弐 スマートフォンは〝スマフォ〟ではないのか

「ミャー!」

無数のウミネコが険しい表情で鳴いている。ウミネコの視線の先では、どす黒い色をした髙波が岸壁に迫っていた。波は岸壁を越え、道路に侵入する。駐車していた車が浮かび、流されて行く。一瞬にして道路は激流の川になった。

港に係留していた漁船はドーンと空に突き上げられるようにして陸に落下、横倒しになった。

「ミャー!」

 ウミネコの鳴き声が激しさを増す。それはもう、〝泣き声〟のようだった。


「うわっ!」

 男は目を覚ました。男の頭の中ではウミネコの鳴き声と高波の音、それに外国人男性歌手の歌が混じっていた。

 レコードの溝をトレースしていた針が盤を離れ、自動的に戻り、ターンテーブルが止まった。ターンテーブルの上には古いLP。日本ビクターの二枚組「ヨーロッパ映画大全集」に収録されている官能的な曲は「太陽の誘惑」、イタリア人男性歌手のニコ・フィデンコが歌っている。

「さっきまで晴れてたのに」

 男の名は穴見昭一だ。穴見はふとんの中にもぐったまま、窓から高層マンションと東京スカイツリーを見上げる。マンションとスカイツリーの間の青空には不自然な黒雲が一つだけ浮かんでいる。

「U、FO…じゃないよな」と言いながら、もそもそとベッドから這い出し、テレビを点けた。

「お早うございます。二〇一二年九月一日、アナログ放送が終了して半年、視聴者の皆様は、もう地上デジタル放送の素晴らしさ、快適さに驚かれ、大満足のことかと思います…」

 テレビ画面の中で中年男性アナウンサーがにこやかに話している。

「え、まだまだその良さが分からない? もちろん、色んな御意見があります。でも、私どもは、このデジタル放送に、大いなる期待を抱いております。ぜひ視聴者の皆様もぜひ、地上デジタルの輝かしい未来に御期待ください。それでは、デジタル放送の最大の特徴、双方向システムを使って、朝一番のアンケートを取りたいと思います。地上デジタル放送になって良かった、と思われる方は青ボタンを…ガリガリ、ザー、ガリガリ!」

一瞬、テレビ画面が乱れた。

 穴見はターンテーブルのLPレコードをジャケットに入れた。穴見は六〇年代の「ヨーロッパ映画音楽」が好きだ。中でも、ラストにかかっていたイタリア映画「太陽の誘惑」は彼の「生涯イタリア映画主題歌ベスト十」にランクインするほどぞっこんだった。また、主題歌はイタリア語版と英語版があったが、イタリア語好きの穴見でも、この曲だけは英語版の「WHAT A SKY」が勝っていると思っていた。

 レコードをプレーヤーの蓋の上に置き、ソファに座った。その背後の壁一面はラックになっていて、ギッシリとアナログレコードが収納されていた。

「ただいま、画像が乱れたようですが、原因は不明ですが、すぐに回復いたしましたので、またクリアな映像をお楽しみいただけているかと思います。それでは改めまして、地上デジタル放送になって良かったと…ブツッ!」

 テレビを切った穴見はリモコンをベッドに放り投げた。

「何が双方向だ、アホ!」

 いまいましげにパジャマを脱ぎ始めた穴見が、また窓の外を見る。さっきの黒雲が、また少し大きくなったような気がした。


 穴見はギシギシと軋む階段を降りてくると洗面所に入るが、すぐに出て来る。手には歯ブラシと歯磨き粉のチューブ、肩にタオルを引っ掛け、縁側の前に立った。サッシではなく、昔ながらの木製の戸なので、鍵はねじ式の真鍮製である。その錆び付いた鍵を開け、サンダルを突っかけ庭に出た。

 庭は四坪ほど。朽ち果てんばかりの木造の小屋。そして、小さな井戸があった。懐かしい手押しタイプで、水の出る口には袋状にした布が被せてあり、その先端は赤みがかっていた。穴見は室内の洗面所より、井戸で洗顔するのが好きだった。グイグイと取っ手を押し、水を出し、顔を豪快に洗った。

 穴見が築五十年の木造住宅を買ったのは四十八歳のときだった。それまで、家を持つ気はなかったが、長男・智也の誕生を機に、その主義を止め、中古だったが一戸建てを購入した。

 穴見は再婚で、今の妻・澄子と結婚したのは四十五歳のときだった。子どもは年齢的に無理だと思ったが、十七歳年下の澄子の希望を叶える形となったのだ。

 家を買うことは決めたが、マンションは絶対に嫌だった。それまで、何度もアパートや賃貸マンション暮らしを経験したが、いずれも短期間で引っ越しするはめになっていた。集合住宅への一番の不満は音を出せないことだった。穴見はレコード会社勤務。仕事柄、音楽を聞かなければならないし、自分自身も大変なレコードマニアなので、音を出すとすぐに近隣から苦情の出るマンション住まいは、絶対に避けたかった。

 穴見は、マンションで思い出すことがある。バブル期、億ションを買った義兄を訪ねたときだ。穴見が「新築マンション購入万歳!」と叫ぶと、義兄は「静かに」と顔をしかめる。廊下を小走りすると、「階下に響くから」とまたまた顔をしかめる。酒を飲み過ぎ、泊まることになり、深夜、トイレに行こうとする穴見に、義兄は「夜中に大で流すと、下から苦情がくる。大きい方でも小で流してくれよ」と真面目な顔で言ったものだった。

「億で買ったのに、ションベンにも気兼ねかよ。だから億ションつうのかよ!」と心の中で罵倒、して以来、穴見は二度と集合住宅には入らないと誓ったのだった。

 とはいうものの、都心で新築一戸建てはなかなか手が届かなく、仕方なく墨田区押上に奇跡的に残っていた昭和の遺物のような家を見つけ、購入したのだ。しかし、そのレトロな造りに、妻と長男は別にして、穴見は結構満足していたのだった。

「白髪が目立つな…」

 手鏡に映る自分の顔を見ながらため息をつき、白髪染めのスティックを取り出すと、こめかみの白髪に塗り付けていく。

 穴見は五十七歳の年齢にしてはかなり若々しかった。穴見の九十歳になる父親・源太郎も七〇代にしか見えない。若さは遺伝するんだな、穴見は父からの最大の贈り物はこの「若さ」ではないのかと常々思っていた。とはいうものの、最近は老けた、体力が落ちた、と実感する。智也が幼稚園のころは、運動会でも張り切って父兄代表のリレーに出場し、その健脚振りを発揮したものだ。だが、近ごろはどうにも肉体の衰えを感じてしまい、不安になるのだった。

 

 洗面を終えた穴見が居間に入ると、液晶大型テレビでは近ごろ、頻繁に繰り返されるCMが流れていた。

 

横道から通学途中の小学生が車道に飛び出す。

「プシュー!」

 小学生の眼前まで迫っていた一台の小型乗用車が一瞬、空に二メートルほど浮かび上がり、ホバークラフトのようにゆっくりと着地する。車内から三〇代前半の男がにこやかに降り立ち、怯える小学生の頭をなでながらカメラ目線で話し出す。

「弁地良文です。ご覧になりました? これが今、話題の究極のスーパーブレーキアシスト装置です。生物に反応し車を制御。つまり、絶対に人を轢かない新システム、ハネナイザーです。この装置を愛車に装着すれば、あなたは絶対に加害者にならないのです! ご用命は今すぐ、フリーダイヤル〇一二〇…」


 穴見はこの弁地良文という男が大嫌いだった。すぐにチャンネルを変えようとしてリモコンを取るが、その前に画面が変わった。

長男の智也が、テレビゲームのコードを差し、画面をビデオに切り替えたのだ。そんな智也から穴見はすかさず、コントローラーを取り上げ、テレビ画面に戻す。

「何すんだよう!」

「何じゃない。朝からテレビゲームなんて、父さんは許した覚えないぞ!」

「でも、これおじいちゃんからのプレゼントなんだよ!」

「誰からのプレゼントでも朝からゲームはダメだ!」

 泣き出す真似をする智也には構わず、トーストにバターを塗り、口にほおばる。

「あらあら、朝から騒々しい」と台所から皿に載ったハムエッグを運んで来たのは穴見の妻・澄子だ。

「智也、昨日は誕生日だったから良かったけど。今日はだめよ。それに、今日から二学期なのよ。早く、朝ご飯食べて」

「はあい…」

 智也の背後には蓋の開いた箱が置いてあり、中に「智也、八歳の誕生日おめでとう。父と母より」のカードと真新しいグローブが入っていた。穴見は、そのグローブとゲームソフトを交互に一瞥し、軽いため息を一つついた。

 智也がテーブルに就き、朝食を摂りはじめると、澄子がテレビのチャンネルを変えた。二階で穴見が見ていたものと同じ番組で同じアナウンサーがしゃべっていた。

「さて、天気予報です。本日、関東地方は降雨率〇パーセント。絶好のお洗濯日和でしょう。ところで、晴天なのに上空約五千メートルに陣取っています黒雲御存知でしょうか」

 穴見が顔を上げ、テレビを凝視する。

「あの黒雲は関東地区に約五個ほど観測されていますが、実はこのほど気象庁の調査で同様の黒雲が全国に発生していることが分かりました。大きさはまちまちですが、日本中全体では一〇八個が観測されました。この雲は直接、雨などを発生させるものではなく、現在のところ、なぜ雲ができたのかは不明です。工場から出る排煙などが上空に溜まったと見る説もありますが、今のところ決定的な原因は分かっておりません。現在、気象庁では鋭意調査中でありますので、いずれ報告があるかと思われます。さてさて、次のアンケートです。リモコンの御用意はよろしいでしょうか」

 うんざりした顔で、コーヒーを飲み干し、穴見は立ち上がった。

「まったく、朝からアンケートもないもんだ」

「あらそう? あたし、朝でもやっちゃうわよ。だって、色々、景品が当たるのよ。お父さんは新しいもの何でも嫌うのよね。ホント、業界の人じゃないみたい」

「新しいもの全部、嫌いなんじゃないよ」

「へえ、そうかしらねえ?」

 テレビ画面に、アンケートのアクセス方法のテロップと、それに冠り、女性歌手のプロモーションビデオが流れた。

「あら、話題の歌姫・奥尻さやかだわよ、お父さん。新曲『楽園の果て』も、すんごくいいのよ。低迷するレインボウレコードを一人で支えている救世主じゃない。ほんと、素敵な声ね。心洗われる部分もあるし、抉られる部分もあって、奥が深いのよ。お父さんじゃないけど、アナログの良さってこれね。しかも、美人ときた。天は二物も三物も与えちゃってさ」

「父さん、さやかに会ったことあるの?」

 智也も泣くのを止めて、画面に魅入っていた。

「部署が違うからな。でも、一度だけ会社でな」

「父さん、すごーい」

「相当なる変人で無愛想だって、週刊誌なんかで言われてるけど本当なの?」

「残念ながらな。俺とエレベーターで乗り合わせたが、こちらが挨拶しても、軽く会釈を返してくれるだけ、実に素っ気ない」

「打ち合わせも、ほとんどマネージャーが代理で済ませて、彼女からは電話がたまに来ればいい方だとも書いてあったけど」

「そうみたいだよ。担当がいつもこぼしてるよ」

「それでも、会社としては文句言えないのね」

「何しろ、作詞作曲、バックの演奏まで一人で作り上げるんだからな」

「週刊誌にそれも書いてあった。ピアノ、バイオリン、ドラム、ギター、クラリネットなど主要楽器を全部一人で弾いて、それを多重録音して作り上げるんだって。すごいよね」

「しかも、録音も完璧にこなし、ジャケットまで作り上げてしまう。つまり業界でいうところの“完パケ”で納品してくるんだ。もちろん、機械の発達もあるけど、どのパートも、最高のクオリティってのが驚くよ」

「しかも、それがベストセラーになるんじゃ、文句のつけようがないってわけなのね」

「まあ、そういうわけ。だけどさ、会社側が何もしないってのは味気ないよ。ディレクターはただのお飾り、それじゃ面白くないだろ」

 

「行ってらっしゃい。二人ともハンカチ持った? お父さんケータイは?」

 玄関の三和土に出かける用意をした穴見と智也が立ち、その前に澄子が膝を折って座っていた。

「はい、お母さん」

 智也が笑顔でハンカチを差し出した。

「持ちましたよ。持ちたくないけど」

 上着の内側からケータイを取り出し、顔をしかめた。

「お父さん、ケータイ、ほんと嫌いよね。そろそろスマホに変える人も多いのに」

「スマホって何だ?」

「スマートフォンのことよ」

「略すならスマフォだろ」

「それをスマホにしちゃうところが日本人の言葉のセンスかなあ」

「嫌なセンスだ」

「ギョーカイの人ってスマホ必需品じゃないですかあ」

 おどけて智也が言うと、穴見の右の眉がつり上がる。

「智也、何だとお?!」」

「ごめん!」

 智也が、「しまった!」という顔で両手を合わせ、穴見を上目遣いで見た。

「智也、我が家では『じゃないですか禁止令』が発令されているの知ってるでしょ?」

 澄子もたしなめるように言う。

「そう言うこと、我が家ではそんなヘンテコな日本語使わせない」

「とは言うけれどお父さん、私のお友達もみんな使うんで困っちゃうのよ。いちいち注意もできないしね」

「そうだな、何しろ、今やタレントだけでなく、総理大臣、芥川賞作家、外国人、東北の婆さんまでが使ってるからなあ。夏って暑いじゃないですかあ。冬って寒いじゃないですかあ…ああ、気持ち悪い表現。具合悪くなる」

「さあさ、そんな話はいいから、あなた、今日は会議だから遅刻できないわよ」

「わーった、智也、いざ出陣!」


 二人を送り出した澄子は台所で食器を洗い終え、洗面所の洗濯機のスイッチを入れた。

「おかしいなあ、どうも反応が鈍い。途中で停まってることも多いし。修理だな」

 何とか洗濯機を動かすと、澄子はそそくさと二階に上がった。穴見の隣にある部屋のドアを開け、入るとすぐにパソコンの前に座り、起動させた。

「立ち上がりが遅いなあ。これも修理ですか…」

 澄子の背後にある本棚にはぎっしりと本が詰まっていて、机のすぐ横の小さな本棚には数十冊の澄子作の童話が並べられている。『ペンギンマンがんばる! 著あなみ・すみこ』『ルンちゃんは天才ねこ 著あなみ・すみこ』など動物をテーマにした童話が多い。

「アザラシのナカちゃんはなかなか現れませんでした。どうしても会いたくなった文香ちゃんはある作戦を考え出し、クラスで発表することにしました…」

 澄子は小さく言葉に出しながら文章を書く癖が子どものころからあった。絵本を読むときもそうだった。澄子は幼いころ、両親に絵本を読んでもらった記憶があまりない。母に読んでもらったような気がするが、うろ覚えだ。また、父は無口な人で、一度たりとも絵本を読むことはなかった。

 しかも、父は澄子が小学一年生のとき、ある事故が原因で病気になり、入院することになった。入院は長く、母はその疲れからか澄子や兄の育児を放棄するようになった。そのため、澄子と兄は親戚の叔母の家に三年ほどやっかいになった。

 叔母の家で暮らすことは、やはり辛かった。子どもながらに、迷惑をかけないようにと気兼ねしながらの生活はすごく辛かった。だから、叔母の家に学校から帰ると、本を読んだ。本を読むことが唯一の楽しみとなった。そして、一人の淋しさを紛らわすために、声を出して本を読むことを覚えた、と自分では思っていた。

「ルルルルル!」

 机の端に置いていた携帯電話が鳴った。

「はい、穴見です。あら、音喜多さん、お早いですね。ガリガリッ、 ガー」

 雑音が音喜多の声を遮る。

「雑音がありますね。どうも、うちの電化製品は軒並み全滅かなあ。え、あ、そちらも調子が悪い? あ、はっきり聴こえます。え、早いのは歳のせい? 嫌だア、何をおっしゃいます。ええ、来週頭にはお送りできます。え、出来ですか? それはもちろん、これまでの最高作ですよ。ヘヘヘッ、いつもそのつもりで書いてるんです。はい、どうも。それでは来週。えーと、文香ちゃんはクラスメートを集めると…」

 携帯電話を切り、再び声に出しながらキーボードを叩き始めた。


 穴見と智也は空を気にしながら歩いていた。東京スカイツリーのはるか上空に不思議なドーナツ状の形をした黒雲が蠢いているのだ。

「スカイツリー、でかいね」

「六三四メートルあるからな。智也、昭和のシンボル・東京タワーの高さ知ってるか?」

「三三三メートル。常識だね」

「あらら、それは失礼。じゃ、どっちが好きだ?」

「スカイツリーに決まってるよ」

「なんで?」

「東京タワーよりずっーと高いからだよ」

「高きゃあ偉いのか!」

「僕、おっきいの好きだもん。東京タワーは、もうお払い箱さ」

「お払い箱とは寂しいねえ。父さんにとって東京タワーは永遠のアイドルみたいなもんなんだがなあ」

「東京タワーがアイドル? 父さんって変じゃない?」

「大人になれば分かることよ。おいおい、だけど、こんなに晴れてるのに変な雲だな」

 穴見が頭上の黒雲を指差す。

「今日、ネズミの嫁入りがあるんだよ」

「それもでっかいネズミのな! ハハハッ」

 二人は車の通行が激しい交差点に差し掛かった。

「じゃあ、智也、行ってくるぞ」

「いってらっしゃい、父さん」

「智也もな。週末はあのおニューのグローブでキャッチボールをするぞ、いいな!」

「う、うん。分かった…」

 

押上駅方向に向う穴見を見送った智也は、踵を返し、歩き出す。

その瞬間、智也の目の前に赤い外車が迫る。

「あ、轢かれる!」

 智也はそう思い、両手で顔を覆った。

「プシュー!」

 赤い外車は智也の一メートル手前で見事に宙に浮き、一瞬その

まま維持し、やがてゆっくりと地上に舞い降りた。

「坊や、怪我なかった!?」

 三〇代の男が運転席から出て来た。特に慌てている様子でもない。

「うん、全然」

 智也はきょとんとして言った。

「智也ぁ!」

 集まって来た野次馬を押しのけ穴見が青ざめた顔で二人の前に立った。

「と、父さん…」

「何か変な予感がして戻ったんだ。どこも何ともないか?」

「うん」

穴見はまるで愛犬にするように、智也の全身をなで回す。

「良かった、良かった」

 赤い外車の男はそうつぶやくと運転席に戻ろうとする。その男の背中に穴見は叫んだ。

「おい、君、良かったじゃないよ。君、うちの息子を撥ねるところだったんだぞ」

「お言葉ですが、それはあり得ません」

「あり得ない? 何を根拠に?」

 穴見の顔が紅潮した。

「だって、この車は絶対に人を撥ねないからです」

 男は急に営業スマイルのような顔になった。野次馬のあちこちから声が上がる。

「あいつ、ベンチだ、弁地良文じゃないか」「そうだ、弁地だぞ」

「父さん、コマーシャル出てる人だよ」

 智也が穴見に囁く。

「あのベンチ…か? 弁地さん、酷いじゃないか。この辺は小学生の通学路だ、スピード出し過ぎは許せない…」

「だから、そんな心配を回避するシステムを私どもは開発したのです。ブレーキアシストを完全に凌駕する驚異の、いや夢の安全装置、その名もハネナイザー。車の前方に生物反応を感知すれば、ただちに自動的にスピードを制御し、また、たとえ、突発的に横から飛び出して来ても、さっき、皆さんがご覧になったように、車は宙に舞い、決して生物を撥ねることがないのです」

「ほおーっ」

 野次馬から感嘆の声が上がる。

「いくら、そのハネナイ何とかか優れていようが、過信はいけない。 君ぃ、前方不注意だったんだろ。本当に気をつけてくれよ」

「はは、分かりました。以後、気をつけますよ。でも、当社のハネナイザーは絶対人を撥ねない、そこんところヨロシク!」

「いいぞ、ベンチ!」

 無責任な野次馬に弁地は軽く手を振り、車に乗り込む。

「絶対なんてのはあ、この世の中に絶対ないんだぞう!」

 穴見が叫んだときには、車は見えなくなっていた。野次馬も潮が引くように消え、穴見と智也だけがその場にぽつんと取り残された。

「人を絶対撥ねない装置…すごい発明だが、だからといって…」

 ぷるぷると震えている穴見の手を握っていた智也がニコッと笑った。

「すげぇなあ。生(ナマ)ベンチに会ったなんて言ったら、僕、クラスの英雄だ! じゃあ、父さん、遅刻しちゃうから!」

 小躍りしながら走り去る智也の後ろ姿を見ながら、穴見はため息をつく。


弁地は遠ざかる穴見親子をバックミラーで一瞥すると、アクセルをグイと踏む。

「ダサい親子だ。我がハネナイザーは絶対に生物を轢かない大発明。ミスは考えられない。このデジタル時代に意味の無い抗議をするなんて、まるで時間の無駄だ。あんな前世紀の生き残りみたいな人間たちがいるなんて信じられん」

 弁地の運転する赤い車が六本木交差点に差し掛かると、前方にヒルズのビル群が現れた。

 弁地良文・三十二歳はベンチャービジネスの成功者だった。たった三人で起業したブログ制作の会社・パンドラボックスは五年で急成長。主に、株の操作で儲けてるとマスコミに批判されることもあったが、最近、生物に反応する制御装置・ハネナイザーを発売し、本人が出演するCMも話題となっていた。

 ハネナイザーを車に搭載するのには一千万円と高価だったが、富裕層が飛びつき大ヒット商品となっていた。マスコミは、まさにノーベル賞もの大発明と、連日のように弁地を称える報道をしていた。

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