陸 予備自衛官は戦場へ行ったか

 穴見は多くの乗客たちと共に、電車を降り、暗い地下の軌道内を歩いていた。

 電車が止まったのは、十五分前、丁度、都営浅草線内で父・源太

郎からの初メールを受信したときだった。

「おいおい、本当に源太郎さん、メールをくれたよ」

 穴見は、面倒くさそうにメールを開いた。

〈どうだ、わしのメールは届いたか。すぐに返信せよ〉

「たく、すぐに返信せよ、じゃないよ。こっちはメール苦手なんだよ」

 ブツブツとひとり言を言いながら、慣れない手つきで文章を作り、送信のボタンを押した。携帯電話の画面に〈送信しました〉というメッセージが出た瞬間、突如、電車が止まったのだった。

 ようやく駅が見えた。浅草駅だった。線路からホームによじ上り、停止しているエスカレーターを昇った。

「ひええ、車も止まってるのか。歩くしかないな」

 地上は舗道と車道の区別がなくなり、歩く人々で埋まっていた。車道には乗り捨てられた車が延々と列をなしていた。その車を縫うように数台の自転車が通り抜けて行く。その中に紛れて、一台の人力車も客を二人乗せて走っていた。普段は雷門の前で観光用に営業している人力車のようだった。もちろん、乗っているのは通勤帰りのサラリーマン風だった。

 穴見は押上方向へ歩き出す集団の中に入った。右手にはさっき買ったレコードプレーヤーの大きな箱が下がっていた。

「ケータイ通じないなんて信じらんなーい!」

「アイポッドも全然ダメだ」

「記念に写真撮って」

 若いカップルの男が、ピースサインの女にケータイを向けた。

「ああ、ダメだな。まったく反応しねえ」

「肝心なとき役に立たねえなあ」

「今日、充電したばっかりなのになあ」

 結局、男は写真が撮れずに、首を傾げながら女と歩き去った。

「バタバタバタッ」

 乗り捨てられた車の間をオンボロの三輪トラック・ミゼットが縫うように走り抜けていく。

「おい、押上まで乗せてくれよ!」

 中年男性が近寄るが、ミゼットはスピードを緩めることなく走り去った。

「へえ、車が全部走らないわけではないんだな」

 穴見の後ろを歩いていた穴見と同年輩風の男性が声を上げた。

「千歳空港で着陸寸前の旅客機が制御不能になり、胴体着陸しましたよ」

 男性はイヤホンでラジオを聞いていたのだ。

「テレビは映らないようですが、ラジオは聞こえるんですね」

 穴見が男性に話しかけた。男性はショルダーバッグから弁当箱くらいの旧式ラジオを取り出した。

「さっきまで何にも聞こえませんでしたが、ようやくFMのNHKだけかな」

 それは、穴見の家にあるのと同じタイプのラジオだった。

「それと同じ年代のもの、僕も持ってますよ。たしか一九六九年かな。受験のころ、深夜放送をよく聴いてましたよ。物持ちいいですね!」

「ははは、昔はこれでも小型でしたが、今じゃ、でかくて重い。でも、壊れないし、第一、もったいないでしょ。女房は恥ずかしいから、そんなもの、持って歩かないでって言うんですが」

「いいなあ、そういうの。僕の主義にも合ってる」

「そうですか、とんだところでこの旧式ラジオが日の目を見ましたな。しかし…まさか有事ということは?」

「ま、まさか…」

 とは言ったが、穴見には特にそれを否定する根拠もなかったので口ごもってしまう。

 前方に交番が現れた。警官二人を何十人もの人が取り囲んでいる。

「おまわりさん、いったい何が起こったんですか!」

「それが良く分からないのです。ただ、電話も不通、電気も停電、パソコンもまったく駄目。パトカーも動きませんので、我々もまったくお手上げです。暴徒が出る可能性もあります、とにかく速やかにお宅に帰り、戸締まりしてお休み下さい。それでは、お気をつけて!」

 警官たちは、何もできず、ただ、人の交通整理をするだけだった。 穴見はふと空を見上げた。晴天で星空が拡がっていたが、不思議なことに例の黒雲だけが、その中で異様に渦を巻いていた。押上駅の前にたどり着いた穴見は、急に走り出した。


 穴見が家に着いたのは午前二時を回っていた。辺りは真っ暗だったが、穴見の家だけは居間にボンヤリと灯りが見えた。玄関をノックすると、すぐに家の中から澄子の声がした。

「どなたですか? 山」

 穴見は声を押し殺して呼応するように言った。

「川。山川豊だ」

「あなたお帰り!」

 鍵が開き、澄子が顔を見せた。

 穴見と澄子は日頃から、冗談で合い言葉を愛用していた。穴見が少年時代に熱狂したNHK大河ドラマの「赤穂浪士」で浪士たちが盛んに使っていた合い言葉「山」「川」を、深夜帰宅するときに「山、川」さらに「山川豊」とアレンジして楽しんでいたのだった。

「おい、澄子、大丈夫かあ!」

「お帰りなさい。あなた、大変でしたね」

「智也は?」

「もう寝ました。家は特に何も…」

「周りは停電なのに、なぜウチだけ?」

 居間の床に、刑事ドラマで見かける裸電球の電気スタンドが置かれていた。

「ソーラー発電よ」

「そうか、すぐに消そう。ウチだけ目立っている。誰かに狙われんとも限らん」

 澄子は頷くと、居間の電気を消して、懐中電灯を照らした。

 智也がソファで寝ていた。

「エアコンもダメなのか」

「冷蔵庫もよ。それに水道もガスも止まってる」

「電気があっても、動かないものがあるのか」 

 穴見は2階の自分の部屋に駆け上がり、オーディオのスイッチを次々に入れた。

「あらら、全部平気みたいだな。あ、CDにMDがだめか。

あ、DVDもだめか。あ、あれがあったなラジオ」

 穴見は戸棚の奥からトランジスタ・ラジオを取り出した。

「さっき、一緒に歩いた初老の男性がこれと同じラジオ持ってたよ。どうも、古い機種ならラジオ聴こえるみたいなんだ」

「そうなの? 早くスイッチ入れて」

 穴見がチューナーを回すと、ある周波数で緊迫したアナウンサーの声が流れた。

「番組の途中ですが、緊急ニュースをお送りします。午後十時三十五分ころ、都内各地で停電が発生いたしました。原因は判明しておりませんが、パソコン機器が一斉に可動しなくなったという情報も入っておりますので、その影響があると思われます。また、テレビ放送も全面的に視聴ができない状態になっているようであります。このラジオ放送もお伝えしてはおりますが、皆様の元に届いているかどうかは不明であります。この放送を受信できた方は、できるだけ多くの方々にこの情報をお伝え下さるようお願いいたします。現在、我々の調査では、主に最新の機器がまったく使用できない状況にあります。原因はまったく分かりませんが、とにかく緊急に、倉庫に眠っていました旧式のマイクロフォンや発信機器を復活させ、放送をしております」

 穴見と澄子は一言も聞き逃さないぞ、という顔でラジオに顔を近づけている。

「さて、携帯電話ですが、やはりほぼ全機種、全地域において、現在不通となっています。固定電話も、やはりほとんどの地域で不通状態となっています。時間をおいてからかけるようにしてください。交通状況ですが、東京都内の電車、地下鉄も現在、同時刻より全面ストップしています。多くの乗客が電車内に閉じ込められている可能性があります。道路状況ですが、バス、タクシー、トラック、また一般車などほとんどの車両が道路上で動かなくなっています。一部、事故を起こした車両もあるようですが、救急車両も動かない状況ですので、救急隊は自転車などを利用し現場へ向う模様です。あ、たった今、入った情報ですが、羽田空港と成田空港、また関西空港で、一部、飛行機に不具合が生じ、空港へ引き返したそうです。あ、成田空港では着陸に失敗した飛行機が炎上し、乗客が避難しているというニュースも飛び込んできました。みなさん、まだ詳しい状況が分かっておりませんが、テレビ放送、パソコン、携帯電話が現在、使えない模様です。みなさま、できるだけ家から出ないようにして下さい。繰り返します、本日、午十0時三十五分ころ…」


 穴見はラジオを置き、例のレコードプレーヤーを箱から出すと、レコードをかけた。

「あなた、こんなときにまたプレーヤー買って来たの?」

「別にこんなことになると思っちゃいないよ。安かったんだよ。たったの4千800円」

「本当かしら。へえ、レコードプレーヤーは動くんだ。この曲なんだっけ? 昔からあなたこれ好きよね」

 澄子は小首を傾げ、目を細めながらレコードジャケットを見る。

「ああ、そうそう『太陽の誘惑~ホワット・ア・スカイ』だ。イタリア映画ね。何だか題名も曲も官能的でエッチよねえ」

「ははは、だからイイんだよ」

 安堵の表情を浮かべた穴見は、部屋の隅に置いている古ぼけた小さな冷蔵庫のドアを開けた。中にはビールがしこたま入っているのだ。

「あれ、この冷蔵庫は生きている。なんでだ?」

 穴見は缶ビールの蓋をクイと開けると、一気に喉に流し込み、お気に入りのアンティークなソファに深く腰かけた。「太陽の誘惑」がサビの部分に入り盛り上がってきた。ふと、外が騒々しくなってきた。穴見は立ち上がり、窓から前の道を見下ろした。数十人の警官が隊列を組んでザッ、ザッ、ザッと靴音を響かせ通り過ぎていった。そのまま、今度は空を見上げると、例の黒雲の渦が一段と回り始めたように見えた。

「ホワット・ア・スカイ、何てえ空だ」


 山手線外回り。新橋~浜松町間で停車した電車内は真っ暗となり騒然としていた。やがて、車内灯が付き、落ち着きを取り戻した乗客は、ドアや非常口を手動でこじ開け、線路に降り始めた。

「カメラさん、撮って。スクープだよ!」

 裕史は、線路に降り出した乗客を撮るようにカメラマンに指示した。だが、カメラマンは、首を横に振った。

「カメラが動きません」

「え、そんなあ。バッテリー替えてよ」

「さっきからやってますが、全然ダメですね」

完全に諦め顔のカメラマンに業を煮やした裕史は、自分のショルダーバッグから八ミリカメラを取り出した。震える手を落ち着けながら、フィルムのカセットを装填し、カメラのシャッターを握った。

「ジジジジジ…」

「う、動いた!」

 裕史は、八ミリカメラを手に電車の外へ飛び出した。暗闇の道を走り続け、関東第1テレビ局にやっとたどり着いたときは二時間が経過していた。放送局内も大部分は停電していたが、一部は発電機で灯りが灯っていた。報道局に駆け込むと、八ミリからフィルムのカセットを取り出し、一人のディレクターに声をかけた。

「停車した山手線から非難する乗客の様子を撮りました。ビデオカメラがことごとく使えないようですが、八ミリを回しました。おそらく事故の瞬間をムービーで押さえたのは、ウチだけです。すぐに現像すれば、朝一のニュースに使えます!」

 息せき切って話しかけた裕史だが、ディレクターの反応は鈍かった。

「せっかくのスクープ映像だけど。放送できないんだ」

「なぜですか!」

「知らんのか。見ろよ、こんな状態が続いて五時間になる」

 あきらめ顔のディレクターが普段は各局のテレビ放送が常に流れている何台ものモニター画面を指差す。その画面はすべて砂嵐だった。

「サーバーもウンともスンとも言わない。このままだと過去の映像もすべておじゃんになる可能性がある」

「でも、局のデータはバックアップの会社が」

「その会社と先ず連絡が取れないし。これじゃあ、その会社のサーバーだって使えるかどうか。いやあ、この状態じゃ無理だろ」 

 悲痛な面持ちのディレクターに、裕史もようやく事の重大さに気付き始めたのだった。

 

 朝七時になった。ラジオの音楽が止み、男性アナウンサーが話し始めた。その声に穴見と澄子が目を覚ました。智也はまだ眠ったままだった。

「臨時ニュースです。福部総理大臣より、昨夜全国中で発生した災害につきましての報告があります」

 穴見と澄子は不安な表情で顔を見合わせた。

「総理大臣の福部安太郎です。昨十時半ころ、我が国は予期せぬ災害に襲われました。国民のみなさん、この状態は日本全国に起っているのです。当初は、単なる停電かと思われていました。しかし、旅客機が二機墜落、三機が不時着、また電車は止まり、車も動かなくなりました。また、現在、みなさまの家庭のテレビもパソコンも停止状態だと思われますが、この状態が全国で発生しているのです。もうお分かりのように固定電話、携帯電話も通じません。電気のほかに、都市ガス、水道も停まっている地域もあるようですが、現在、復旧活動を急いでおりますが、何しろ、車などの移動手段もほぼ断たれております。つまり徒歩で現場に向かわなければならず時間がかかっています。今、しばらくご辛抱をお願いいたします。さて、御心配な国防面ですが、現在確認作業中ですが、他国による我が国へのサイバー攻撃という情報は今のところ確認できていません。しかし、もちろん、大事をとって、自衛隊とアメリカ軍が合同で緊急配備を始めております」

「え、本当にサイバー攻撃じゃないの?」

 穴見は信じられない、という顔をした。

「原因は、現在、特別班を結成し、鋭意調査中でありますが、詳細は分かっておりません。ただ、パソコン、携帯電話、そして今年完全放送が始まった地上デジタル放送などがまったく不能となってしまいました。 これまでの状況で、ある共通要因が指摘されています。それは、このラジオ放送は完全アナログ放送で発信しておることからも分かるように、デジタル機器がことごとく全滅したと思われます。つまり、ラジオも、最新機器では受信が不可能と思われます。ですから、この放送を聴かれている国民のみなさんは、たぶんごく古いラジオをお持ちの方々と思います。ですから、この放送を受信された方々は、この緊急ニュースをできるだけ多くの人々にお伝え下さい」

 福部首相の演説が終わり、再び男性アナウンサーが話し出した。

「福部総理大臣のお話でした。引き続きまして、今後の交通状況や電気、水道、ガスなどの復旧状況をお知らせします」

 起き出した智也も首相の話を聞いたのか、穴見と澄子の顔を真剣な眼差しで見つめた。


「この際だ。智也、キャッチボールするか。これじゃ、会社休むしかないからな」

「それより、朝食をどうするかよ、のんきね二人とも」

 また、ラジオのアナウンサーが声を張り上げた。

「緊急連絡です。この放送を聴いている予備自衛官の皆様、治安招集が発令されました。ただちに、お住まいの住所に一番近い駐屯地へ赴いて下さい。繰り返します、全国の即応予備自衛官、予備自衛官、及び予備自衛官補の皆様、治安招集が発令されました…」

 穴見の顔に緊張が緊張でこわばった。それを察した智也が目を見張り、澄子の顔が曇った。

「あなた、治安招集って!?」

「ああ、行かなきゃならん」

 

 五分後、二階から穴見が降りて来た。穴見はグリーンを基調にした迷彩服上下を着込んでいた。ヘルメットこそ冠っていなかったが、かなり様(さま)になっていた。

「と、父さん、秘密戦隊!?」

 智也が穴見の格好に腰を抜かさんばかりに驚いた。

「父さんね、予備自衛官なのよ。あなた、はい、おにぎりと水筒」

「予備自衛官?」

「普段は民間人として生活しているが、いざ有事となった場合、主に後方支援として駆り出される自衛官のことだ」

「ユウジ…って?」

 智也の疑問にすぐ澄子が答えた。

「戦争のことよ」

「父さん、戦争に行くの?」

「大丈夫、そうはならんさ。智也、父さんは本来、家族を守らなきゃならないが、予備自衛官は呼び出しがあれば、何があっても出動しなければならない。智也、俺の留守の間、お前がこの家を守るんだぞ、分かったな」

「う…ん、は、はい」

 穴見の見たことのない緊張感いっぱいの雰囲気にすっかり気圧され、智也の返事の声が震えた。


 予備自衛官制度は、常備自衛官の人数を抑え、必要なときだけ効果的に増員できる自衛官として、一九五四年発足した。一年以上の自衛隊経験があり年間五日の訓練を受けた者、あるいは予備自衛官補の訓練を終了した者を予備自衛官と呼ぶ。予備自衛官は普段は普通の就労活動をしていて、防衛・治安・国民保護・災害招集が発令されたならば、ただちに任地に赴かなければならない。二〇〇八年現在、現役自衛官が29万人1千人、対して予備自衛官は五万九千人が登録していると言われる。


「シャー!」

 銀輪が風を切った。マウンテンバイクにまたがった穴見が家から出発した。道路は乗り捨てられた車が数珠つなぎのように連なっていた。その車の間を右に左に交わしながら神田方向へ向かった。

 穴見は大学を卒業後、3年間だけ自衛隊に入隊していたのだった。特に国防に関心のあるわけではなかったし、どちらかと言うと、当時の風潮で髪を伸ばし、反戦を唱え、官憲にたてつくのがかっこいいと思っていた。だから、当時は自衛隊なぞ、ただ忌み嫌っていた。それなのに、自衛隊に入隊した。当時の穴見の友人たちのほとんどは、この行動に一様に驚いた。だが、穴見にはある真剣な思いがあった。将来、家族を持ったときに最低限、彼らを守りたいと思ったのだ。

 さらに、そのころ熱中して観たアメリカ映画の『ダーティハリー』にも影響を受けていた。穴見はクリント・イーストウッド演じる映画の主人公、ハリー・キャラハンの生き方、行動に心酔したのだ。

 つまり、なんだかんだ御託を並べても、暴力を防ぐには、こちらにも何らかのパワーが必要だと悟ったのだった。頭だけでは防げないものがある。有事になったとき、銃の操作やサバイバル法を身につけておけば、きっと将来役に立つ。穴見はこれを信じて自衛隊に入隊したのだった。三年後退役、レコード会社に就職するが、その間も予備自衛官として年一回五日間の訓練を受けていた。穴見にとって、それは家族のためだったのだが、予備自衛官三十七年目にして初めての防衛招集を受け、彼は心ならずも国のために自転車を走らせていた。


 外濠通りを走っていると、何台もの自転車とすれ違った。また、会社を目指しているのだろうか、ゾロゾロとサラリーマンらしき人々が無言で歩いていた。交差点には警官が立っていたが、交通整理ができるわけもなく、手持ち無沙汰気味にしている。時折、通行人が何やら訊ねるが、力なく首を横に振るだけだった。

 穴見の自転車はあるコンビニの前に差し掛かった。

「パアン!」と鈍い銃声が聴こえ、慌てて急停車して伏せた。

 コンビニから黒覆面の男二人が発砲しながら飛び出してきた。

その前方には二人の騎馬警官が迫っていた。

「パカッ、パカッ、パカッ」

コンクリートの道路を蹴る蹄の音がビル壁に反射し谺した。警官らは馬から降り、黒服面に銃で応戦した。

「パアン!パアン!」

 数発の銃声がした後、二人の男は地面にひっくり返り呻いた。男たちは必死に英語で「ヘルプミー」などと勝手な言葉を叫んでいた。

「西部劇だ!」

 穴見は、思わぬ都会のウエスタンに目眩がした。男たちが警官に確保されたのを確認すると穴見は再び、自転車にまたがった。


 靖国通り沿いに自衛隊市ヶ谷駐屯地はあった。自転車を正門前に止め、衛兵に敬礼すると懐から予備自衛官手帳を取り出し提示した。 中庭に入ると、武装した自衛官たちがあちこちに固まりとなっていた。穴見は「予備自衛官受付」の看板を見つけ、その建物に入って行った。

 広い第3会議室には、穴見と同じ予備自衛官が十人ほど集まっていた。すぐに、メガネをかけた小太りの自衛官が出て来た。市ヶ谷駐屯地予備自衛官係の貞永良光だった。

「予備自衛官のみなさん、ご苦労様です。私、市ヶ谷駐屯地予備自衛官係、貞永陸曹長です。テレビはまったく駄目、ラジオがようやく聴こえる程度の情報の中、よくお集りくださいました。現在、分かっていることは幸いにも有事ではないらしい、ということだけであります。未確認ではありますが、韓国、北朝鮮、中国、インドなども同じような状態になっているようであります。ですから、皆様には、今回、国内の治安、特に略奪など暴徒制圧にご尽力ください。そのため、特別に銃の携帯が許可されましたので、これから貸与いたします」

「おーっ」

 集まった全員が驚きの声を発した。

 貞永は集まった予備自衛官一人一人に自衛隊の制式小銃八九式と

ヘルメットを手渡し始めた。

「穴見予備二等陸曹、銃を確かに貸与しました」

「はっ!」

 銃を捧げ持ち、穴見は貞永に敬礼した。

「発砲はあくまでも最終手段です。撃つ際も、先ずは威嚇射撃をお願いいたします。なお、取り扱い説明書を充分に読んで下さい」

「そんな悠長なことしてたら、こちらが撃たれます!」

 ある予備自衛官がキッとして貞永を睨んだ。

「その際でも、相手を決して殺さぬように、急所をはずして」

「とっさに、そんな判断ができないかも知れませんが!」

 貞永はその問いには答えず、話し続けた。

「現在、都内はほぼ無防備都市状態となっております。警察ももちろん動きましたが、何しろ機動力が断たれています。すぐに現場に急行できないのであります。そこで、自衛隊にも支援活動の発令が出て、あなた方予備自衛官にも招集命令が下ったのです。とりあえず、連絡もままならない状態ですので、それぞれのお住まいの地区で活動をお願いします。移動手段ですが、自転車をお持ちでない方には貸与いたします。それでは解散!」

 小銃のスリングをタスキがけにし、ヘルメットを冠り、穴見は自転車をこぎ出した。目の前をやたら旧式なボンネットタイプのトラックが通り過ぎた。

「うわあ、あんなトラック、コンバットでしか見たことないよ。見学用の展示品だったヤツか」。


 穴見は市ヶ谷駐屯地を出ると、先ず音羽方面へ向かった。音羽にはレインボウレコードがあるのだ。正面玄関の前に自転車を止めた。

「警備員も来てないようだな」

 穴見は自転車を降り、裏手に回った。裏口のドアが無理矢理にこじ開けられていた。

「賊が入ったか」

 穴見は会社の中に入った。当然、エレベーターは動いていなかったので階段を静かに昇り始めた。三階の踊り場にたどり着いたとき、

上階で物音がした。穴見は咄嗟に銃を構えると四階に向った。

 四階は資料室があった。レインボウレコードのこれまで商品と

なったSPレコード、EPレコード、LPレコード、カセットテープ、CDなどがすべて保管されていた。またマザーテープや、最近ではハードディスクなどで録音されたものも同様に保管されていた。

「音源を盗み出す気か!」

「カラーン!」「ガチャン」

 穴見が資料室のドアを開け、しゃがみ込みながら銃を構えた。

「誰だ、こっちには銃があるぞ!」

 DVDの棚の向こうで人影が動いた。穴見は、部屋に転がり込んだ。

「う、撃たないで!」

 棚の後ろで震えていたのは茶髪に黒眼鏡の男、菊池だった。

「何だ、菊池じゃないか」

「へ?」

 恐る恐る目を開き、目の前の迷彩服の男の顔を凝視した。

「あ、穴見室長…ですか!?」

「菊池、こんなときに出社するなんて、随分愛社精神に溢れているなあ」

 菊池の足下に赤いバールが落ちていた。

「賊が入ったんだな」

「ええ、私が出社すると、裏口が破られてました。四階に来たら、3人組がいました。私は不覚にも捕まりまして。金目のものを出せって言うんです。でも資料室には音源しかないし…。穴見さんが入って来る音がすると非常口から逃げて行っちゃいました」

「それは大変だったな」

「穴見さん、いったい何が起こったんでしょうか。テレビも PC

もケータイもアイポッドもアイフォンも電車もタクシーも何もかも動いてないんですよ。サイバー戦争が始まったんですかね」

「まったく分からん。ところで、菊池はどうやってここまで来たんだ」

「チャリンコです。僕、家、近いじゃないですか」

 菊池の言葉にムッとする穴見。

「お前、こんなときにも、ジャナイデスカって…!」

 菊池は思わず首を竦めた。

「すいません! 僕の家が会社に近いものですから、様子を見にやって来たんです」

「なんだ、ちゃんと言うこともできるんだな」

「それにしても、穴見室長、その格好は何なんですか!? そんな趣味ありましたっけ?サバゲー…」

「俺な予備自衛官なんだよ。部長以外はあまり知らんがな」

「予備…自衛官? それ何ですか?」

「緊急のときだけ、自衛官になるんだよ。そんなシステムがあるんだよ」

「室長が自衛官…じゃあ、その銃、本物じゃないですか! やっぱり戦争なんだ…」

「菊池、もう帰れ。また賊が入って来るかもしれん、今日は危険すぎる。それまで家で待機しろ。お前の見上げた愛社精神は上司に報告してやるから、なっ」

「いえ、まだ気になることがあります。奥尻さやかです」

「そう言えば、お前、晴れて第1に異動になったそうだな」

「挨拶を昨日、済ませ、その後、すぐにこうなったんです。さやかさんはお姉さんと二人暮らしです。担当としては、様子を見に行かないと」

「しかし、こんな状況では、大の男だって出歩くのは危険だ」

「ですから、室長も一緒に行って下さい。奥尻さやかは倒産寸前の我が社を救っているんですよ!」

「分かった、分かった」


 やがて、穴見と菊池は世田谷区経堂の住宅地に到着した。奥尻邸の前に来て二人は自転車から降りた。インターホンを押したが、反応がなかった。

「奥尻さん! レインボウレコードの穴見と菊池です! 大丈夫ですか!」

 二人で叫んだが、家から応答がなかった。穴見が門扉を押すと、カチャリと開いた。

「何かあったかも知れません。賊が侵入してたら大変だ。行きましょう! あ、その前に室長、中で何があっても驚かないで下さい」

「何寝ぼけたこと言ってる。さっきからビビリまくってるのはお前の方だろうが」

「いや、そうじゃなくて。奥尻さやか、です…」

「どうした、奥尻が。知ってるよ、対人恐怖症で、変人なんだろ。慣れてるよ、そんな奴ら業界にたくさんいるよ」

「いや、そうじゃなくて…」

「じれったい、入るぞ!」

 菊池の態度に呆れた穴見は、さっさと敷地内に入った。慌てて、菊池も後を追った。玄関のドアを開け、穴見が叫んだ。

「奥尻さん、さやかさん、中にいるのなら返事して下さい!」

 しかし、応答はまったくなかった。エントランスに花瓶が落ち、割れていた。

「これは、何かあったんです。室長、何とかして下さい!」

「よし、行くか!」

 穴見は背中の銃を一回転させ、両手で受け止め構え、家の中にゆっくりと踏み込んで行った。その後に、へっぴり腰の菊池が続いた。

 居間で人の気配がした。銃を構えた穴見が叫んだ。

「誰かいるか! いるなら、ゆっくりと手を挙げて出て来い。こちらには銃がある。何もしないなら撃たないから、出て来い」

 ソファの後ろにかがんでいた人物が手を挙げて現れた。さやかだった。

「さやかさん!」

 菊池が叫びながら穴見の前に飛び出した。

「すいません、てっきり賊が侵入したものだと思い、勝手に上がり込んでしまいました。こちらは、こんな格好をしてますが、レインボウ第3企画の穴見室長なんです」

 穴見は銃を下ろしたが、さやかは表情を変えず、ただ二人を大きな目で凝視するだけだった。

「驚かしてすみません。さやかさん、何もなくて本当に良かったです。昨夜、電車も車もなくて、2時間かけて、家に戻ったんですが、いやあ、何が起こったのか皆目、見当が付かないんです。で、今朝、会社に行ったら、穴見室長に会ったというわけなんです」

 突然、さやかは両手を激しく動かした。穴見にはすぐに手話だと分かった。思わず菊池は、そんなさやかの仕草を誤摩化すように穴見の前に立ちふさがった。

「えーと、マネージャーの由美子さんはどちらに…」

「いったい世の中に何が起こったんでしょうか? って奥尻さんは言ってるぞ」

 穴見が、菊池に言った。

「ええっ、穴見室長、手話が分かるんですか!?」

「ああ、昔、仕事の関係で、少しだが覚えたんだ。奥尻さんは、まさか、声が…」

「ええ、穴見さん、人工喉頭がなければ出すことができません」

 いつの間にか、開けっ放し居間のドアの前に由美子が立っていた。

「本当に何が起こったんでしょう。ご近所で情報を仕入れようと出かけてました」

「一度、会社でご挨拶しましたね、こんなスタイルですが、レインボウの穴見です。今は予備自衛官として、警護に当たっていますが」

「レインボウには菊池さん始め、面白い人材が集まってるんですね」

 さやかが、由美子に手話で話したので、由美子が説明した。

「菊池さん、さやかは、穴見さんにも隠す必要がないって」

「分かりました。室長、さやかさんは声帯がないんですが、人工声帯で声を出し、それに独自に開発したイコライザーをかけて、あのような歌声を造り出していたんです」

「ほう、それはすごい。あの天使の声が、人工声帯から出た声だとは…」

「ね、室長もそう思うでしょ!? 昨夜、人工声帯の具合が悪くなりましたが、結局…」

 「ダメだったんです。電気製品のすべてが動きませんが、停電のせいではないようですね。電池で動くものも、すべてダメですからね。本当になにが起こったんでしょうね」

 由美子が視線を落とした先のテーブルの上には携帯電話と人工声帯が載っていた。

「とにかく、現在、緊急事態ですので、外出は控えて下さい。電話も不通ですので、密な連絡はできませんが、菊池が何とかするでしょう。水や食料はありますか?」

「はい、地震が恐くて大量にストックしています。携帯コンロもありますから、1週間くらいなら何とか」

「とりあえずは安心です。それでは!」

 

 穴見と菊池は奥尻邸の前にいた。

「この状態はいつまで続くんでしょうかね」

「まったく分からん。明日終わるか、それとも…」

 穴見が上空を見上げると、例の雲がうねっていた。

 菊池が自転車で走り去るのを確認、穴見は経堂を後にし、押上方向に自転車をこぎ出した。どこかのビルが燃えていたが、消防車の姿はなかった。代わりに、大八車に載った旧式の手押しポンプから勢いのない放水がされていた。その光景は、穴見も教科書の写真でしか見たことのないものだった。

 東京スカイツリーが見えて来た。押上まですぐだった。路地を曲がると、にぎやかな声が聞こえてきた。いつも、智也が遊んでいる公園に人だかりができていた。穴見の顔なじみが何人も見えた。智也の級友の瑠璃香と翔平もいた。大きな釜や鍋から湯気が上がっていた。穴見は自転車を止めた。

 穴見の異様なスタイル、背中の銃に全員が凍り付いた。

「穴見さんじゃないですか!」

 炊き出しの中心人物は瑠璃香の祖父で町内会長の千原伝蔵だった。

 敬礼して、穴見が自転車を降りた。

「あ、穴見さんだ」「智也君のお父さんだ」の声があちこちから上がった。

「こんな格好で驚かせてすみません。私、予備自衛官の穴見二等陸曹であります」

 直立不動になり、全員に敬礼した。

「ほう、穴見さんが予備自衛官とは!?」

「とは言いますが。自衛隊経験は3年だけ。つまり、なんちゃって自衛官ですよ、ははは」

 穴見はすぐにいつもの気のいいオヤジに戻った。

「智也君のお父さん、チョーかっこいいね!」

 瑠璃香が感嘆の声を上げ、翔平を突いた。

「え、そうでもねーよ」

 翔平はその返事とは裏腹に穴見を見る目がまん丸く見開いていた。

 長戸がみんなに説明を始めた。「ほうほう」とご近所の人々は穴見をちらちら見ながら頷いている。

「しかし穴見さん、いったい何が起こったんでしょうか。何人かが聞いたラジオでは、電気だけではなく車も飛行機も電車も何もかもが動かなくなってしまったと言いますが」

「ええ、それ以上のことはまだ我々にも分かっておりません。不安ではありますが、みなさん、できるだけ、例えば集会所などに集まり、助け合って乗り切りましょう。水も心配ですね、この炊き出しの水はどうしました?」

「家の倉庫にペットボトルがたっぷりありましたので。でも、節約しなければなりませんな」

「そうですね。また、もっと心配なのは、このパニックに便乗した暴漢が現れることです。夜の外出は絶対に避けて下さい。もちろん、少なくともこの町内は私が警護しますので、みなさん頑張りましょう」

「いやあ、わが町内に予備自衛官がいるとは心強い。穴見さん、どうぞよろしくお願いします。さ、穴見さんもおひとつ、スイトン召し上がって下さい」

「いや、私はこれで。もし何かありましたら、家におりますので。いや、ところでウチの妻や息子は?」

「声をかけましたが、お留守のようでしたな」

「留守?」

 穴見は、嫌な予感がした。


 家の前で自転車を止め、ドアに向った。いつものようにドアホンを鳴らした。澄子の声がした。

「どなたですか」

「山」

「……谷」

 澄子は言いよどんで「谷」と言った。

「谷? 山川豊ですが」

「さあ、どなたでしょうか?」

 穴見は瞬間的に察知して言った。

「すみません、家を間違えました」

 穴見は、家を出るふりをして、自転車を倒し、垣根の隙間から裏庭に入った。2階まで伸びた雨樋に静かに足をかけ、上がって行く。

やがて2階の屋根に上がると、窓から中を覗いた。そこは穴見の

寝室だ。誰もいない。幸い窓に鍵はかかっていなかった。穴見は窓を開け、中に侵入した。

 階段を静かに降りると居間が見えた。智也と澄子がソファで震えていた。そのそばに拳銃を持った二人の外国人が立っていた。英語で話していたが、顔立ちは中近東風だった。あご髭の男はビールを飲み、テーブルの上に出した食べ物を食い散らしていた。もう一人のスキンヘッドがドアに向い、覗き穴から外を丹念に見始めた。その瞬とき、穴見は銃の安全装置をはずし、居間に飛び降りた。

「銃を捨てろ!」

「父さん!」

 智也が叫んだ。

「ガーッデム!」

 あご髭が智也と澄子に拳銃を向けた。

「フタリ、殺スヨ。銃ヲオケ」

 その声を合図にしたかのように、智也がゲーム機をあご髭に投げた。ゲーム機はあご髭の額に命中した。その瞬間、穴見は引き金にかけた人差し指を絞った。

「ドコォーン!」

「アアッ!」

 あご髭は、小さく呻くと絨毯の上に無様に倒れ込んだ。

 スキンヘッドは持っていた拳銃を撃たずになぜか穴見目がけて放った。それと同時に穴見の銃も再び火を吹いた。スキンヘッドはその場にしゃがみ込み、ぶるぶると震え出した。

「お父さん!」

「あなたあ!」

 智也と澄子が穴見に抱きついてきた。

「すまん、俺が留守したばっかりにこんな目に遭わせた。すまん…」

 あご髭とスキンヘッドは警官に手錠をはめられ、家から連れ出された。穴見の家の前には警察の馬車が止められていた。二人の外人は観光地で使われているような馬車の荷台に乗せられ連行されていった。その様子を、玄関先で穴見、澄子、智也が見ていた。

「てっきり、父さん、泥棒を殺しちゃったと思ってた」

「そうねえ。でも、あご髭の人は気絶しただけで、スキンヘッドの人も撃たれたと思って腰が抜けただけだったって」

「父さん、銃、下手?」

「いや、空砲だったんだよ」

「空砲?」

 穴見は胸のポケットから銃の取り扱い説明書を取り出し、呆れながら読み始めた。

「なお、弾倉に装填された弾丸の内、最初の2発は空砲となっている。発砲の際は、この点を充分に認識の上、間違いのなきよう取り扱うこと…。たくもう、最初にちゃんと説明してくれよなあ」

「でも、人殺さなくて良かったね」

「そうだな。本当、良かったよ…」

「うん、ホントにみんな無事で良かった」 

 澄子が穴見と智也の手を握りしめ、さめざめと泣いた。

 

 こうして3日目の朝を迎えた。穴見家のトランジスタラジオの

音楽が途切れ、首相の緊急会見が始まった。

「この現象の詳細は先ほど申し上げました通り、いまだ不明です。ただ、今はっきりしていることは、主にコンピュータを使用した機器がまったく動かなくなってしまったということです。その反面、旧式の車など、ごく限られてはいますがまったくコンピュ-タなどが使われていないものは問題なく動作するようです。まことに信じられない話ではありますが、アナログがOKで、デジタルなものが使用できなくなったとも言えます。ところで、幸いなことに一時、不能になっておりましたライフライン、電気、水道、ガスは、多くの地域で復旧し始めております。

 さて、現在、政府ではこの現象を『ロストデジタル現象』と名付け、対策委員会を立ち上げました。この謎の現象は、まさしく『デジタルが消えてしまった』としか言い表せないのです。委員会はデジタルが消えてしまった原因を探るべく活動をしております。必ずや、早急に解決策を発見いたしますので、国民の皆様、決してパニックには陥らないようにお願いいたします。

 本日より政府は『ロストデジタル緊急事態宣言』を発令します。逐一、ラジオ放送、また号外、壁新聞なども発行しますので、そちらで情報を仕入れるようにしてください。また、町内会の有志の方々の情報も活用することをお薦めします。さあ、みなさん、国民のみなさんには今しばらく御不便をおかけしますが、決して慌てることなく流言飛語に惑わされることのなきよう、粛々と正しい情報でのみ行動するようにお願いいたします」

「お父さん、ロストデジタルって?」

「デジタルが消えた? 父さんにもよく分からんが、パソコンや地上デジタルテレビや、携帯電話、CD、MD、DVD…」

「テレビゲーム!」

「そうだな。そういったデジタル機器と言われる、まあコンピュータを使っているものが、すべて動かなくなったらしいな」

「今どき、コンピュータを使っていない電気器具なんてないんじゃないの」

 澄子があくびをしながら言った。

「そうだよな。今どき俺の部屋にあるものだけじゃないかな」

「あ、じゃあ、お父さん、古い小さなテレビ持ってたじゃない。あれなら見られるかも!」

 智也が立ち上がった。

「いやあ、ダメだよ。放送自体がデジタルなんだし、第一、局が放送してないらしいよ」

「そうかあ」

「まったく二人とものんきね。それより、この辺はまだ水が出ないのよ。自衛隊の給水車、給水馬?もいつ来るのやら、町内の人たち困ってるわよ。井戸、開放しない?」

 澄子が空になったペットボトルを手にしてため息をついた。

「困ったな…。ン? そうだ、井戸だ!」

 

すぐに穴見家の前には、大きなペットボトルやバケツを持った町内の人々の行列ができた。穴見一家はそんな人たちのために必死に井戸から水を出した。

 町内会長の千原伝蔵がニコニコ顔で穴見に話しかける。

「いやあ、穴見さんが、この朽ち果てる寸前のボロ屋を購入して押上に越して来られたときには、なんて物好きな変わった一家だと思っていました。いやはや、古いものは何でも大切にしなければならないんですな

あ。この歳になって教えられましたよ」

「はあ、褒められてるのか、けなされてるのか…」

「ははは、何をおっしゃる。盛大に褒めているんですよ!」

 伝蔵は複雑な表情の穴見の肩をポンポンと大袈裟に叩いて笑った。

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