漆 版下台紙も知らないのか

 ロストデジタルから1ヶ月が経った。小さな略奪などは各地で発生したが、恐れていた大きな暴動は起こらなかった。その要因は水道やガス、電気の復旧が意外と早かったからだった。

 固定電話はNTTがデジタル電話交換機をアナログに変えることに決定し作業に入ったが、その回線を使うには旧式の電話が必要。ところが、その旧式電話が調達できずに、全国で15パーセントしか通じなかった。そこで、その穴埋めのために、旧式電話と回線を使う公衆電話を各地に設置することになった。一方、ケータイは何をどうしても、まったく復活の兆しはなかった。ケータイは完全に死滅状態にあった。

 ラジオ放送を受信できるラジオは、主に一九七〇年以前に発売された、コンピュータが組み込まれていない機種に限ることが判明、中古家電やリサイクル店に人々が押し掛けた。しかし、そんな機種が残されている店は少なく、在庫があってもベラボーな値段が付けられた。

 鉄道各社ではコンピューター制御を止め、車両からもデジタル機器を取り除いたり、古い廃車を利用したり、また観光用のSLも現役復活する路線も現れたりして、全国で2割が復旧した。だが、飛行機は、とくに旅客機はほとんど回復のメドが立たなかった。

 また、自動車もコンピューターが使われていない機種に限り、動くことが分かった。そのため、かなり古い型、概ね、一九七〇年以前の中古車でないと、まともには走らなかった。自動車業界では急遽、古い設計図を元に昔の機種を生産しようと計画を始めたが、工場の生産ラインからもコンピュータをはずさなければならないので、なかなか、すぐ生産再開とはいかなかった。

 そんな状況の中、運送業界では馬車を使う会社が続出した。また、各地に白タクならぬ、無許可の乗合馬車が登場した。都内でも、そんな馬車がたくさん走るようになり、おかげで車道は馬の糞だらけになった。しかし、すぐにその糞を回収する業者が現れた。糞は肥料となり、農家などに売られるようになった。

 

 まったく、どうしようもないのは始まったばかりの地上デジタルのテレビ放送だった。この災害時にまったく役に立たなかったテレビ放送に、大きな批判が集まっていた。

 都内にある民放連ホールに各民放局の会長と代表、そしてNHK会長が集合していた。

「テレビ放送が停止してから1ヶ月。これほどの放送停止はテレビ放送の歴史始まって以来の大事件であります」

 先ず、口火を切ったのはNHK会長の長田文直だった。長田は数年前、不祥事が続き受信料の減収で引責辞任した前会長の後任で、テレビ放送のデジタル化を積極的に押し進めてきた人物だった。NHK内には、設備投資が莫大になるデジタル化には反対の声も多くあったが、NHKのイメージアップと受信料徴収の成果向上にも繋がると、強硬にデジタル化へと突き進んできたのだった。ところが、わずか2ヶ月で、その地上デジタル放送が頓挫してしまったのである。長田は焦りを隠せなかった。

「私は最後まで地上デジタルには反対だった。しかも、アナログ放送をいきなり止めたのはやはり拙速だった。デジタルが完全に世の中に定着するまで、アナログ放送は続けるべきだったのだ。私の意見を聞かないから、みなさい、このざまだ」

 長田を睨み付けるように話し始めたのは関東第一テレビ会長の鹿村孝だった。

「ま、最終的には私もデジタルに乗っかったのだから同罪だが。しかし、特にアナログ放送に問題があったわけでもなく、やはり単なる放送界の金儲けで事業を進めたのではないのか、という疑念はいまだに消えておりません。しかも、そのデジタルには欠陥があったではないか、という批判が噴出しております!」

 鹿村がテーブルに叩きつけた薄い四ページほどの新聞には「ロストデジタル一ヶ月。テレビ放送も消え一ヶ月、地上デジタルには欠陥が!?」という見出しが躍っていた。

 

 ロスト・デジタル以後、紙媒体のマスコミにも変化が起きていた。パソコンによるデータ入稿が当たり前になっていた現場は一時パニックになり、同様に印刷所も印刷不能になり、新聞は最近、ようやく発行を再開したが、一日置きで、しかも四ページというミニコミ紙のような状態になっていた。

これは、手書きの原稿をタイプで打ち直し、写植、版下を作成するというアナログ作業に戻ったためだった。このような工程は1970年代後半ころまでは普通に行なわれていたものだった。しかし、当然だが、今、その作業をできる人がほとんどいないため、各新聞社は、大慌ててで、昔の作業ができる人材確保に躍起となっていた。

 これは書籍や雑誌も同じで、週刊誌も毎週出るものは激減、大手のもので2週間に一度、それも8ページ程度の薄いものが発売されればいい方だった。

 

 民放ホールに集まった各局の代表を睨み付けるように鹿村が言った。 

「もう話し合いの余地はありません。ただちにアナログ放送を再開いたしましょう!」

 会場が騒然となった。

「一体、デジタル投資にどれだけかかってると思いますか!」

「あれだけアナログは停波すると宣伝し、やっとここまできたのに…第一、こ、国民が納得しないでしょう。国民のほぼ全世帯がデジタル対応のためにアンテナを建て、デジタルテレビを購入しているんですよ!」

 鹿村が長田をじっと見据えてた。

「いまさらアナログって、地方では潰れる局が出ますぞ」

 長田が紅潮した顔で言った。

「でも選択の余地はないでしょ。このままでは放送は休止したままだ。何の打開策もない。もちろん、また国民もアナログ受像機が必要になりますが、それも何とか、政府にお願いして補助金が出るように働きかけましょう」

「し、しかし…」

 そう言って立ち上がった長田を、さらに睨み付けた鹿村はゆっくりと言い放った。

「もう考慮する時間はありません。現在、放送は東京タワーを利用して発信しているFM放送だけなんです。まだ、全国をカバーしきれていない状況ですが、徐々に地方でも受信できるようになるでしょう。これはアナログだからこそ、早い復旧ができているのです。我々も、いち早く、デジタルを諦め、テレビ放送を復活しないと、既に地方自治体などでは有線で、アナログなテレビ放送復活に向けた実験が始まったところもあります。長田会長、まだ躊躇されますか」

 長田は唇を噛み、ドカリと椅子に腰掛けると、天井を見つめた。


「…ガソリンの値上げをする企業が現れましたが、すぐに回避されました。確かに石油の輸入は、この一ヶ月ストップしていますが、ロストデジタル以降、日本国中の車や航空機、船舶などの約八割が動かない状態です。これでは、ガソリンの消費量が増えるはずもありません。一時期、全国平均リッター千円を超えたレギュラーガソリンですが、現在では五百円程度に落ち着いています」

穴見はアンティークなラジオのニュースを聴きながらネクタイを結んでいた。

「こんな中、ライフラインの復旧はほぼ全域で終了しております。課題は公共交通機関の全面復旧と通信機能であります。JR東日本では、蒸気機関車を積極的に活用、また、引退しました0系の新幹線などの復活も視野に入れ、何とか庶民の足を取り戻そうと深夜まで作業が続いております。さて、通信分野でありますが、固定電話は全国で十パーセント程度の復旧が確認されています。あ、本日、品川駅前、新宿駅前に新たに公衆電話が設置されます。都内では、順次、駅前に公衆電話が設置される予定です。さあ。この辺で音楽をお届けしましょうか。次は映画音楽から。映画『道』より『ジェルソミーナ』、スリーサンズの演奏でどうぞ。冒頭部分に、ノイズがありますが、アナログ・レコードの傷によるものです、ご了承ください」

 昨日、これまでAランクだった国の非常事態宣言がBに降格、自衛隊の治安招集も一時、解除になり、穴見は一般市民に戻っていた。

 口笛を吹きながら穴見が降りてくると、丁度、庭では澄子が古めかしい大きな釜の蓋を開けたところだった。湯気がフワァと上がった。

「今日はいい出来みたいだなあ」

 穴見が木製の突っかけを履き、ブロックで造ったかまどの前に立った。

「だって、お釜でご飯炊くようになって一ヶ月よ。もう、飯炊きのベテランだね」

 穴見家の都市ガスは既に復旧されていたが、澄子は薪で炊く炊飯が面白くなっていた。

「米、まだあるの?」

「残り少ないけど、明日、自衛隊が配給米を町内会に運んで来る日だから」

「まるで戦時中だな…」

「思い出す?」

「アホ、さすがに俺も実体験ありません」

 澄子が吹き出しそうになりながら、炊きたてのご飯をおひつによそった。

「そうそう、駅前のスーパーが再開したんだって?」

「うん、品数すごく少ないけど、一人一点しか買えないようになってるから、早い時間に行けば、何とかなるかな。必要最低限のものしか買わないから、無駄が減ったかもよ」

「澄子が描いていた理想のエコライフが訪れたってわけか」

「良く言えばね。この生活、大変。洗濯機も動かないんだから。でもまあ、この不自由な生活を楽しまなければ負けよ」

「うん、さすが澄子だ」

 縁側に置かれたポータブル・ラジオから、時折「プツン、プツン」という雑音と共に物悲しい曲が流れていた。

「この曲ってモリコーネ?」

「いや、ニーノ・ロータだよ」

「そっか。イタリアは当たってた」

「テレビがない生活もなかなかいいもんだな」

「いやだあ、アニメ見れないし…」

 いつの間にか縁側に来ていた智也が膨れっ面になった。

「よし、次の日曜日は映画館に行こう。お母さん、映画館はやってるんだっけ?」

「なんかね、昔ながらの映写機を持ってた、下町の亀有の映画館だっけかな。そこでは、新作じゃないけどやってるみたい。上映作品は、『月光仮面大会』ですって。今の時代逆行現象に思いっきり便乗して、レトロで行くつもりなのね」

「月光仮面大会! よし智也、これは見のがせないぞ。行くか!」

「えー、何それ? 行きたくなーい!」

 智也が顔をしかめる。

「何、お前、川内康範先生の『月光仮面』を観たくないなんて、バチが当たるぞ」

「何、コーハンって? バチ当たってもいいよう」

「何、お前、耳毛の大先生のことを知らないのか!」

 穴見は智也をくすぐり出した。

「知らないよ、耳毛なんてぇ! くすぐったいやめてぇ!」

「お父さんも、もういい加減にしなさいよね。あれ、そういえばラジオは音楽どうやって流してるのかな」

「へへへ、もちろんレコードだよ。さっき、プツプツ聴こえただろ? 

オープンリールのテープも使ってるようだね」

「ずいぶん、ご機嫌なのね」

「この前、流れたアナログレコード全集の企画、やることになったんだよ」

「良かったわね! そうかあ、あれ以来、CDもMDもアイポッドも使えないんだもんね」

「だからさ、旧カタログの復刻だけじゃないんだ。新譜もレコードを出そうということになったんだ」

「うわあ、すごい。ということは、プリプリとかJポップも?」

「もちろん。でも演歌だけはカセット発売だけどな」

「お年寄りはデジタル時代になってからも頑固にカセットだったからねえ。なんの変化もなしか、なんだか面白いわね。そうだ、カセットで思い出した。さっき、お義母さんから手紙が届いたのよ六日もかかってね」

「やっぱり大変だったってか?」

 澄子が手紙を広げた。

「ううん。町内の人たちがだいぶ協力してくれたそうで、ほとんど不便は感じなかったんだって。でも、お義父さん、テレビが見られなくなって、すっかり意気消沈しちゃったんだって。でも、それ以外はほとんど、前のままだって。そうそう今月からはヘルパーさん、一日置きにやって来ることになったんですって」

「そうか…とりあえずは安心だな」


 穴見の会社は、ロストデジタルから一ヶ月、ようやく正式に就業を再開させていた。通勤のために押上の駅に行くと、何台かの乗合馬車と数台の旧式乗用車がバスロータリーを占拠していた。日産・セドリック、プリンス・スカイライン、トヨペット・クラウン、トヨペット・パブリカなど普段では滅多に見ることのないクラシック・カーばかりだった。車のオーナーたちは車自慢も少しはあるようだったが、ようは白タク目的であった。何しろ、ロストデジタル以降、コンピュータを使用している車はまったく動かなくなったのだ。

 押上駅はまだ閉鎖されていて、公営バスの復旧もされていないので、必然的に、そこからは、嫌でも白馬車か白タクを使わなければならなかった。公営バスの復旧は、穴見は飯田橋方面行きの馬車に乗った。白タクは異常な金額を請求されることが多く、まだ白でも、馬車の方が安心だったのである。

 客席には粗末な木製のベンチが両側にあり、天井のポールにはつり革がぶら下がっていた。その客車に四十人ほどがすし詰めになった。乗車する前に運転手に直接三千円を払った。高かったが仕方がない。何しろ、無許可営業の白馬車なのだ。いつもなら自転車を使っていた穴見だったが、今日だけは疲れていて、癪だったが、乗合馬車に乗ってしまったのだった。

 もともと、豚を運ぶために使っていた馬車は嫌な臭いがした。しかも、運転が乱暴でつり革に必死で掴まっていないと転倒しそうだった。つい、穴見はつぶやき、笑った。

「まるで家畜だな…」

 でも、穴見は、そんな状況がそれほど苦痛ではなかった。渋滞がないので排ガスが極端に減り、光化学スモッグが発生することもなく、「環境は格段に良くなった」と穴見は思っていた。もともと、アナログ派を自認する穴見としては、「こんな世界も悪くない」と、心の中で思うのだった。

 飯田橋で穴見は馬車から解放された。駅前では炊き出しが行われていた。ロストデジタル以後、パソコン主導からアナログな体制に戻せない企業が続出、バタバタと倒産していた。街には、そんな会社から放り出され職を失った“ロスト・デジタル難民”が溢れていた。

 そんな人々にカレーを振る舞っていたのは、黒ずくめの制服を着た連中だった。背中にはBKRの文字が見えた。文明後退幸福連合会のメンバーだった。彼らも馬車に大きな鍋を積んでいた。また、それぞれが乗って来たらしい馬が十頭ほど繋がれていた。

「あなたも、カレーいかがですか? 材料はすべてウチの農場で獲れた安全な食材を使用しています」

 ぼんやりと集まりを見ていた穴見にカレーを差し出したのは、以前、新宿駅前で演説をしていた脇坂謙太郎だった。

「あ、ありがとう。でも、僕はこれから会社に行きますので。ボランティア活動、ご苦労様です!」

 今日は自衛隊の服装ではなかったが、つい、この一ヶ月の癖で敬礼が出てしまった。

 脇坂も、慌てて、踵を揃え、敬礼を返した。

「あなたも、自衛隊経験者ですか」

 穴見が脇坂に訊いた。

「あなたも、その敬礼は本物ですね」

「私は朝霞駐屯地に3年。大昔の話ですよ。今は予備自衛官を続けていますが」

「そうでしたか。私は帯広で十年。脇坂謙太郎です、先輩、よろしくお見知りおきを!」

「いや、こちらこそ。私は穴見昭一、普段はレコード会社勤務の平凡なサラリーマンですよ。以前、新宿であなたの演説を聞きましたが、何だか、あなたが言ってたような世界になったんじゃありません?」

「え、そう思われます?」

 思わず脇坂から笑みがこぼれた。

「だって、パソコンもケータイも使えないし」

「はい、理想的です」

「でも、まさか馬車が復活するのは提唱してなかったでしょう?」

「ええ、そこまでは。予想外、想定外の展開です。でも、これをきっかけに我々、文幸連の主張が正しかったことを、迷わずに推進することができます」

「私も、大きな声じゃ言えないが、結構この不便を楽しんでましてね」

「ご賛同、感謝いたします。すぐに、ウチのパンフレットを持ってきますので、先輩、ぜひ、文幸連に入ってください!」

「いやあ、それは勘弁して、ははは」

「そう言わずに、先輩、お願いします!」

「会社、遅刻しちゃうから、とにかく、脇坂さん、会には入れないが、ボランティア活動、誰でもできることではありません。応援してます、じゃ、また機会があったら!」

「我々の本部は西多摩郡にあります。広大な土地で農作物を作り、酪農もしています。食うにはまったく困りません。これからの世の中、生き残るには農耕と武力です。先輩、ぜひ、お待ちしております!」

 脇坂の熱烈な勧誘の声を背中で聞きながら、穴見は飯田橋駅に向かった。自動券売機は使用中止の札がかかっていたので、駅員のいる売り場に並んで買った。料金は、値上がりはしていなかった。その切符を持ち改札へ行くと、やはり自動改札は使用中止で、代わりに鋏を持った若い駅員が慣れない手つきで切符を切っていた。

 その間、十五分もかかってようやくホームに出て、有楽町線に乗った。有楽町線は博物館に展示されていた古い車両を現役復帰させ、運行を再開していた。もちろん、本数は前よりだいぶ少なく、一時間に一本しか運行していなかった。

 車内はほぼ満席だったが、珍しく優先席には、初老の男女が二人座り、片側一は空いていた。

「ほお、珍しいこともあるもんだ。いや、実に爽やか」

 穴見が一番ホッとしたのが、車内に誰一人として携帯電話を持つ者がいないことだった。これが一ヶ月前なら、車内中で、まるで位牌のような形の携帯電話を拝むようにしている人々で溢れていたからだ。「携帯電話依存症」、「携帯電話教の信者たち」と穴見はこんな連中を目撃すると、いつも心の中でそう思っていた。

 そして、この連中が携帯電話ばかりと向き合ってばかりいるので、公衆道徳が崩壊したと穴見は思っていた。いや、決して道徳がないわけではない。携帯電話に気を取られるあまり、周りに関心がなくなったのだ。周りを見ないから、老人に席を譲ることなどという発想自体がなくなった。携帯電話とは向き合うが人とは向き合えない。特に、若年層にはそんな人間が増えてしまったと思っていた。

 穴見はつり革に左手で掴まると、右手ですっかり薄くなった新聞を持ち読み出した。

「おや?」

 中央のドア前にペたりと座り込む女子高生がいた。短いスカートからむき出しの細い脚が露出しているがお構いなし、パンツも丸見えだった。しかも、その女子高生の右手には携帯電話が握られていて、ひっきりなしに親指でボタンを操作しているのだった。

「メール? え、ケータイが使える?」

 驚いた穴見は女子高生のそばに歩み寄った。その女子高生はガリガリに痩せていた。

「ねえ、そのケータイは使えるんだ?」

 質問した穴見を見上げた女子高生の顔はひどかった。やつれた顔にめちゃくちゃのメイクがしてあった。付けまつげはズレ、真っ赤な口紅も口の周りにまで引かれ、子どもの落書きのようになっていた。

 穴見は驚いたが、それは化粧ばかりではなかった。女子高生は一ヶ月前、ロストデジタルになった日に乗り合わせた女子高生・大崎樹里だったからだ。しかも、携帯電話の画面は真っ黒、起動してはいなかったのだ。

「き、きみはあのときの!?」

「おじさん、だーれ? 知らない…」

「や、痩せちゃったけど、ど、どうした?」

「え、だれが? ウザイ、おやじ、関係ねーだろ」

 樹里は穴見を避けるように立ち上がり、歩き出した。しかし、その足取りは年寄りのように不安定でよろよろとして今にも転びそうだった。

「ほら、転ぶぞ。座りなさい」

 穴見は、樹里の細い腕を取ると、空いていた優先席に連れて行き、座らせた。

「こんな状態なら優先席、堂々と座れるな」

 そんな穴見の言葉など樹里は聞いていなかった。動かない携帯電話で必死にメールを打つ仕草を止めなかった。

 江戸川橋駅で降りた穴見は、走り去る電車を見送った。車窓から、まだ仮想メールを打ち続けている樹里の姿がチラリと見えた。ため息をついた後、改札に向いながら、周りを見てぎょっとした。すっかり精気をなくした女子高生たちが、可動しない携帯電話を恨めしそうに見つめながらゾロソロと歩いていたのだった。


 レインボウレコード第三企画部で、穴見は楽曲のリストを見つめていた。

「音源はともかく、ジャケットが不明のものが十曲近くか。これ

はもう、コレクターにあたるしかないかなあ。おい、菊池!」

 向いに座っていて、居眠りをしていた菊池が飛び起きた。一ヶ月前、念願の第一企画に異動したばかりの菊池だったが、ロストデジタル以後、CDやネット配信が不能、新譜は、ほぼリリースができない状態になり、第三企画に出戻っていた。

「今度の全集に収録される二百曲の発表年や時代背景などを今週中に作ってくれないか」

「ええっ。インターネット、使えないじゃないですかあ。どうやって?」

 穴見がこめかみをピクリとさせて怒鳴った。

「て、てめえ、ネットがねぇと何にもできねぇのか。古本屋でも図書館でも、大宅文庫も再開したんだ、どこでも行って、さっさと調べて来やがれ!」

 ロストデジタル以後、オフィスの様相は一変していた。一番の変化は、もちろん各人の机にあったパソコンが消えたことだった。ワープロも使えないので、手書きになった。書類が複数枚必要なときには、蝋紙に鉄筆で書く謄写版が使われた。謄写版も、むろんすぐに探せず、穴見が知り合いの古道具屋で見つけてきたものだった。一枚一枚、インクのローラーをこすりつける謄写版はまだ良かったが、手動回転式は三回に一回の頻度で紙が絡み付くような代物だった。

 電話はアナログ回線で何とか全国的に通じるようになったが、回線も電話機も少なく、レインボウでは各フロアに一台しか設置されていなかった。その電話が鳴った。

 穴見にどやされ、部屋を出て行こうとしていた菊池は、その電話を取り、穴見に叫んだ。

「穴見室長、世界音盤の神戸さんから電話です!」

「おう!」

 穴見は十五メートルほど走って、菊池から受話器を受け取った。

「はい、穴見です。そうですか、レコード生産の体制が整ったんですね。良かったあ。神戸さん、良かった」

 ロスト・デジタル以後、デジタル録音された音源はすべて、再生は不能だったが、主に一九七〇年以前に録音されたものはマザーテープがあれば、やはり古い機械を使えば、再生は可能なのである。また、マザーがないものでも、保存状態の良好なアナログレコードで復刻は可能なのであった。

 日本で唯一、アナログレコードをプレスできる世界音盤化学工業では、昭和四十年代まで現役だったプレス機をメンテナンスし、すぐにでもプレイできる状態になったのだった。

「上村、音楽評論家とコレクターのリストアップは済んでるかな?」

「はい。さっき机に置きました」 

 二つ隣に座っている上村響子が穴見の方を向き言った。

「サンキュ。さすが上村女史は仕事が早いねえ」

 穴見は会社専用の封筒を開け、中から2つ折りになった紙を広げた。それは手書きの文章で、謄写版刷りされたものだった。

〈拝啓。突然勝手なお手紙をお送りします。私はそちらの会社で昨年まで社員だった大原さゆりさんの友人です。ご存じのように大原さんは今年、そちらを退社後、亡くなりました。公になってはいませんが自殺でした。彼女は鬱病になっていましたが、その原因はお宅にまだ、現役社員として、のうのうと働いている研究部二課の須田要です…〉

 穴見は、そこまで音読して、ハッとし顔を上げた。そばに、別の封筒を持った上村が立っていたからだ。

「ごめん、上村、これ読んじゃった」

「いえ、こちらこそすみません。お渡しする書類を間違えてしまいました…」

 

穴見と上村はレインボウレコードの屋上にいた。

「そうか、友人がそんな死に方をしていたのか。夫の暴力か…」

「最初は、メールで送りつけようとしました。送り主が分からないようにマンガ喫茶で仮のメールアドレスを取得して…」

「うまくいったの?」

「いいえ。送信寸前に…」

「ロスト・デジタルになった。それで、新たに手紙を書いたというわけか」

「はい。でも、それ、仕事中に書いたのではありません」

「それは分かっている。でも、上村、これを送りつければ、君の心は晴れるのか」

「分かりません。でも、公になれば、あいつは、須田は少なくとも左遷させられてこれ以上昇進することはないでしょう」

「それはどうかな。そんなうまくいくかな」

「それはやってみなければ分かりません」

「そうか。もう私から何も言うことはない。ただ、友人を思うのはいいが、自分も大切にしろよ、な」

「すみません、室長…」

 手紙の入った封筒を手に、上村が踵を返した。


 女子高生の大崎樹里も屋上にいた。音羽精華女子高等学校で一番高い時計台のある校舎の屋上にいた。一時間目の授業に遅刻した樹里は二時間目もさぼり、屋上で何も反応しない携帯電話でメールを打つ作業を果てしなく続けていた。

「ねえ、これだけあたしが打ってるのに、みんななんで返事くれないのよ!」

 樹里は足下の空き缶を思い切り蹴った。空き缶は大きな音を立てて転がっていった。

「ママもパパも、愛子も、由利も、結奈も、舞香も、啓介も、大造も、みんなみんな大っ嫌いだあ! それに、お前も、一番の友だちだと思っていたお前も大嫌いだ!」

 樹里は持っていた携帯電話に向って叫んだ。

「ケータイが使えない世の中なんて、耐えられない…」

 ふらりと立ち上がった樹里は靴を脱ぎ、金網のフェンスをよじ登り始めた。

「一緒に死んでよ、ね」

 そう携帯電話に言うと、樹里はフェンスの外側に越え、ダイブした。

「グシャ」

 頭蓋骨が割れる鈍い音がした。樹里は音羽台精華女子高等学校創立九十周年の碑のそばに落ちて息絶えた。だが、携帯電話は無傷だった。なぜなら、携帯電話は樹里の両手でかばうように優しく握られていたからだった。


 澄子は都営地下鉄神保町駅を降りた。以前なら押上駅から、たっ十五分の道程だったが、乗り換えで三十分も待たされ、ようやくやって来た車両も不具合があるとかでノロノロ運転。結局、一時間以上かかって到着したのだった。

「やれやれ。でも、贅沢は言えないね」

 そうつぶやきながら澄子は階段を昇り、地上に出た。そこは神保町の交差点だ。岩波ホールの映画看板の前に設置された仮設公衆電話の前には長蛇の列ができていた。

 澄子は、その光景に驚きながら目の前の白山通りを集英社方向に歩き、その裏手の路地に入った。路地のゴミ集積所は山のようにゴミ袋が積んであり、カラスが群がっていた。区によるゴミ収集は再開されたが、まだ週に一度と少ないために、街からゴミが消えることはなかった。澄子は、ゴミの異臭に鼻をつまみながら、ある小さな雑居ビルに入った。

『夕焼け堂出版』の小さな看板がかかった木製のドアを開け、中に入った。事務員の中年女性が応対する。

「社長は今、面接中ですので、少しお待ち下さい」

「はい」

 澄子はうながされるまま、古めかしい長椅子に腰かけた。そこはパーテーションで仕切っているが、一メートル先では数人の社員が机に向っていた。既にパソコンは片付けられ、隅に山高く積まれていた。建物も昭和三十年代からのものなので、パソコンのないその編集部は、まるで古いモノクロ映画で見た、一シーンのように感じられた。

 編集部の隣にある六畳の部屋が社長室兼応接室だった。社長の音喜多耕造はタバコをくゆらしながら、前に座る青年に話した。

「君がこれまで2年間経験したっていうデザインはパソコンを使うDTPでしょ? 版下台紙は使ったことないの?」

「はい、まったく…」

 答えた青年は相沢裕介だった。入稿寸前のデザインがあのロストデジタルによって無となってしまっていた。以来、相沢には仕事が来なかった。ロストデジタル以降、編集作業はすべて三十年ほど前のアナログ作業となってしまっていた。相沢には、そのアナログな編集作業が全然理解できなかった。以前勤めていた会社を訪ねたが、編集者の募集はない、と断られてしまっていた。そこで、雇ってくれる出版社を毎日、探し歩いていたのだった。

「それじゃあダメだよ。ウチでも求人広告出したけど、見た?」

 音喜多は新聞に載った求人広告を相沢に示した。そこには「編集者&デザイナー募集、年齢不問。ただしデザイナーは版下制作経験者に限る」と書かれてあった。

「それに、君は字も汚いし、誤字も多い。これじゃ、今の世の中、使いもんになんないよ。悪いがほかを当たってくれ」

 音喜多に突き返された履歴書をカバンにしまい、相沢はうなだれながら部屋を出た。

 すれ違いに澄子が入って来た。

「やあ、穴見さんお待たせ」

「やっと完成しました。すいません、お待たせして」

 椅子に腰掛けるや、バッグから原稿の束を取り出し、音喜多に手渡した。

「でも、あのとき、締めきり守ってもらっても、こちらが全然身動き取れなかった。やっとですよ、昔のアナログな編集体制に戻れたのは」

 音喜多はゆっくりと原稿をめくっていった。

「アザラシなかちゃん。いいねえ、やっぱり手書きは」

「そうですね。私もすっかりパソコン原稿に慣れてしまって、手書きをやめていましたが、手書きにしたら、また別の発想も沸いてきて。ところで、この原稿は、この後…」

「写植ですよ。文字盤から必要な文字を選び、写真に撮って、原稿と同じように並べ、それをオフセット印刷するんです。いやあ、僕が入社したときみたいですよ」

「大変ですね」

「これがね、最初は面倒臭いと思ってましたが、今はなんか、本を作ってる!っていう、こう実感がすごくあって、僕は嬉しい。でも、社員はブツブツ言ってますけど、ハハハハ」

「さっきの方、そのアナログ編集ができるんですか」

「ああ、さっきの彼。採用しませんでした。二十代から三十代前半のパソコンで育った若い人はダメだねえ。即、戦力にするには年配者で経験のある人だと思うんです。どんどん採用しますよ、年寄りを、ハハハハ」

 

 相沢は肩を落とし、猫背を一層丸くしてギシギシと軋む木製の階段を降りて、通りに出た。尻のポケットからしわくちゃになったタバコの箱を抜き、残っていた一本を取り出し口にくわえた。そして、ライターで火を点けながら、音喜多に言われたことを思い出した。

「パソコンでデザインができたと勘違いしたんだよ。きみが二年間、デザインだと思ってやってきたことは、たぶん、ただ並べただけ、配置しただけだったんだな。デザイナーじゃなくてオペレーターだな。ま、どちらにしても、これからはアナログ作業ができないと、通用しないよ」

 音喜多の容赦ない言葉が相沢の心を抉った。

「でも、当たってる。言われて当然だ…」

 煙を大きく空に向けて吐き出し、歩き出そうとしたとき、右足が何かにぶつかった。それは粗大ゴミとして出されたパソコンだった。相沢は、その、今はがらくたと化したパソコンをいつまでも見つめた。

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