伍 パソコンは燃えているか

 夜、八時半、菊池は小田急線の経堂駅に降り立っていた。異動日早々、奥尻さやかに挨拶するという上司命令が下ったのだった。両耳にはイヤホン。アイポッドには奥尻ナンバーがすべて収録されていた。

 菊池は改札を抜け、奥尻の歌を聴きながら、駅前の通りを歩き出した。会社からずっと聴いてきた菊池は、ある疑問を抱き始めていた。

「この声は何か違和感あるなあ。奥尻の声が吹き替えというのは本当か? くそっ、また誤作動した。買ったばかりなのに」

 駅から徒歩十分。閑静な住宅地に奥尻さやかの家があった。菊池は庭付きの白亜の豪邸の前に立ち、深呼吸をすると呼び鈴を押した。

「はい」

 インターホンから女の声がした。

「レインボウレコードの菊池です」

「お待ちしていました、お入り下さい」

 門の鍵が自動的に開いた。

 二十畳ほどの広い居間の長椅子に菊池は居心地悪そうに座ってい

た。目の前にはマネージャーでさやかの姉の奥尻由美子がにこやかに腰掛けていた。

「すみません、ご挨拶はいずれ、と思っていたのですが、上司が今日中にと。ほんと急で申し訳ありません」

「いいえ、こちらこそ、いつもわがままばかりで心苦しく思っておりましたので。妹はじき参ります。さ、遠慮なさらずにお茶でも召し上がってください」

「はあ」

 菊池がティーカップに手を触れたとき、ドアが開き、さやかが入って来た。室内だというのに濃い色のサングラスをかけ、首には白いマフラーを巻き付けていた。菊池は慌てて立ち上がり、ペコペコと何度もお辞儀をした。

「わ、私、このたび、奥尻さんの担当になりました、菊池大輔です。よろしくお願いいたします」

 ぎこちない挨拶をした菊池に対して、さやかは無言のまま、さらに無表情で会釈すると、座ることなく、さっさと居間を出て行ってしまった。呆気に取られている菊池に、由美子が微笑みながら言った。

「本当にすみません。いろいろと聞いていると思いますが、さやかは対人恐怖症で、人と滅多に会うことはありません。今日は、とても彼女の調子が良くて、たったあれだけですが、人前に出ました。そんな訳で、これからも、申し訳ないのですが、打ち合わせは私とすることになります」

 口を開けっ放しにしていた菊池は、ようやく我に返った。

「あ…、そう…なんですか」

 どぎまぎとした返事の後に、菊池はすぐにこんなことを思った。

「さやかの地声は、ものすごい、そう、酒焼けしたオヤジのような濁声なんだ。でも、作詞作曲や楽器の才能が抜群。そこで、歌だけはお姉さんが吹き替えている…」

 しかし、その見事な推理を否定するような由美子の一声。

「彼女、今、5枚目のアルバム造りに没頭しています。スタジオは見学が可能なんです。ぜひ、歌っているところをご覧になっていきませんか」

「は、はい…ぜひ!」

 居間を出て、長い廊下の突き当たりにスタジオがあった。菊池はレインボウにもないような豪華なミキサー室に通され、機械の卓の前に座るようにうながされた。ガラスの向こうでは奥尻さやかが確かに歌っていた。

「『楽園の果て』のアルバムバージョンなんです。オケが昨日できまして、どうでしょうかね」

 由美子が菊池の肩越しに囁いた。

「いいですね、スケール感がさらにアップしてますね」

 とは言ったものの、スタジオのさやかの様子に違和感を抱いた。さやかはテーブルの前に腰掛けて歌い、菊池に対して横向きだった。だから、菊池には彼女の左半分の横顔しか見えなかった。また、良くは見えないが左手で頬杖をついているようだった。これが、彼女にとって、一番楽な歌唱スタイルなのか? 菊池は不思議な思いでさやかを見つめていた。

 歌が後半に入ったころだった、さやかの歌声がおかしくなった。声のトーンが変化したのだ。ソプラノからアルトに変わり、またソプラノに戻り、その次には男性歌手のようなバリトン風の声にも変化したのだ。

 菊池の眉がピクンと上がった。座っていた由美子も思わず立ち上がった。すぐに歌声は元に戻ったが、さやかの表情は明らかに曇っていた。

 菊池は玄関前の広いホールで由美子に深々とお辞儀をした。

「遅くまでありがとうございました」

「さっきは本当にすみません。オケがおかしくなって、お聴き苦しかったでしょう? さやかったら、それに合わせて、変な声出したりして、結構あれで、悪戯好きなんですよ、ホホホ。本当に申し訳ありません。次の打ち合わせまでには完璧にしておきますので」

「はあ、あのォ…いえ、今日はありがとうございました。さやかさんによろしくお伝え下さい」

 菊池は、不可思議な疑惑だらけの歌声に山ほど言いたいことがあったが、ぐっと我慢して、とにかく今夜は帰ることに決めたのだった。

 が、あることを思い出した、小便がしたくなったのだ。

「すいません、帰る前におトイレを拝借したいのですが…」

「あらあら、それは気付きませんで、どうぞ、お使いになって。廊下の正面がお手洗いですから」

 菊池は頭を掻きながらトイレに駆け込んだ。その様子を確認し、由美子は居間に一旦、戻ろうとした。その由美子の後ろで声がした。

「ヤッパリ、失敗ダッタネ」

 その声は実に不思議な声だった。抑揚のないロボットのような、アメ横の売り子の濁声のようでもあった。さらに濁声は続いた。

「菊池サン、絶対ヘンダッテ、気付ク、ハズ。ドウシヨウ…」

 ハッとして振り向いた由美子は、首を横に激しく振り、口に右手の人差し指を当て、「シー!」という表情をした。

 声の主はスタジオから出て来たさやかだった。「ガチャ」と、さやかの背後のドアが開いた。トイレから出て来た菊池だった。

「さやかさん、その声は…!?」

「いやだ、ハハハ、さやかったら悪戯ばっかり。ヘリウムガス、また飲んだんでしょ、ハハハ」

「ヘリウムガス!?」

「ほら声が変になるガスよ。さやかったらしょうがない」

「オ姉サン、モウイイヨ、菊池サンニハ、本当ノコト、言オウヨ」

「さやか…」

「菊池サン、居間ニ、ドウゾ」

 再び、居間に通された菊池は、さらに、さやかの不思議な声を聞いた。

 さやかは、首のマフラーの中に入れていた左手を出して、菊池の前で広げた。手のひらにはひげ剃り機のような円筒形の機械が乗っていた。

「見たことあります? 人工喉頭、一般的には人口声帯と呼ばれている機械です」

 由美子が説明した。

「映画か何かで見たことあります」

「さやかは、幼い頃、手術で声帯を取り、以来、この人工声帯がないと声を出すことができないんです」

「じゃあ、やっぱり、録音された声は、お姉さんが吹き替えて…」

「ソレハ違イマス。マルデ都市伝説ノヨウニ、噂サレテマスガ」

 人工声帯を喉に当てて、さやかが話した。

「人工声帯で出した声に独自のイコライザーをかけて、あのような声にしているんです」

「すごい技術ですね。それは、誰が?」

「さやかが自分で創り出しています。彼女はパソコンの腕も良くて」

「す、すごい」

「菊池さん、まさか自社のアーティストの秘密をバラさないとは思うけど…何なら、私、これから銀行へ行って…」

 菊池は首を振りながら、由美子の言葉に食い気味で言う。

「何言ってるんですか、こんな素晴らしい仕事、してるじゃないですか」

「本当に、あなた素晴らしいと思うの?」

「あたり前です。だって、さやかさんのリリースするCDは全部ベストセラーじゃないですか。これが、素晴らしいって証明ですよ」

「だからって、さやかがこんな有様だって発表するわけにもいかないでしょ。リスナーはみんな、あの声はさやかの生声だと思って聴いてるんだから。これが知れたら、詐欺だとか言われて、大スキャンダルよ。やっぱり、口止め料を…」

「止めて下さい!」

 じっと聞いていたさやかが、菊池を見た。

「確カニ、造リモノノ、声ダケド、デモ、アレハ、私ガ、持ッテイタ、本当ノ声、ソノモノニ、出来上ガッテイル。ダカラ、決シテ偽物デハアリマセン」

「本当の声?」

「さやかは幼いころから、歌が上手で。北海道時代、さやかが入った聖歌隊の発表会は、いつも超満員。『十万人に一人の天使の声』と呼ばれ、将来が期待されていたんです。でも、小学生のころ、声門癌に冒され、声帯を失ってしまった。以来、人工声帯でしか声を発することができなくなった…」

「でも、それでも挫折しなかった」

「その通り! そこが、さやかの凄いところよ!」

 深く腰掛けていた由美子は上体を起こし、叫んだ。

「さやかは、めげることなく歌うことを止めなかった。あらゆる楽器をマスターし、パソコンを勉強した。その結果、人工声帯から出る声に独自に開発したイコライザーをかけて、ついに自分の失くした声に寸分違わぬものを造りだした。さやかは、私の妹だけど、努力の人。私は彼女の負けない気持ちが大好き。あの声は確かに機械を通した造りものかも知れないけれど、反面、あれは正真正銘さやかの声でもある!」

「菊池サン、コンナ私、本当ハ嫌ニ、ナッタンデショウ?」

 菊池はこみ上げるものを感じ、言葉に詰まった。

「いえ、とんでもない。正直に、話してくれて…ありがとうございました。頼りない若造ですが、奥尻さやかさんの担当、改めてよろしくお願いいたします」

「アリガトウ…デモ、コノママデハ、ファンヲ、騙シテ、イルコトニ、ナリマスネ」

「いや、そうは思いません。これまで通りにしましょう。さやかさん、あなたは極端な対人恐怖症のままでいましょう」

「アリガトウ、本当ニ、アリガ…ガガガッ、ピー!」

 突然、人工声帯から出ていたさやかの声が消えた。さやかは、口を金魚のようにパクパクしながら、手話で由美子に「おかしい、家の機械はみんなダメ!」と叫んだ。


 新宿のお好み焼き屋で上村と飲み、別れた後、穴見の足は、いつもの場外馬券場のある通りに向っていた。穴見は、その一角にある「家電天国・音屋」に入った。

 「音屋」は中古家電を扱う店だ。穴見はこの店の二十年来の常連客だった。二坪くらいしかない狭い店内にはオーディオやテレビやがらくた家電がごちゃごちゃと置かれている。店主は桜井徹、顔は日焼けで黒く、年齢六十代半ばといった感じであった。

「こんちは」

「よっ、久しぶり穴見ちゃん。タイミングいいね、好きそうなの入ったよ」

「ほんとう!?」

 桜井が指差したレジの横には半球の形をした透明の蓋が特徴的なレコードプレーヤーだった。

「うっひょう、これってフランス映画で見たような」

「ジェーン・バーキンの映画ですかね」

「かもなあ」

「好きでしょ」

「もちよ。知ってるくせに桜井さん。で、いくら?」

「どうしようっかなあ」

「あんまり高いと、だめだよ」

 片手を広げる桜井。

「五千円、買った」

「御冗談でしょ」

 値札には三万円とサインペンで書かれていた。

「三万は高いなあ。また女房に叱られちゃう」

「仕方ないなあ、じゃあ、二万五千」

「まだまだ」

「切ったら儲けないよ」

「ほんとかなあ、あ、ポケットに一万5千円枚しかない。そうか、さっき飲んだもんな。じゃ、僕、帰りますわ」

「分かった分かった。じゃ、一万五千」

「ほんとう!? 消費税込み?」

「はいはい…」

 桜井がプレーヤーを箱に入れ、包装を始めたとき、店内の複数のテレビ画面が一斉に乱れた。

「今朝もテレビ、画像乱れてたけど、何だか安定しないね」

「デジタルもんは故障すると始末に負えないんだな」

「そうだね。CDやMDも動かなくなったら、ほんとにウンともスンとも言わないからね。アナログ機器なら、ベルト代えたり、歯車とっ代えたり、素人でも何とか直せたりするからなあ。ところで、アナログテレビはどうしたの、処分できたの?」

「大変だよ。今でも大量に倉庫に眠っていますよ。国内じゃどうしようもないから、中東とかの業者に売り付けるんだがね。それでも、まだ在庫たっぷり。やはり、ニュースでもやってたけど、昨年までにアナログテレビは日本中に一億三千万台もあるんだって」

「みんな粗大ゴミか…」

「テレビもそうだけど、ビデオ機器もどっさりでさ」

「最近も、どっかで大量のテレビが不当投棄されたってニュースでやってたしね」

「お上が決めたことに文句を付ける気はないが、デジタルがそんなにいいかね。俺にはさっぱり分からないね」

「白黒テレビがカラーになったときは、ジーサンもバーサンも若者も、いや子どもだって、その大きな違いは分かったんですよ。でも、デジタルにはそれがない。まあ、簡単に言えば、電波利権のために、国民が犠牲になったわけですよ」


 汐留にある関東第一テレビ局の制作二部のスタッフルームが出島裕史のオフィスだった。既に午後一〇時を回っていたが、裕史は電話をかけていた。

「それじゃ、仕出しのおばあさんは現地集合だね。遅い時間だけど、その人、大丈夫かな?え、歳だけど、夜更かし大好き? じゃ、OKだ。よっしゃ、すぐに出るから、二十二時半にはカメラ回せるね。この企画、絶対当たるよ。じゃ現場で!」

 電話を切った裕史、机の上にあった、八ミリカメラを構えた。後ろを通りかかった課長の上島信一が、それを見て声をかけた。

「出島くん、八ミリカメラ、渋いねえ。今度の企画で使うの?」

「はい。オープニングと、CM前のキャッチで使おうかと」

「デジタル放送はクリアが売り物だから、なるべく短く使ってね。デジタルはアナログより優れてるってのを強調しなくっちゃあ。後ろ向きの発想はそこそこにね。それでなくても、地デジになってから、広告収入がダウンしていることは君も分かってるだろ。こんなときにこそだなあ、局一丸となって地デジのイメージを盛り上げなくちゃイカンだろ。それが、今どき八ミリだと? 何か気に食わんなあ」

「はい…」

 首を竦める裕史を睨みつけると、上島はスタスタと行ってしまう。裕史はその後ろ姿にアッカンベーをした。


 新橋駅ホームに内回りの山手線が停車した。多くのサラリーマンや若者に混じって買い物袋を持ち、よろよろとした足取りの老女が乗り込んだ。そこは優先席の前。既に大学生風の男、サラリーマン風の男、三〇代前半とおぼしきOL風が座っていた。老女に気が付いた3人だが、誰も席を譲ろうとしない。そのとき、裕史の声がした。

「はい。関東第1テレビです。新企画『優先席に座る人々』を収録中です」

 裕史が老女の横に立ち、3人に向う。裕史の後ろからはテレビクルーが控え、一人は小型カメラを既に三人に向けている。

「勝手に撮るなよ」

 サラリーマン風が顔を手で隠して言った。

「はい、すいませんね。この企画は優先席にいったい、どんな人が座っているのかをリポートするきわめてシンプルな番組です。大丈夫、あなたの顔にはモザイクを入れます。いえ、特に申し出なければ顔出しOKということで処理しますが。さて、あなたは優先席というものを、どんな風にお考えでしょうか」

 マイクをサラリーマン風に向ける裕史。

「どんなもこんなも、考えたことないよ!」

「あなたは?」

 マイクはOL風に向いた。

「カメラやめてよ」

「あなたは、どこか身体が悪いんですか?」

「悪くないわよ」

「だったら、なぜ、この、年配のご夫人がこんなに荷物を持って前に立たれたのに、席を譲ろうとしないのですか?」

「なぜって、わたしだけじゃないでしょ。そんなの関係ないわよ!」

「あなたには、おじいちゃんや、おばあちゃんは、いないんですか?」

「いるわよ! 自分の祖母なら」

「座らせたいんですか。でも他人だから知らんぷりなんですね」

「いちいちめんどくさい。できるものならやってるわよ」

「そうですか。周りに誰もする人がいないから自分もやらない。そういうわけですね」

「お前、ムカつく。席を譲ろう譲るまいが、俺の勝手だろうが」

 大学生風が初めてしゃべった。

「ムカつきますか。いやな言葉ですね。優先席になんの躊躇もなく座るあなたたちこそ、ムカつく人たちです」

「てめえ!」

 サラリーマン風がこぶしを振り上げた。

「暴力反対!」

 サラリーマン風は思いとどまり、こぶしを下げた。

「さて、手始めはここまで。これから先はもっと大変だ。『こんな人たちの親の顔を見てみたい』のコーナーに移ります。あなたがたの親にこれから会いたいんですが、どなたか協力してくれるかたはいらっしゃいませんか?」

 裕史は反対側の優先席を振り返った。だが、既にそこに座っていた客はすべて立ち上がって、遠巻きに裕史たちを見ていた。

「あらあら、逃げちゃったわけですね。つまり、優先席に老人でも妊婦でもなく、身体の具合が悪いわけでもなく座ることは悪いことと少しは認識しているんですね。安心しました。それでは…」

 裕史がそう言いかけたとき、突然、電車が急停車した。

 よろけそうになった裕史だが、かろうじて老人役の女性にしがみつき転ぶことはなかった。だが、すぐに車内灯が消えた。

「キャー!」という叫び声があちこちからあがった。電車が止まったのはホームではなく、新橋駅と浜松町駅の中間地点だった。

 

 上村響子がこの新宿のマンガ喫茶に来たのは2度目だった。マンガを読むのが目的ではなかった。薄暗い照明の中に、簡単な仕切りのあるブースが何十と並んでいる。その中のブースで上村はパソコンに向い、真剣な眼差しで文章を打ち込み、つぶやいた。

「さゆり、もうすぐあなたの怨み、晴らしてあげるから待っててね」

 上村はマックス製薬株式会社のホームページから、お客さま窓口となっているメールに文章を送りつけようとしているのだった。

<そちらの会社で昨年まで社員だった大原さゆりさんのことを書きます。ご存じのように大原さんは今年、そちらを退社後、亡くなりました。公になってはいませんが自殺でした。彼女は躁鬱病になっていましたが、その原因はお宅にまだ、現役社員としてのうのうと働いている研究部二課の須田要です。須田と大原さんは同じ職場で知り合い、二〇〇九年に結婚しましたが、一年後に離婚しました。離婚の原因は夫・須田による日常的な暴力でした。会社での外面のいい須田からは想像できないかも知れませんが、事実なのです。

 私は大原さん、いえ、さゆりの同級生です。さゆりは結婚後、夫の暴力に苦しみ、私に相談し、そのことを知ったのです。でも、私は、そのとき、ことの重大さを認識できず「もう少し、我慢すれば」とか、「結婚はある意味、忍耐だからね」などと、とても親身になって相談に応えてはいませんでした。とても反省しています。須田は自分の暴力が外に漏れないよう、さゆりに、言葉の暴力をも容赦なく浴びせていたのです…>

 そこまで書いた上村は、思わず涙がこみ上げ、キーボードから手を離した。

「さゆり、ごめんね…」

 上村は涙を拭い、またキーボードを打ち出した。

<須田は、些細なことでさゆりに難くせをつける男でした。会社の帰りが遅い。男と浮気してたんだろう。あるときは食事を作るのが遅いと、できあがるのを待たずに店屋ものを一人分だけ取り、見せびらかすように食べたこともありました。また、暴力をふるい、さゆりが寝込んでいると「会社は休むなよ。それに会社の連中に言い付けたら、その倍返ししてやるから、気をつけろ」と何度も脅しました。須田は用意周到というか、ずる賢く、さゆりの両親にもさゆりが電話する前にかけるのです。「さゆりさんは、少し怪我しましたが大したことありませんから。ええ、ちょっとした、良くある夫婦喧嘩でして、ついはずみで手が出てしまいまして。僕だって、顔に傷ができましたよ。さゆりさん、大柄で力が強くて」などと、嘘八百を並べ立てるのです。これを書いていて、怒りで震えてしまいます。また、あるとき、日常の暴力に疲れ、休んでいたさゆりに、須田は襲いかかりました。「お前、俺の妻なんだろ、女なんだろ。付いてるものあんのなら、ヤラせろ!」と嫌がる彼女を何度も凌辱したのです。もちろん、離婚はすぐにでもしたかったのです。でも、狡猾な須田に引き延ばされていたのです。

 それでも、ようやく離婚することができました。さゆりは、「自分が会社を辞める必要はない」と、会社に残りました。部署が違うとはいえ、同じ会社です、たびたび、出会ってしまうことが多かったといいます。それが、悪かったのでしょうか。さゆりはストレスから拒食症になり、どんどん痩せていきました。私は「そんな会社辞めて、別な仕事で心機一転しなさい」と忠告したことがあるのですが、「彼女は就職難だし、辞めれば、あいつに負けたことになる」と意地を張り続けました。今、思えば、そのとき、精一杯説得して、さゆりを早く、退社させるべきでした。もう遅いですが。でも、このままでは、さゆりの死が無念でたまりません。私には、彼女から託された遺書があります。今、私はこの遺書に綴られ「須田要にされたこと」という文章を元に書いています。さゆりの両親も、もう終わったことと消極的です。だから、私がさゆりの無念を晴らしたいのです。

 どうか、このメールを会社の上層部、または彼の直属の上司にお届け下さい。そして、須田に、左遷、降格など適切な処分を速やかにお願いいたします。もし、このメールが闇に葬られましたら、私は、この文章の写しを週刊誌などに送りつけるつもりです。人間性が欠如した、鬼のような男が薬を作っている、ということが世間に知れたら。貴社にとっても大きな損害ではないでしょうか>

 書き終えた上村は、大きく息を吸うと、決心するようにうなずき、送信をクリックした。だが、その瞬間、パソコンがフリーズし、その後、プツンとまったく画面が消えてしまった。静かな喫茶内のあちこちから声が上がった。

「フリーズしたぞ」「落ちちゃった」「電源が切れたぞ!」

「くそ、こんなときに、頼むから送って!」

 上村はキーボードを強く何度も押し続けた。


 田園都市線にあるあざみ野駅から徒歩十分の住宅地に大崎樹里

の家はあった。2階建ての洋館風作りで、かなり大きな、いわゆる豪邸であった。

〈ママは、イタリア語講座の集まりで遅くなります〉

母親からの携帯電話メールを樹里は自室で受けていた。

「まったかよ。カルチャー狂いのバカ母!」

〈どうぞ、ごゆっくり。樹里は外で夕食すませたから、平気だよ〉

 返事を出した樹里は、食べかけのハンバーガーを口に押し込んだ。机の上にはノートパソコンの画面には、父からの受信メールが開いていた。

〈樹里、元気か。今、パパはローマにいる。年末には帰れるから、それまではママと仲良くな〉

「なーにが仲良くだよ。ママは毎日、お出かけお出かけで。あたしなんかと話す暇もないよ」

「ピロロン」

 ケータイにメールが入った。

「そうそう、あたしの家族はケータイだけだよ。あ、裕美からだ」

 樹里がメールを受けようとしたときだ、画面が突然消えた。

「え、おかしいぞ。なんだよ、動けよ! さっき充電したばっかだろう!」

 樹里はケータイに気を取られていたが、パソコン画面もスーと消えてしまった。


 高野麻紀は1人で夕食を取りながらテレビを見ていたが、突然、画面が乱れ、砂嵐になってしまった。すぐに立ち上がり、隣の部屋に入った。

「嘘だろう!?」

 いつも付けっぱなしになっているパソコン画面が消えているのだ

「で、電源!」

 そう思ったとき、天井の蛍光灯が消えた。


 相沢裕介は『実話ガンガン』のヌードグラビア八ページのデザインがもう少しでアップするところだった。だが、パソコン画面が三分前からフリーズし、まったく動かなくなっていた。

「勘弁してよ。頼む、何とか動いてくれ。締めきり、ほんと間に合わないんだから!」

 相沢の部屋の灯りは激しい点滅を繰り返した。


 押上の老舗・千原堂煎餅本舗は午後八時が閉店なので、とっくに暖簾はしまわれていた。店部分は大正時代からの古い建物だが、奥には平成になってから建て増した家族用の住居があった。居間では、樹里とその父・卓、母・景子、祖父の伝蔵がテレビのバラエティ番組を見ていた。その画面は乱れ、すぐに砂嵐になり、部屋の灯りが消えた。

「停電だ」

 伝蔵が言うと、卓がすぐに立ち上がった。

「懐中電灯どこだっけ?」

 樹里は家族に内緒で、携帯電話でメールを打っていたのだが、画面が

消え、ハッとした表情を浮かべた。

「キィーッ、ドン、ガシャン」

「大変、うちの前で事故みたいよ!」

 景子が慌てて玄関に向う。みんなも景子の後を追った。

 景子が店の戸を開けると、目の前の道路で自動車が舗道に乗り上げ止まっていた。また、あちこちで、動かなくなった車から運転者が外に飛び出していた。その何人かは携帯電話を取り出すが、まったく反応しなかった。

 その内の一人、高田昇は、真っ青になり、携帯電話を持つ手も震えていた。高田が車の前輪の下を覗き込んで叫んだ。

「ハネナイザーが人を撥ねた!」


 田口翔平の家は押上で一番古い都営住宅にあった。二DKの典型的な団地サイズの部屋に母と二人暮らしだった。翔平はいつものように、寝る前にテレビゲームをするのが楽しみだった。というより、学校から帰ると、宿題もせずに先ずテレビゲームに没頭し、夕方、テレビでアニメを見た後は、またテレビゲームをするので、ほとんど家にいる間はテレビゲーム三昧だった。母は、昼はスーパーマーケットで働き、夜はスナックでホステスをしていた。もちろん、母が帰るのは夜中。翔平はいつも、母が作っておいた食事を電子レンジで暖め、一人で食べていた。だから、テレビゲームは翔平にとって、寂しさを紛らわしてくれる重要なアイテムであったのだ。

 その大切なアイテムがフリーズし動かなくなった。一生懸命に不具合を直そうとするのだが、テレビゲームはウンともスンとも言わなかった。


〈あざらしユンちゃんはこうして、また北の海に戻って行きました。おしま…〉

 穴見澄子は童話「あざらしユンちゃん」を脱稿する瞬間を迎えていた。だが、おしまい、の最後の「い」がどうしても文字にならないのだ。澄子は焦って、キーボードを強く何度も押したが無理だった。挙げ句の果てに、フリーズし、画面は真っ暗になってしまった。

「マジィー!?」

 パソコンの電源コードを確認するが、何ともない。

「お母さん、て、テレビゲームが壊れた!」

 智也が部屋に入って来た。

「智也、まだテレビゲームなんかやってたの!」

「だって、翔平くんと約束して、今週中に第一ステージを絶対クリアするって…」

「分かった、後で叱るから。それより、なんかおかしいね」

 澄子が棚のラジカセを見て言った。かけていたCDが飛び出し止まっているのだ。智也はふと左手にはめていたデジタル腕時計を見て驚いた。四つの数字が八になって完全に停止していた。

「智也、テレビは?!」

 澄子と智也は居間に走った。リモコンをテレビに向けたが、テレビは砂嵐のままだ。

「お母さん、前の道で車がいっぱい止まっている」

 窓から外を見て智也が言った。

「ああ、ケータイも通じない! 智也、家中の戸締まりして!」

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