの言葉だった。
<だって、あたし藤木先生なんか大嫌いだもん! あんな男、全然あたしの趣味じゃありません。校長先生、どうか、あたしをめちゃくちゃにした藤木先生を辞めさせて下さい>
「パカッ、パカッ、パカッ!」
二頭立ての馬車が駅ロータリーに入って来た。
藤木はフラつく足取りでロータリーを意味もなく歩き回っていた。頭の中では「あんな男、全然あたしの趣味じゃありません」という瑠璃香の言葉がリフレインされていた。
藤木にとって一番の痛手は瑠璃香に振られたことだったのだ。
「瑠璃香に愛されないで、明日からどうやって生きていこう…」
とても妻子ある30代後半の男の考えることではなかった。さらにソワソワと落ち着きなく歩き回りながら、ズボンの尻ポケットから携帯電話を取り出した。
「そうだ、瑠璃香はメールでだったら本心がいえるんだ。くそ、なんで使えない。ケータイのくそったれ!」
藤木がケータイを地面に叩き付けようと、右腕を上に挙げ、背を反らした、そのとき眼前に馬の顔があった。
「ドスン!」「ヒヒーン!」
藤木の姿はあっという間に消えた。いや、馬の足に蹴られ、その後、馬車の車輪に巻き込まれていたのだ。馬車が走り去った後、ロータリーには、血だらけになった藤木がボロ雑巾のように倒れていた。
穴見の甥・出島裕史は、まったくテレビの仕事がなくなり、系列の関東第一ラジオ(KDR)に出向、サブディレクターとなっていた。しかし、現実にはほとんど出番がなく、雑用以外には何もすることがなく、スタジオの隅で小さくなっていた。それに引き換え、従来からのラジオ関係者は、突如訪れた特需景気に張り切っていた。
「それでは最初のニュースです。午後5時半ごろ、都営浅草線押上駅ホームで、三〇代と見られる男性が馬車に跳ねられ死亡しました。 現在、浅草警察署では、男性の身元を確認中です」
男性アナウンサーが目の前の巨大なクラシック・マイクに向かって話している。彼が使っているマイクは放送博物館に展示されていたものだ。東芝F型マイクロフォンと呼ばれるもので、一九五二年に導入されたものである。放送黎明期にはドイツのライツ型マイクロフォンが使われ、以後は、それをお手本に日本製のマイクがどんどん作られた。東芝はA型、B型、F型、K型など、アイワも一九五七年にVW-十六など、一九三〇年代から五〇年代にかけて、国産の名器が次々に生まれたと言われる。その、かつての名器を使い、平成の若手アナウンサーがニュース原稿を読んでいた。
「次に、ロストデジタルとなってから、三十一日目。いまだ、日本国内ではデジタル機器が使えない状態です。このことに危機感を覚え、海外での移住を計画していること人たちが全人口の十五パーセントになったことが、KDRの独自のアンケートで判明しました。現在、海外へは旧式船舶によるアメリカ行きのみの渡航が許されていますが、それも一週間に一便、それも抽選で百人限定となっております。ところで、先ほど入りましたニュースでは、ワシントン州でも、日本のロストデジタルに近い現象が発生したという報告がありました。昨日のイタリアの報告に次、欧米にもロストデジタルは確実に拡大して行っているようであります」
突然、脱兎のごとく若いディレクターがスタジオに入り、女性パーソナリティーに原稿を手渡す。一瞬、はっとしたパーソナリティーは、一度深呼吸をすると、原稿を読み始めた。
「今、入りました、ビッグニュースです。NHKと民放連の合同発表です。昨年七月二十五日から完全地上デジタル化になったテレビ放送、現在はロストデジタルの影響で停波しておりますが、この地デジを再びアナログ放送に戻すことを決定しました」
「うおーっ!」
思わず大声を上げ、飛び上がった裕史をディレクターが睨み付けた。
「アナログ放送をいつ再開できるかということですが、東京タワーから電波を飛ばすことによって、完全とはいえませんが、比較的早期の実現が期待されます。問題は、現在、みなさまの家庭にありますデジタルテレビではアナログ放送は見られない、ということです。またアナログテレビであっても、最近の製品はコンピュータが使われていますので、やはり視聴できないのであります。ということは、中古品ということになりますが、その中古品も、一九七〇年以前のものでなければ受信は難しいと言われています。一九七〇年以前モデルとは、もう骨董品に近いものですから、多くの家庭が入手するには不可能と思われます。放送は再開しても、ハードが行き渡らないのでは、混乱は避けられない状況です」
このニュースが報道されると日本中が大騒動になった。電気量販店はアナログテレビの在庫を確保しようと、すぐに各方面に手を回した。コンピュータを取り除き、一九七〇年以前のモデルに改造しようというのである。日本国内で役に立たなくなっていたアナログテレビはアフリカや中東諸国などへ売られるか、正規に廃棄処分されているか、家庭の物置に仕舞われているか、不当廃棄されているかだった。
横浜埠頭から中東などへ向けて出航寸前だったアナログテレビを満載したオンボロ貨物船が船ごと日本商社に買われるというニュースが伝えられた。また、テレビが野積みされている各地に金の臭いを嗅ぎ付けた連中が向かった。さらに、古いテレビを買い求める人々で、日本全国の中古販売店、リサイクル店、古道具屋はいっぱいになった。だが、一九七〇年以前のテレビの在庫はほとんどなかった。たとえあっても、カラー調整がぼけたようなぼろぼろのテレビばかり。それでも、そんなテレビに十万円以上もの価格が付けられることもあった。
「家電天国・音屋」の店主・桜井は大型トラックを停め、降りた。うっそうとした木々が茂る、そこは青梅市山中にある桜井の倉庫だった。桜井は錆びた錠前を開け、分厚いドアを開けた。ちょっとした体育館ほどある倉庫に家電が山と積まれていた。くだんの一九七〇年以前のアナログテレビも二百台以上が整然と並べられていた。
翌日、「音屋」の前には長蛇の列ができていた。列は高島屋から新宿駅南口まで繋がっていた。店だけでは狭く、店前にテントで仮設店舗を作り、アルバイトを雇い、さばいた。桜井は2日間で2千万円近くを売り上げた。
テレビのアナログ本放送再開は十二月末が目標となり、各局はさっそく、準備を兼ねた実験放送を開始した、カラーではなくモノクロ放送だった。関東第一テレビでは以前、公開放送で使っていた東京タワーのスタジオで、取りあえず生の情報番組を開始した。プロデューサー兼ディレクターとして抜擢された裕史は張り切って、番組作りをした。最新のデジタルカメラは使えないので、局のアーカイブスに眠っていたアナログのターレット式カメラを使用した。カメラが少ないので、カメラワークには工夫が必要だったが、その稚拙さが、まるでテレビ創世記のような雰囲気を醸し出し、現場は楽しい雰囲気に包まれた。
だが、一般家庭にアナログテレビはほとんどなかった。そんな中、いち早く、アナログ放送を楽しんでいるのは押上の清子おばあさんだった。
「いいなあ、清子おばあさんのとこテレビが映って」
朝、智也、翔平、瑠璃香の3人が学校に行く前に清子おばあさんの家に立ち寄っていた。通りに面した窓に顔を押し付けるようにして3人は、うらやましそうに茶の間を覗いていた。清子おばあさんのテレビは昭和四十年代初期に製造された家具調テレビだ。今では博物館に陳列されているようなレトロタイプだった。認知症で一人住まいの清子さんはテレビがデジタルになったことも知らず、砂嵐でも構わず見てきた。それが、突然、またアナログに戻ってしまった。世間は大騒ぎだが、そんなこと何処吹く風、清子さんは何もすることなく、テレビを楽しむことができるのだった。
三人が教室に入ると、クラスが騒然としていた。女子の中には泣いている者もいた。
「おい、智也たち。藤木先生が亡くなったの知ってるか!」
誰かが智也たちに声をかけた。
「えっ、嘘でしょう!?」
「またまたからかうんじゃないよ朝っぱらから」
翔平が声をかけたクラスメイトにヘッドロックをかけた。
「瑠璃香ちゃんは知ってた?」
智也の質問に瑠璃香はかぶりを大きく振った。
「知らなかった。ショック…」
瑠璃香の目から大粒の涙がこぼれた。
始業のチャイムが鳴り、すぐに玉置校長と教頭の渡辺が沈痛な面持ちで教室に入って来た。
「起立!」
「はいはい、お早う。みんな座って。知っている人も多いでしょうが、担任の藤木先生が昨夜、押上駅で電車に跳ねられ亡くなりました」
教室中が大きくどよめいた。
「確かに。悲しい出来事ですが、みなさん、動揺することなく、行動してください。本日は、このクラスは二時間目以降、休校とします…」
瑠璃香は机に突っ伏していた。だが、涙は1滴もこぼれていなかった。心の底で思った。
「失恋くらいで死ぬなよ、アホ」
思わぬ休校に、智也、瑠璃香、翔平はしんみりとした表情で校門を出て来た。智也は泣いていた。すぐに、翔平がいつもの悪ガキの顔に戻る。
「なあ、すんごい情報が入ったぞ」
「何よ、こんな悲しい日に。笑顔なんて不謹慎でしょ」
瑠璃香が心にもないことを言う。
「駅前に質屋があるだろう?」
「相模家さん?」
智也が涙を拭って顔を上げた。
「そうそう。その相模家の前で街頭テレビが始まったんだって。ウチのママが言ってた」
「街頭テレビって?」
「なんか、歴史の本で読んだことある。映画みたいに、テレビをみんなで観るんじゃない?」
「え、お金払って?」
「いや、ただらしいぜ」
「じゃあ、これから行ってみましょうよ!」
「よし、行こう!」
「よっしゃ、俺様について来い!」
「偉そうに、相模家なんか誰でも知ってるわよ!」
「きゃははっ!」
さっきまで沈んでいた智也も破顔し、走り出した。
ロストデジタルから1ヶ月が経過。政府の首脳たちにも焦りが見えていた。首相官邸の会議室に福部首相、官房長官の森安多一郎、東京電機大学工学科教授で気象学者の末永保、そして総髪で白髪の和服の老人・超常現象研究家の沼袋作次が円形テーブルを囲むようにして座っていた。
白板に書かれた略図を指し示しながら、末永が言った。
「謎の黒雲が発生したのは、記録によると昨年の7月下旬ころです。初めは関東地方、その後、愛知、大阪、京都など大都市に発生、半年後には日本中に同様の雲が観測され、昨日現在の集計では百八個が確認されております。高度は約四千メートル~五千メートルと
いいますから、中層雲の仲間であると思われていましたが、これが不思議、発生以来、消えようとしないのです。もちろん、その間、天気はさまざまに変化していますが、あの黒雲だけは変わらず上空に漂っているのです。私は五〇年以上、さまざまな気象観測をしてきましたが、あのような異常な雲の事例は初めてであります」
福部首相が書類から目を離し、言った。
「そして、沼袋先生は、ロストデジタルの原因が、あの黒雲にあるのではないか、とおっしゃるのですね」
沼袋は大きくうなずいた。
「あの雲の正体は一体、何でしょうかね」
森安が末永と沼袋の両方に尋ねた。
「皆目、分かりません」
末永が即答した。
沼袋が全員を見回し、言った。
「私の理論がバカバカしいと否定なさいませんでしたら話しますが」
沼袋はジロリと森安と末永を見た。
「もちろんですとも。沼袋先生がどんな研究をしているか、私は知り尽くした上でお呼びしました。超常現象の研究は万人には受け入れられないものです。しかし、既に、私が依頼した科学者たちは、すべて脱落しました。この現象は、おそらく既成の科学者たちには到底、想像もつかない状態なのです。失礼、末永教授を侮辱するつもりはありませんので」
「はい、分かっております」
末永に詫びた後、福部はまた続けた。
「私、沼袋先生が、先生が主宰する会報にて、『黒雲の正体』という論文をたまたま目にしました。最初は仰天しましたが、ほかに解決の手がかりさえありません。先生、お話下さい」
「はい、分かりました」
ゆっくり立ち上がった沼袋が白板の前に立ち、話し始めた。
「あの黒雲は、我々の研究では一九九〇年代に既に、上空に現れ始めていました。まだ、ほんの小さいものでしたが」
「あれは何なんですか」
森安が苛立つように言ったが、沼袋は動ずることなく続けた。
「まあ、そう焦らずに。ここで私からの質問ですが、一体、デジタルとはいつ生まれたのか。またコンピュータはいつごろ発明されたかご存じですかな」
「モールス信号がデジタルという概念の始まりではないですかな、一八三七年のことです。世界初のコンピュータは第二次大戦後の一九四六年に生まれたと言われていますが」
末永が自慢げに言った。
「さすが、末永教授、よくご存じで。それに付け加えるなら、このモールス信号が発明されたことにより、アメリカでは馬で手紙を運んでいたポニー・エキスプレスの若者が職を失いました。そして、最初に発明されたコンピュータENIAC(エニアック)によっても、計算に長けた事務職の人間が何人かクビになったのです」
「それが、あの雲とどんな関係が…」
再び、森安が、イライラした口調で迫った。
「まあ、物事には順番がありますから。そして、このコンピュータは飛躍的に進歩し、一九八〇年代には、多くの電化製品に活用されます。次に、コンピュータが会社に入り、マイコン、パソコンという名で、ついには個人が保有するようになりました。このパソコン技術が携帯電話の発展に大きく関与しました。そして、今では全世界が、いや全人類が、このパソコン、デジタルの恩恵を受けるようになってしまったのです」
「そんなことは誰でも知っています。我々が知りたいのはあの雲の正体です…」
貧乏揺すりをしながら、森安が怒鳴るように言った。
「黒雲の正体は、いわば行き過ぎたデジタルが作った膿(うみ)のようなものでしょうか」
「デジタルの膿!?それは何かね」
福部が目を見張った。
「膿では分かり難いですかな。先ほど、話しましたアメリカ西部時代のポニーエキスプレスの若者たちはモールス信号の発明で職を失いました。それと同じように、現代ではコンピュータの発展の影で職を失った者、挫折した者たちが続出しました。そんな人間たちのストレスの集合体があの雲ではないか」
「ストレスが雲に?!」
森安の表情は明らかに沼袋を小馬鹿にしていた。
「デジタルのストレスによって亡くなった人々の想念が、もっと分かりやすく言うならば魂があの上空に集まり、黒雲となった」
「ばかばかしい!」
吐き捨てるように森安が言った。
「やはり、そうですか。では、私はこれで…」
深々と頭を下げ、退席しようとする沼袋を福部が止めた。
「官房長官、黙って聞くと約束したんですぞ。沼袋さん、続けて下さい。では、あの雲には何十年分もの間に、そのいわゆる、コンピュータやデジタルでストレスを感じ、それを呪って死んでいった者たちの想念の集合体だと、こうおっしゃるわけなんですね」
「はい、そういう見解です」
「でも、なぜ日本やアジアだけが…」
「これから徐々に、いや一気に世界に広がって行くでしょう。なぜかは知りませんが、先ず、病巣が日本に現れたのです。そう、膿というよりは、癌だと言えば、分かり易いでしょうか。このままでは早晩、世界中にあの黒雲は転移することになるでしょう」
沼袋は拳を握りしめ、さらに口調は強まっていった。
「今の世の中、ご覧なさい。パソコン依存症と携帯電話、スマートフォン依存症の人間ばかりです。子どもにいたっては、携帯電話中毒といってもいい。自分の命の次に大切なのが、親でもない携帯電話だという子が多いんですよ! これが異常でなくて何だと言うんです。幼くして携帯電話というパンドラの箱を開けてしまった子どもたちは不幸としか言いようがない。携帯電話に夢中になるあまり、周囲に目がいかないから、電車内でもお年寄りに席を譲ろうという発想自体が生まれない。その親も携帯電話で育ったものだから、それを注意することもしない。こうして、子どもたちにとって、今や自分の進むべき道を教えてくれるのは携帯電話となってしまった。そんな生きたまま死んだ子どもが日本中に溢れています。 その歪んだ精神から抜け出したいと思う生き霊もまた、彼らの肉体を離れ天に昇ったのです」
「そ、それが、日本上空で黒雲になり…」
「それは巨大なる負のパワーとなり、怨み骨髄であるデジタル機器を麻痺させるエナジーを地上に降り注いでいるわけであります!」
「首相、あなた本当に、こんな世迷い言を信じるおつもりですか!」
森安が福部の襟元を両手で握り、身体を揺すった。
「官房長官こそ落ち着いて。それで、沼袋先生、あの雲はいつ消えるんでしょうか」
「いや、それは私にも何とも」
「では、退治する方法はありませんか」
「それも…」
「ああ、こんな茶番につきあって時間の無駄だった。首相、私はこれで失礼いたします!」
こめかみに青筋を作った森安は、大股で部屋を飛び出して行った。
森安官房長官が「茶番劇」と評した秘密会議は、誰がリークしたのか、すぐにマスコミに知れることとなった。東京タワーにあるスタジオで生の情報番組を放送中の裕史は、それを伝える新聞を読んでいた。
<ロストデジタルの原因は異常気象か? 日本上空に居座る謎の黒雲はデジタル機器を麻痺させるエネルギーを地上に注いでいる?! 福部首相、打つ手なく、ついにオカルト研究家に相談か?>などの派手な見出しが躍っているのだった。
「ポーン、パン、ドドン、ドドン、ドン」
青空に花火が上がった。十月十日、今日は十間橋第二小学校の運動会だった。五月の体育祭とは違い、特に父兄と子どもたちの交流に重きを置いた催しだった。
二年生のマスゲームのために入場口に全員が集合していた。智也と翔平がしゃがんで合図を待っていた。
「おい智也、お前んちの老けた父さん、やっぱり来るのか。親子競争で、ゼーゼー言うぜ、きっと。恥かく前に、やめろって言っとけよ」
「うちのお父さん、そんなおじいさんじゃないよ」
「おい、みんな智也のおやじさんの歳知ってるか、ごじゅう…痛てえ!」
全部言い終わる前に、後ろから瑠璃香のげんこつが翔平の頭に見舞われた。
「翔平、いいかげんにしろよな! 智也のお父さんが町内守ってくれたの忘れたのか! 智也のお父さん、確かに六十前だけど、すごい体力だったじゃないか。自転車全力で漕いで、都内を走り回ったんだぞ。こんなこと、普通のお父さんじゃできないだろ! お前、これ以上、智也いじめたら、これじゃすまないかんな!」」
「わ、分かったよ…」
翔平が頭をさすったとき、「よーし、それではマスゲーム始まります。ゆっくり円の中に入って!」
急きょ、智也のクラス担任として赴任した、二十代の若々しい教師・吉田健介が号令をかけた。
「わあ、吉田先生、カッコイイ!」
うっとりとした顔で吉田を見つめる瑠璃香。既に瑠璃香の中には藤木への想いはなかった。
「智也、あなたあ、頑張ってぇ!」
父兄席にゴザを引き陣取った澄子が、二人三脚で走る穴見と智也を応援していた。智也たちは一着でゴールインした。
「やったあ智也ぁ!」
智也に抱きつく穴見に観客が沸く。
「もう、恥ずかしいなあ、お父さんは!」
そう言った後、ふとコースを見ると、最終ランナーの翔平と吉田先生が、まだゴールしていなかった。翔平は太っているので走るのが不得手だった。
「最終ランナーは田口翔平くんと新任の吉田先生のカップルです。さあ、みなさん大きな拍手を送りましょう。これで、親子二人三脚を終了します」
ゴールした翔平に智也が声をかけた。
「翔平くん、吉田先生と走れて良かったね」
翔平は、智也が肩にかけた手を振り払うと、無言で立ち去った。
「翔平くん…」
「どうした智也、友だちか?」
「うん…」
「翔平の家、パパがいないのよ。幼稚園の年長さんのとき、いなくなったんですって」
いつの間にか後ろにいた瑠璃香が言った。
昼休みになった。例年だと、運動会も給食だったので、父兄は昼食を用意することはなかったが、ロスト・デジタル以降、弁当制度が復活した。親の都合で参加できない子や両親のいない子のためには、女性教師たちが弁当を用意することになっていた。
「お母ちゃん!」
翔平は母親を探し、人ごみの中を走り回ったが、見つけることはできなかった。
「お母ちゃんのバカ!」
翔平は半べそをかきながら学校を飛び出した。
吉田は翔平を探していた。昼前に翔平の母親から弁当を預かっていた。翔平の母は、どうしても仕事を交代してもらうことができずに、運動会へは参加できなかったのだ。
吉田に気が付いた智也が稲荷寿司を頬張ったまま、走り寄った。
「翔平くんがいないんだ」
「もしかして、あそこかも」
「智也、心当たりがあるんだな。案内しろ!」
智也を先頭に吉田と穴見が走り出した。
翔平は、日曜になると必ず出かける場所があった。押上駅前にあったゲームセンターだった。だが、そのゲームセンターは、ロストデジタル以後、閉店してしまっていた。下りたシャッターには落書きがされていた。翔平はそのシャッターの前に力なく座った。そして、短パンのポケットにねじ込んでいたゲームを取り出し、ボタン操作をやり出した。むろん、ゲームは動いてはいなかった。それでも翔平は「ブーン、バビーン、キューン、ドドドドッ」と効果音を口にしながら頭に描いたゲームを始めた。
「翔平くん…」
智也、穴見、吉田たちがゲームセンター前の翔平を発見した。しかし、翔平の、その夢の中のゲームは智也が声をかけてもすぐには終わることはなかった。
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