肆 優先席に座るオネーサンは美しいか
大崎樹里は屋上の片隅に座っていた。コンビニで買ったサンドイッチをほおばりながら携帯電話でメールを次々に送信していた。
樹里は今朝、電車内で穴見に遭遇した女子高生だ。
樹里は文京区の名門といわれる音羽台聖華女子高等学校の2年生。いわゆる、幼稚園からのエスカレーター式に進級できる学校である。樹里は普通の男女共学の高校に入りたかったが、親に押し切られた形で入学した。樹里は今でもそのことを後悔していた。
その反発からか、校則で禁じられている化粧をことさら濃くしている。また、スカートの丈も極端に短くしていた。もちろん、教師にはマークされ、不良のレッテルを貼られていた。父は大手商社に勤めていて、現在はイタリア支社に赴任中。母はカンツォーネ教室、社交ダンス教室、イタリア語講座などに連日通う生活を送っていた。
「けさ、電車でウザイおやじに遭遇。席をジジイに譲れって言われた」とメールを送る樹里。
「へえ、今どき変なオヤジにあったね。でも樹里だから、例の手で撃退したんでしょ」とすぐに返事がきた。
「ううん。それが、やけに威勢のイイオヤジで、痴漢の手も、もう一人のジジイが証人になるとか言いやがって」と返信する樹里。
「朝からたまんないね。やっぱ優先席座ってたわけ?」
「あったりまえよ。優先席は席取りやすいからね。今どき、老人なんかに席譲るなんてダセエことするやつなんか信じらんないよ」
「で、オヤジに反撃できず、どうしたの」
「ウザクテ、ウザクテ、前の駅で飛び降りたよ。おかげで大遅刻さ」
「ギャハハ、この話、みんなに教えてイイ?」
「どうぞ。笑い者にしておくれ。今度、あのオヤジに遭ったら、仕返ししてやる。そのときも報告するよ。じゃあ、次は結奈ちゃんにメールするからこれでね」
「じゃあね、バイビー」
樹里は、この携帯電話の電子メールによる会話を毎日200通以上していた。朝起きるとすぐに、朝食中にも、通勤途中にも、学校の授業中にも、もちろん帰宅してからも、その会話は途切れることがなかった。メール仲間は三〇人から五〇人。中には知らない中年男性も混じっていた。樹里は、援助交際はしていないが、こうした危ういメールも、半ばそのスリルを楽しみながら平然と、家族との食事中にもこなしているのだった。
「あれ、変だな。遅れてないメールが二十個もある。そろそろ、機種交換しよっかな」
再び、送信を続けながら、ふと樹里は空を見上げた。上空に不思議な黒雲がぐるぐると回転していた。
「なんだ、あの雲、気味悪いんだよ!」
高野麻紀は薄暗い部屋で熱心にパソコンに向い、マウスを忙しげにクリックしていた。両耳にはiPodから伸びたイヤホンが挿さっている。目の前の壁には『目標1年で1千万円。買うぞマンション!』の貼り紙がしてある。
麻紀の仕事はいわゆる個人投資家、それもパソコンを使っての株取り引き、いわゆるネットトレイダーをしているのだ。大学を卒業してから勤めた製菓会社を二年前に退職、貯めた自己資金二百万円を元に去年から始めた。それ以来、麻紀は学生時代から住むこの板橋区大山の築四十年の木造アパートからあまり出ることはなくなった。株取り引きは一瞬に決まる場合が多く、気が抜けないのだ。ちょっと、よそ見をしている間に、狙っている物件が霞み取られたことなど何百回と経験している。だから、麻紀はあまり外出をしないのだが、昨夜は学生時代の友人と飲み明かし、朝帰りしてしまったのだ。
そして、久しぶりの朝の通勤ラッシュで、あの不愉快なオヤジ、つまり穴見昭一と遭遇してしまったわけである。
「あのクソオヤジのおかげでだいぶ時間をロスしちまったよ。この物件買いっ!」
いつになくクリックに力が入った麻紀。だが、パソコンはフリーズする。
「ちきしょう! この大事な時に!」
麻紀はため息をつくと、パソコンに再起動を指示し、立ち上がり、窓辺に立った。
「なんか、ここ二、三日、パソコンの調子が悪いなあ。にしてもあのオヤジ腹立つ」
麻紀が耳からイヤホンをはずすと、音が外に漏れてきた。
「俺は待ってるぜ~」
それは石原裕次郎の歌だった。窓の反対側の壁一面にはCD専用の棚があり、そこには裕次郎はもちろんのこと、美空ひばり、江利チエミ、橋幸夫、舟木一夫や昭和歌謡のベスト盤のCDがズラリと並んでいる。そして、その同じ棚に古びた小さな写真が飾ってあった。麻紀の父・政和だった。政和は麻紀が大学一年の時に肺がんで亡くなっていた。政和は大の裕次郎ファンでCDコレクションも政和が集めたものだった。麻紀は父の死後、業者に売ろうとした母を説得、自分が保管することにしたのだった。
「若いやつらが、誰でも、今流行りのものを聴いてるとは限らないだろうが! あのオヤジ偏見の固まり!」
そう心の中で言いながら、麻紀は政和の遺影をじっと見つめ直した。
政和はこめかみに白髪ができている。六十代前半だろうか。
「そりゃあ、私だって、年配者には席を譲りたいと思ってるよ。ほんとだよ父さん。でもさ、都会生活してると、いつでも満員電車乗ってると、こっちだって疲れちゃうんだ。他人に気を使う余裕なんてなくなるのよ…」
写真の政和が、ふと微笑んだように麻紀には思えた。
「うん。次には、できるだけ、席を譲るよ。それに、もうすぐマンションの頭金くらいは用意できるんだ。これで、母さんに楽させるから、父さん安心して眠ってよ、ね」
「ちっ、まただ!」
パソコンの画面上でクリック位置を示す矢印が動かなくなり、相沢裕介は思いきり舌打ちをした。
「後、2時間であげなきゃならないのに、フリーズは勘弁してよ」
相沢の机には二台のデスクトップパソコンが並んでいた。テレビの前の座卓にはいつでも持ち歩いているノート型パソコンが置いてある。部屋中には雑誌が散乱。相沢は雑誌や書籍などのデザイナーをしていた。二年前まで、いわゆるエロ雑誌の出版社で編集をしていたが、独立しデザイナーになった。それまでデザインの経験はなかったが、パソコン上でデザインする、いわゆるDTP(デスク・トップ・パブリッシング)でデザインするなら「俺にも簡単だ」と、出版社を辞め、フリーのデザイナーになったのだ。円満退社だったので、仕事はその出版社からどんどん回してもらっている。それまで、月十八万円の収入が一気に三倍になった。「ほんと、パソコンさまさまだ」と心からパソコンに感謝していた。
「それにしても、あの電車のオヤジ、胸くそ悪い。俺だって疲れてるんだよ。年寄りだって座りたいように、若者だって座りたいんだよ! 若者差別反対!」
相沢は叫びながら、画面できわどいポーズを取る裸女の顔に黒い目線を入れた。
レインボウレコードの会議室の扉が開き、師岡、沢島、菊池、上村、そして肩を落とした穴見が出てきた。
「残念でしたね、アナログの企画」
上村が慰めの言葉を穴見にかけた。
「ま、仕方ないね。今さらアナログに執着するのは、菊池の言うように、もういい加減にしないといけないのかも」
「本当にレコードがお好きなんですね」
「ああ、そりゃもう。あの溝が刻まれた丸い塩化ビニールが可愛くて可愛くてしょうがないんだ。そうだ、世界音盤の神戸さんに謝りに行かないと…。上村君、それが終わったら、ちょいと一杯やるか」
「はい、残念会ですね」
第3企画室に戻った菊池は、師岡のデスクの前にかしこまって立っていた。
「えっ、私が第1企画室に異動ですか?」
「あれれ不満かね。カンツォーネにおシャンソン、映画音楽にムードミュージック、それもほとんどが旧カタログを使った企画ばっかり、こんな辛気くさいとこいらんないって去年の忘年会で言ってたじゃない、菊池くん」
「はあ、それは飲んだ勢いで、しかも去年のことで…」
菊池はどっと額から流れて来た汗を右手で拭った。
「じゃあ、異動なしにするか」
「いや、それは…喜んでお受けします!」
「ははは、うん、それでいい。第1では、君の力を充分発揮したまえ」
「はい、ありがとうございます!」
「ちなみに担当は奥尻さやかだ。頼みますよ」
「奥尻さやか…さんですか!?」
何枚も奥尻さやかのCDを持った菊池が視聴室のドアを開けた。中には既に先客がいた、沢島課長だった。
「菊池くん、第1ご栄転おめでとう」
「はあ、ありがとうございます」
「しかも、ドル箱、奥尻番とは大出世だなあ」
「でも、相当偏屈なんですよね」
「そ、その通り!」
沢島は馴れ馴れしく菊池の肩に手を回し、しゃべり始める。
「噂通り、打ち合わせには滅多に出て来ない。会っても、だんまり。ま、お姉さんのマネージャーが付きっきりなんで、何とかなるらしいんだが。どうも、極度の対人恐怖症らしいんだ」
「対人恐怖症…」
「だから、こちらとしてもあまり強く言えなくて。でもさ、いくら奥尻でも、最近、ちょっぴり売り上げ沈滞気味でさ。やっぱり、テレビ出るとか、ライブこなすとかしないとさ。彼女、テレビ出たの一回だけだよ。それも口パクでさ。レコ大も紅白も辞退して。それじゃあ、駄目だよ。で、歴代ディレクターができなかった、そんな諸々のことをさ、菊池ちゃんにやらせたいってことらしいよ、上層部の目論みはさ」
「僕にそんな力は…」
「もちろん、そんなことは分かってんのよ。結局さ、担当ディレクターが辞めちゃったのよ。その代わりがいなくて、菊池ちゃん、若い、君に任せてみようということになったらしいよ」
菊池がふて腐れ気味に言う。
「つまり、誰でも良かったってことですね」
「そう言っちゃあ身も蓋もない、とにかく頑張ってよ。君が突破口になって、彼女がテレビ番組やライブをやるようになったら、必ず売り上げアップするよ。それにさ、例の疑惑だって、晴らせるじゃない」
「例の疑惑って、あの都市伝説になってる…」
「そう、奥尻の声は誰かが吹き替えてるって噂。一度だけのライブもテレビも口パクだったから飛び出た噂だったけど、これを払拭しないとな。奥尻が売れなくちゃ、来年はレインボウはないな。菊池ちゃん、責任重大だよ」
肩を揉み出した沢島の手を振り払い、菊池は眉を吊り上げた。
「か、会社は僕に、こんなか弱い僕に、そんなでかいことを押し付けようってわけなんですか!」
「そう、社運を君に託したのさ」
「社運を僕に…」
「なーんてさ、冗談はこれくらいにしてさ」
「じょ、冗談だったんですか!」
「まあ、怒るなよ。とにかく、奥尻をテレビにでも出してご覧、社長賞もんだから。なんだかんだ言って、奥尻の資料いっぱい持ってるじゃない。やる気充分だねえ」
「僕、実はテクノとかトランスばっかり聴いてるもんだから、こういうクラシックとポップスの融合みたいな音楽、苦手なんです」
「まあ、これからは、どっぷりピュアな世界に浸ってよ。ところでさ、さっきからCDかかんないんだよ。菊池、操作分かる?」
菊池は CDを取り出し、棚の一台のCDデッキに入れた。
だが、CDは反応せず、CDを載せたトレイが飛び出した。
「これ、イカれてますね。ほかは試してみました?」
その瞬間、視聴室にあるCDデッキやMDデッキのスイッチが勝手に入り、トレイが出たり、入ったりとイレギュラーな動きをし始めた。
「すごいな、こんなの見たことないな」
沢島が呆れ顔で言った。思わず2人に尋ねた。
「電圧でもおかしいんですかね」
菊池が、デッキの1台を触ると、さっきまでの異常な動きが一斉に止まった。
「ああ、直ったみたいだな。良かった」
「しかし、原因はなんでしょうか。気になりますね」
そう言いながら、ふと窓の外を見上げた菊池の目に、上空で渦巻く黒雲が飛び込んできた。
「無気味な雲だ…」
菊池は、その黒雲に嫌な気配を感じて、しばらく見つめ続けた。
六本木の高層マンションの最上階に弁地良文の部屋があった。弁地が受話器を握り、深刻な顔をしていた。
「分かった。早急に原因を探ってくれ。頼んだぞ」
受話器を置き、大きくため息をついた。
「何かあったの?」
ソファに座っていたモデル風の女が弁地に訊ねた。
「ハネナイザー搭載車が通行人と接触事故を起こした。いや、ほんのかすり傷らしいが」
「じゃ、良かったじゃない」
「いや、これまで、絶対こんなことは起こらなかった。これがマスコミに漏れたら大変だ。それにしても、あの雲、何とかならないのか、鬱陶しいったらありゃしない!」
高層マンションの窓から望む雲は、なおさら異様に映っていた。
穴見と上村は横浜の鶴見区にある、日本で唯一のレコードプレスができる世界音盤化学工業を訪ねていた。世界音盤化学は創立昭和二十六年。それまでのSPレコードから、塩化ビニールという軽くて丈夫な素材でレコードが生産されるようになって、大きく伸びた会社であった。昭和三〇年代後半から四〇年代中ごろに最盛期を迎え、工場は十五台ものプレス機が二十四時間体制で稼働し、シングル盤は月産300万から600万枚を生産していた。しかし、1980年代初期にCDが発売され、アナログの生産は急激に落ちた。その後、各レコード会社保有のプレス工場が相次ぎ閉鎖。九〇年代には世界音盤化学一社だけになってしまった。
それでも、九〇年代後半から、DJブームやアナログレコード見直しの風潮などで、最盛期とは比べものにはならないが、一社独占の形ならば、そこそこ経営がなりたっているのだった。
工場長室はプレハブ作りのオフィスの二階にあった。
工場長は神戸勝、五十九歳。入社しすぐにプレス機の工員となった。特に音楽に詳しいわけではなかったが、とにかく国内海外のすべてのジャンルの音楽のレコードを生産してきたことに絶大なる誇りを持っていた。だが、最近、アナログ復活の勢いがなくなり、その打開策として、オーディオメーカーと共同で、ハードウエアの開発も行なってきた。自前でできるアナログカッティングマシンは、高額だったが、世界中で発売された。そして、次に開発していたのが、オールディーズなデザインのレコードオートチェンジャー付きのプレーヤーだった。
そのプレーヤーに目を付けたのが穴見だ。穴見は、アナログシングルコレクションにそのプレーヤーを付属させるつもりだったのだ。
「いや、残念ですね。アナログ計画、流れましたか…」
神戸は、いかにも無念だという表情で湯飲みの茶を、音を立ててすすった。
「申し訳ない。私の押しが弱かったんです」
「そろそろ、アナログから前面撤退を考えなきゃならないときですかね…」
神戸は穴見と上村の湯飲みに水玉模様の急須から茶を注ぎたした。
放課後。校門から智也、翔平、瑠璃香の三人が飛び出して来た。
「智也、今日は清子ばあさんの家を通って帰るぞ!」
「清子ばあさんて?」
「行きゃあ分かるよ。おんもしれーぞー!」
「まったく悪趣味ね」
呆れ顔で言った瑠璃香も智也と翔平の後を追った。
押上地区には、戦後すぐに建てられた小さな木造住宅が多く残っていて、それらが建つ路地は狭く入り組んだところばかりだった。津川清子の家はその一角にあった。夫、誠治は腕のいい左官だったが、十五年前、七十歳のときに亡くなっていた。それ以来、清子は1人暮らしを続けてきた。身寄りもいないので、週に一度、ヘルパーが訪ねて来ていた。
ヘルパーの小林正江は掃除具を納戸にしまうと、帰り支度を始めた。
「清子さん、それじゃ帰りますよ。テレビ消しましょうか」
「いいえ。今、面白いとこだから、これが終わったらちゃんと消しますから」
清子は4畳半の茶の間に座り、笑顔でテレビを見つめていた。テレビは昭和四〇年代に流行した家具調。画面は砂嵐状態だった。
「はいはい、それじゃ、清子さん、また来週ね」
ガラガラと引き戸を開け、出て行くヘルパーの小林が智也、翔平、瑠璃香の3人に気付くが、黙って歩き去って行く。三人は、茶の間の路地に面した窓から、清子の姿を珍しそうに見つめていた。
「な、なんでおばあちゃん、なんも映ってないテレビ見てるの?」
智也が隣の翔平に聞いた。
「アナログテレビだからだよ」
自慢げに翔平が言った。
「おばあちゃん、テレビがデジタルになったこと知らないんだ。教えてあげないと」
智也がみんなを見て言った。
「だめなんだよ。清子ばあさんは、教えたって」
「どういうこと?」
「ボケ老人だよ」
吐き捨てるように翔平が言った。
「そんな風に言うもんじゃないわ。翔平はほんとに意地悪ね。結婚してあげないわよ!」
キツイ顔で瑠璃香が言った。
「え…、わ、分かったよ、ごめん」
「ええーっ、瑠璃香ちゃんと翔平くん、結婚の約束してんの!?」
智也が驚き、目を真ん丸くした。それには答えず、瑠璃香が説明する。
「今はね、認知症って呼ぶのよ、無神経ね。でもね、智也、清子おばあさん、あの古いテレビが大好きなのよ。ずいぶん前に、亡くなった旦那さんの誠治さんがテレビ好きの清子さんのためにって買ってくれた記念のテレビなんだって」
「でも、あのテレビじゃ何も見えないよ。誰か教えてあげないと」
「ヘルパーさんが説明したそうだけど、清子さんには分からなかったそうよ。しかもデジタルテレビ買うお金だって…」
「でも、清子おばあさん、すごく楽しそうだね。何か、面白いもの見えてるのかなあ」
世界音盤化学工業を後にした穴見と上村は地下鉄に乗っていた。腰掛けた上村の前に立っている穴見が路線図を見ながら言った。
「上村、一杯やる前に行きたいとこあるんだが」
都営三田線の御成門駅で降り、地上に出た二人はやや上を見上げながら歩き出した。彼らの先には赤い鉄塔・東京タワーがそびえ立っていた。
エレベーターから穴見と上村が出て来た。そこは展望台だった。夕陽が沈みかける絶好のロケーションだった。
「もう東京タワーは電波飛ばしてないそうですね」
「そうだね。今年4月から地デジのキー局は全部スカイツリーからの発信になったからな。お役御免。長い間、お疲れ様ってとこかな」
「なんだか寂しいですね」
「でも、逆にノスタルジーで人気になるんじゃないの」」
「そうですかね。あ、それにしても、あの雲、本当に不気味ですね」
夕陽が姿を消し始め、西の空は茜色に染まっていた。そして、あの黒雲も夕陽を浴び、赤黒くなり、さらに不気味さを増していた。
新宿南口の改札を穴見と上村が通り抜けて来た。
「お好み焼きでいいかな」
「私は何でも。だけど、さっきの東京タワーのゲーセン、室長、シューティングゲームのうまいこと。太鼓とかレースとか本当に下手だったのに、シューティングだけは名人級でしたね」
「あはは。子どものころから当て物はうまいんだよ。お祭りの射的はほぼ百パーセント命中するもんだから、テキ屋さんには嫌われてたな。父親も弓道とかうまかったから血筋かもな。小学校のときなんかパチンコ、ゴムで飛ばすヤツね、あれがもう名人級でさ。雀をたっぷり獲って、近所の焼き鳥屋に売ったもんだ。一羽五円だったかな」
「へえ、まったく運動神経はない方だと思っていたのに意外でした」
「ひゃあ、それは酷い。パソコンも駄目だし、運動神経もゼロだと思われてたわけですか。ま、しょうがないが、アハハハ」
そんな二人の声がかき消されるほどの大声が聞こえて来た。道路に街宣車が停まっており、屋根に立つ男がマイクを手に演説をぶっていた。三十代の黒ずくめの戦闘服姿の男は脇坂謙太郎である。
「…若者は親より大切にしたいものはケータイだと真顔で答えるのです。いったい、こんな化け物のような若者を誰が作り上げたのでしょうか。それは、行く着くところまで来てしまった文明なのです。そう、進みすぎた文明が、地球を蝕み、人々の心までをも荒廃させたのであります。このままでは地球温暖化を防ぐことはできません。つまり、このままでは早晩、人類は滅びるのであります。人類は自らの文明によって滅ぼされるのであります。ところが、たった一つだけ、そんな世界を救う方法があるのです。それは、我々『文明後退幸福連合会』、略称『文幸連(ぶんこうれん)』が唱えます『文明後退幸福論』であります。そう、今の文明を五十年前に後退させるのです。昭和三十年代にはまだ『心』が残っていました。そんな時代のように暮らせばいいのです。そしてそれは、決して難しいことではないのです。手始めに、今あなたが握りしめているスマホを放り捨て、家のパソコンの電源コードを引き抜きましょう。先ずはこれだけでいいのです。その後は、できるだけ文明の利器を使うことを避けるのです。スーパーで買物することも減らしましょう。畑を作り、米野菜を作る、鶏を飼い玉子を産んでもらう、理想は自給自足の生活を取り戻すことです…」
延々と続く珍妙な演説だったが、穴見と上村はつい立ち止まり聞き込んでしまっていた。
「もの凄い主張ですよね」
上村が呆れて穴見を見た。穴見は意外と平然としていた。
「前にテレビで観たことがあるよ。文明後退幸福論…。極端で不可能な話だけど、シンパシー感じる部分もあるね」
「室長、レトロ、好きだから。ハリソン・フォードの映画でありましたけど、アーミッシュみたいな思想ですかね」
「そうそう、それに近い。でも、アーミッシュは無抵抗な平和主義だけど、文幸連は、独自の戦闘訓練もする武闘派の一面もあるんだ。そこが、彼らの怖いとこだな」
穴見と上村はお好み焼き屋にいた。
「お疲れ」
二人は生ビールのジョッキをカチンと合わせ、同時に口に運んだ。
「いやあ、今日のビールはいつにも増してほろ苦いね」
「そう言わないで室長、またチャンスがありますよ」
「僕が入社したころは、第三企画部は今みたいに、会社のお荷物じゃあなかったんだ。映画音楽の全集ブームでね、出版社と共同で、でーんとでかい箱付きのジャケット付けて、どんどん出してさ」
「聞いています。洋楽も凄かったって…」
「ああ、ロンドンレーベルにA&M、デラム…ポップスにロックにそりゃあヒットを飛ばしたよ」
「穴見室長お得意のヨーロッパものもですね」
「そうだ。カンツォーネだ。当時はカンツォーネたって、ビートを利かしたポップスだからね、ウイルマ・ゴイク、チンクェッティ、ボビー・ソロ…ああ、そうそう、マカロニウエスタンのテーマも出す度にヒットした。分かる? 食べらんないマカロニ」
「分かります。イタリアの西部劇でしょ。父が大好きでしたから」
「でも、なんだかCDが発売されたあたりかなあ、こうした音楽がさびれていってね。機械のせいじゃないとは思うが、僕にはデジタルが、なんかこう音楽には向いていないような気がするんだなあ。いや、そんなこと世間では通用しない意見だがね。現実に、PCがなければ世の中は成り立たないからね。でもさあ、僕らは便利なデジタル機器を手に入れた代償に、何か大事なものを失っている気がしてならないんだよ。ごめん、酔っぱらって、年寄りの昔話をしてしまった。ところで、上村、結婚しないの。もういくつになった? あ、これってセクハラか」
「大丈夫です。33になりました。結構、売れ残ってますね」
「相手はいないの?」
「つきあってた人はいましたが、別れました。それに…」
「それに、どうした?」
上村の表情が急にこわばった。
「なんか悪いこと聞いちゃったかな」
「いえ、いいんです。実は大学の同級生が先月亡くなったんですが」
「そうそう、葬式で休んだっけなあ」
「その彼女が、美咲って言うんですが。結婚に失敗してるもんですから」
「そうか。じゃあ、もしかして、その友だちはそれが原因で?」
「ええ。美咲は結婚のために苦しんで苦しんで、そして、自ら命を絶ったんです…」
見る見る、上村の目に涙が溢れ、穴見はそれ以上、話しかけることができなかった。
店を出た穴見と上村は雑踏の中を歩いていた。
「どっかで飲み直すか?」
「いえ、私はちょっと用事がありますのでここで。泣いたりして申しわけありませんでした」
「とんでもない。じゃあな」
2人は互いに踵を返した。
穴見は上村が気になり、が振り返る。すると、上村が風俗店の隣にあるマンガ喫茶に入って行くのが見えた。
「マンガ喫茶? あいつに、そんな趣味が…」
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