第3話 選抜
サイバーコマンド・アイアンナイト・ゼロ
第3章 選抜
・横浜 新扇島
真っまっくら闇の中で散発的に軽機関銃の音が響き、光が煌めく。光の源は素早く移動して、目的の場所に迫る。モニタールームではその光を放つ攻撃者の視点、配置された状況観察用のカメラの視点、敵対者の視点などが表示されている。
防衛省や、警察庁、海上保安庁などの特殊部隊用に共同調達が行われるようになり、また共同で利用出来るテストベッドが設けられた。横浜沖の埋め立て地の巨大な廃工場の中には、様々な攻撃研修用施設が設けられ、主に都市型の想定されるあらゆる環境を再現可能となっていた。そして現在は停電し補助電源も破壊されたビルへの突入である。攻撃者は視点をめまぐるしく、赤外線、サーモグラフィー、レーザーのLIDAR,エコロケーションに切り替え、状況に対応する。しかし、その攻撃者の視点とされるARグラスの映像は、おそろしく歪んでいた。
「すごいなぁ。あの人、これで本当に見えているんですかねぇ。」
テストスタッフがそばにいた秋尾に話しかける。映像は360度を開いたようなものであり、それ自体は珍しくない。スタッフが疑問に思っているポイントは別にあった。表示されているモニターは、攻撃者の視界なのだ。この歪んだ画像の中で攻撃者は行動しているということを意味する。やがて、背後から、続いて上から攻撃しようとする敵対者が現れると、顔の向きを変えずに腕と体だけで、そちらを銃撃した。続いて懐からスタングレネードを取り出すと、ワイヤーを付けて通路の角へと投げ込み、ワイヤーが角に触れると手を離す。視界がレーザースキャンによるLIDARに切り替わり、ミュートマークが表示されると、施設内に爆発音が響いた。同時に視界が全速で前進し傾く。
「うわ、壁、あああ、天井走っている!」
モードがサーモグラフィーに切り替わると、壁の開口部の前で止まり、複数の中温度熱源体に対して、数発づつの射撃。そして視界が回転して着地、すぐさま部屋の奥に突進し、あえて撃ち残した一つの赤い固まりにてぶち当たり、そして持ち上げる。視界の端から中央に向けて、赤い棒が伸びる。視界が光学モードに切り替わると、、敵対者のデコイが首を掴んで持ち上げられ、顔にM4カービン突きつけられている状態が、銃に取り付けられたライトに照らし出されていた。
「すごいですねぇ、あのパワードスーツ。でもなんでツーマンセルじゃないんですか?」
秋尾は突撃した部屋に設置された赤外線カメラの映像からスタッフに目を落とすと、にこりと作り笑いをする。
「単純な好奇心だと思うけど、ここでは知らされないことは知らない方が幸せだって考える方がいい。それが君を守る事になるからね。」
と言った。スタッフは言った意味と相手の階級にはっとしたように気づき、おもむろに立ち上がって、
「失礼しました!」
と声を上げた。
「彼女があがったら、ルームDを使うように言ってくれ。新横浜官庁街に行く。オンライン。」
「了解しました!」
スタッフが意図を正確に理解してくれたことに安堵し、部屋から出た。
モニターの中ではビル内の照明が点灯され、全身黒いパワードスーツの女性が、ヘルメット部分だけを開放し、背中のバックパックへに押しやっているのが見えた。
秋尾は慣れない背広に身を包み、湾岸線を走るフルオートドライブの車の窓から、海の向こうの観覧車を眺めていた。
2020年初頭、北洲から発射されたICBMは、高高度でEMP攻撃を行い、これに伴って地球上のありとあらゆる電子機器、そして軌道上の人工衛星が被害を受け、その衛星の多くが地球に降り注ぐ事態となった。大気圏で燃え尽きなかった衛星は、電力が失われた都市に数々の大穴を穿ち、我が国にも首都を中心に多大なる被害を及ぼした。それに追い打ちをかけるように発生した首都直下地震は、単なる地震災害だけでなく、地盤沈下と堤防の決壊を含め、被害を受けた人々がそこから脱出する事が叶わないまま、生き埋め、火災、溺死、凍死、餓死で命を失い、大きな禍根を残す。残された人員から急遽立ち上げられた復興政府は、首都での復旧を諦め、オリンピックを返上し、比較的被害の浅かった横浜に暫定の政府機関を設置した。
それから16年。復興は目まぐるしく進み、今年再び開催する機会を与えられたオリンピックを契機に、首都機能は復旧される。それだけに、失敗は許されないというムードが、政府全般の共通意識とされていた。なぜなら、東欧、北アフリカ、東南アジアで連鎖的に発生した、サイバー攻撃+アバター・オートマータを用いた物理干渉による選挙介入、そして不安定化に伴われるテロ、加えて難民を誘導して社会モラルを崩壊させる「難民兵器」は、各国の政府と社会システムを足元からぐらつかせていた。辛うじてその攻撃を受けていなかっただけの我が国が、いつその対象となるやもしれない。各国の失敗を糧に、怒るやもしれないこの攻撃を防ぎ、屈せず、何事もなく国家的イベントを執り行えることを内外に示し、国というものはネットからの悪意に屈しないことを示さなければならないのだ。誰もそれを認めず、鼻で笑われることばかりなのだが、それは姿を見えない国、エレクトロワールドに存する国からの、リアルワールドの国の威信を棄損する挑戦なのだと秋尾は考えていた。
「そういえば、あいつらだけは笑わなかったな。」
サイバーコマンドが結成されたときに、メンバーに行った訓示を思い出した。秋尾の言葉を、何を当たり前のことを、というように聞いた姿に、自分だけが妄想していたのではないという安心感と、目標に進む勇気を与えられた。そして今までは「物理的な」国外がその任務の範疇であるが故に、国の中においては何もすることも叶わなかったが、国内、いやネットには距離が無い以上その概念は無意味であるが、「物理的な」国内で任務を行うようになったことは、望みが叶った形なのだ。
秋尾の意志と同じくする、その意思の表れか、瞬く間に警察官としてのカリキュラムをこなした、普段は自称「いいかげんな」メンバー達。彼らが選抜で人材をどう見いだすのが、楽しみではあった。
車は首都環状高速から、新横浜にさしかかりつつあった。
秋尾が現地に到着し、ARグラスに表示された誘導に従い辿り着いた、合同庁舎3号館、C中会議室の前には、「司法警察官サイバーセキュリティ研修」と鍵マークがついたARパネルが表示されていた。対象者のみが見られる仕掛けになっている。秋尾はそれを見て、「研修じゃなく選抜だけどな」と口の端で小さく笑った。講堂のような大きな会議室に入ると、正面のモニター横には、研修のカリキュラムの日程が、同じようにARパネルで表示されていた。もちろん鍵マーク付きでだ。
16:00研修説明会 翌9:00山林演習場集合。以降は随時現地にて発表。
会場前方では事務用のオートマータ数体が、研修に使うBMI―HUDと接続する情報処理端末を準備している。事前に通信で打合せをしていた、この研修を表向き開催する内閣官房の職員と段取りを確認する。その間にも研修生が三々五々到着し、AR上で自分が指定された席に着いた。男女比は6:4程度。便宜上司法警察官研修となっているが制服職も含まれており、自衛官、警察官、海上保安官などは制服、その他の人員は比較的自由な服装だった。
時計が定刻を指し、入場者も途絶えたので、秋尾は職員に合図をしてから演台に歩み寄り、目線の先に設置された国旗に一礼をすると演台に登った。制服組が一斉に席を立ち、それをみて遅れて私服組が起立する。
「只今より、司法警察官サイバーセキュリティ研修を開始する。」
秋尾が会釈をすると、全員がそれに答えた。
「今回の研修の事務局を担当する、内閣官房内閣情報セキュリティ室の秋尾だ。身分証明は後ほど。」
秋尾は全体を見回して、一呼吸置いて続ける。
「今から研修中に使用するBMI−HUDと情報処理端末を支給する。立ち上げたら説明に従って、研修情報ネットワークに接続し認証作業を行ってくれ。期間中は私用公用を問わず、全ての通信はそちらに端末で受けるように。脳波等の信号パターンで既成のブレインマシンインターフェースが利用出来ない場合は、BMIのみを自分のものに差し替えて使用することを許可する。しかし私用情報通信端末の利用は厳禁だ。」
再び全体を見回して、特に問題なさそうであることを確認すると、事務用のオートマータに指示を出し、機材の配布を始める。
しばらくすると会場に若い女性の声が響いた。
「質問よろしいですか?」
ちょうどオートマータが機材を配っている所で影になって上げた手だけしか見えなかったが、秋尾が「どうぞ」というと、その女性が立ち上がった。海上保安庁の制服、そこから覘く鍛られているが起伏のあるシルエット。しかし何より彼女を目立たせたのは、頭の両側に編み込んでまとめられた金髪と碧眼だった。白人と見える姿と制服と先ほどの発音とのギャップの印象が上手く見あわなかった。間を置かず、彼女が質問する。
「海上保安庁の…」
「ストップ!名前は伏せて。」
上げた手がぴくりとして、彼女の声が止まる。
「通知にも書いておいてとおり、撮影録音をしているものはいないと思うが、司法警察官の所属や顔、名前は機密事項だ。制服で分かっても口外は無しだ。」
前を向いて全員に告げる。秋尾は彼女に向き直って、微笑みかけ言葉を続けた。
「質問をどうぞ。」
「はい!機材に開封された後がありますが、端末は既に汚染されている可能性を考えた方が良いですか?」
周りの人間が、発言にギョッとして彼女の顔を見上げる。秋尾はにやりとして、これに答えた。
「いい質問だ。現時点では汚染されていない。セキュリティホールは適時対応してくれ。」
彼女は目尻で反応して「ありがとうございます。」と答え、着席した。
「他にはあるか?……。無いようだったら、そのまま端末の認証を進めながら聞いてくれ。認証が済むと、今回の研修で組むバディが提示されるので、以降はバディと行動を共にする事。情報の共有もバディとのみ可だ。なおバディであっても、個人情報や所属などは研修終了まで開示せず、コードネームで呼び合うこと。期間中の交友行動は構わない。」
各自BMI−HUDを装着し、情報端末を認証する。端末は複数の指を同時にスキャンするものであり、国家公務員に任命されたときに登録された生体認証、PINコードなどと照合され、虹彩認証も行われる。登録できたものは提示されたバディを探し、周辺を見回している。金髪の彼女は支給された野暮ったいタイプよりも洗練された、私物のBMI―HUDを取り出し、接続する。BMIはカチューシャに近く、HUDはARグラスに似たスタイリッシュなサングラスのようなタイプだった。ARグラスには次々と情報が表示される。
【G-FIDO5.0指紋認証済み、PIN認証済み、本人確認済み、虹彩認証登録中…登録済み。BMI同期。CS研修作戦ネットワークへ接続…】
数秒待たされるうちに別のウィンドウが表示された。
【ようこそ、政府共通プラットフォームへ。メッセージがあります。確認してください。】
頭の中で確認と声を出すと内容が表示された。ショートでガーリーな髪型の、おそらく年齢よりも若く見える女性の正面と横顔、そして全身の写真があった。その写真から背は低めと思われた。名前は…
「パトロ?」
人物探索を起動すると、すぐに自分の右後ろの方向が示された。その画面の上端に自分のコードネームが表示されていることを確認する。事前申請したとおりになっている。荷物をまとめ人の間を素早く移動すると、バディのテーブルの目の前まで移動した。思った通り背が低い事を確認すると、背が高めの彼女は足を折ってバディよりも目線を低くし、テーブルの下から身を乗り出した犬のように、テーブルの上に両手をついた。
「こんにちは、バディ!私はハウンド。ハウでいいよ!よろしく!」
そういって手を差し出す。一瞬の間があって、ぎこちなくバディはハウの方を向く。
「よろしく、お願いします。でも、あの、私、今…」
ぎこちなく差し出された手をこちらから握りに行く。手のひらに温度差と自分とは異なる人工的な柔らかさを感じ、ハウはバディの意味するところを理解した。アバター。何らかの理由で医療を受けている、もしくは身体障害者用の代理勤務機体。今、と前置きしたのでおそらく療養中なのだろう。握った手と逆の手の指を立て、口元に当てると、ニカッと笑ってハウは答えた。
「大丈夫!」
バディの顔がやや緩んだ。
「もともとトロくて、もっと反応が鈍いかもしれないけど、迷惑かけないようにするね。よろしくね。私はパトロ。」
ハウはウィンクをして手をサムアップにして答えた。そしてテーブルの反対側に回り、パトロの横に座った。そしておもむろに手で口元を隠してパトロの耳元でささやいた。
「あのね、大事な秘密があるよ。」
パトロはピクッとしてハウの方を見る。
「秘密?」
ハウは頷いて、さらに横から耳元にささやく。
「こう見えて、生まれも育ちも日本人だから、日本語以外しゃべれないよ。」
パトロが小さくぷっと吹くと、もうハウは澄まして前を見て、そして目だけをパトロの方に向け、またサムアップをするとニカッと笑った。
「各自、バディは確認出来たか。端末に俺の身分証明と、明日の集合場所を送るそ。」
その言葉にあわせて、各員のAR内の秋尾の姿に、引出線で写真付きの身分証明が表示される。鍵マークつきの薄緑の枠に表示され、その下にIdentification Verified 内閣人事局認証256bit 暗号、開示レベル1とある。続いて
氏名:秋尾??
省庁:内閣官房
所属:内閣情報セキュリティ室
階級:????
年次:????
と表示されていた。
公的認証であり、これで秋尾が少なくとも政府の人間であることが分かる。もう一通届いたメールは平文で、明日の研修開催場所と、その交通手段だった。
「確認出来たか?では以降質問があれば、随時俺に投げてくれ。返答するべきものであれば返答するし、共有するべきものであれば共有する。では、解散!」
秋尾がそう告げると、立ち上がって会議室より退出していくもの、バディ同士で打合せをするもの、それそれに行動する。
ハウはパトロに
「我々も親交を深めるために、ちょっと、お茶、じゃなかった、おしゃべりしてく?」
というと、パトロはハウの顔を見上げて小さく頷いた。
「気にしないで。持ってきているものだったら飲むよ。電池に、いるから。」
・山岳演習場
「こんな山ん中に、本当にあるのか?」
山岳道を歩く集団の中の誰かがそう言った。HUD内のナビゲーションに従っているが、雰囲気は登山コースの行軍で、施設があるとは思えない。しかも先ほどから定期的に発砲音がしており、びくびくする。その2つの心配に反して、ややひらけた場所に出ると、異様に長いコンクリート製の壁と併設された建物が現れた。集団は恐る恐るその建物に近づきドアを開ける。すると発砲音が出迎えた。残響が消え集団が覗き込むと、黒い戦闘服を着て射撃レンジで伏せ、ボルトアクションライフルを構えているスナイパーがいた。
集団の中の一人が、
「あのぉ、今日ここで研修があるって聞いたんですけど~」
というと
「そこから近寄るな!耳を塞いでおけ!5分後に研修を開始する。」
ぶっきらぼうにそう答える。集団が硬直すると、無視するように、ライフル横に置いたPCを操作して何かを確認後、壁の上に据え付けられた吹き流しを一瞥してから目線を戻し、ボルトを操作して弾を装填した。
数回呼吸をすると、まず射撃レンジに生えていると思った樹木がランダムに動き、止まる。そして遙か遠方に何か白いものが立ち上がり、スナイパーの呼吸が遅くなる。やがて息が止まる。山のさざめきが耳に伝わり始めると、銃声と閃光が響き、硝煙がたなびき、こだまが返った。
集団のうちの迷彩服を着ていた一人が、鞄の中からムービーのような者を取り出すと、的の方に向けた。
「303m。……ヒット…。」
その男性は小さくこう声に出すと、ムービーらしきものを降ろし、スナイパーの方を見て、さらに押し殺したように声に出した。
「スコープ、無し?」
スナイパーは立ち上がってライフルをケースにしまい始めると、彼らに声が聞こえる程度に言った。
「そこにあるものが、自分の機材と同じとは限らないからな。全員、奥の部屋に移動しろ。」
射撃レンジに併設された教室は空調もない粗末な作りだった。総勢50名程度が年期の入ったテーブルときしむパイプ椅子に座る。教室前方にレーザーメッシュ通信のハブが設置されている事が、ここが政府施設であり、ただの山の中に見えて光ケーブルが引かれていることを物語っている。
「澤村だ。見たとおり、職業は、」
戦闘服の上半身を脱ぎ、タンクトップになったショートカットの女性は、筋肉のついた腕をついてから、最前列の誰も座っていないテーブルに腰をのせ、
「猟師だ。」
と言った。
一同が思わぬ名称にどっと笑う。その全員のHUDに澤村からのメールが届く。「身分証明書をご確認ください」というタイトルのメールを開くと添付ファイルがあり、添付ファイルを開くと、秋尾と同じIdentification Verified 内閣人事局認証256bit暗号 開示レベル1とある。
氏名:澤村??
省庁:環境省
所属:外来生物対策室
階級:????
年次:????
「さて。場も和んだところで、アタシは教官向きじゃないんで、体で分からせてやるよ。」
そういって澤村はテーブルから下り、安普請の床に鈍い足音を打ち、教壇の後ろに回って、教卓に両手をついた。
「お勉強の時間だ。講義資料を開け。」
受講者のうち数名が、もたつくようなそぶりを見せる。
「あ、あれ?消えちゃった。あ、全部消え…」
「おいお前!さっき送ったメールの添付ファイルを考え無しに開いたな。おめでとう。マルウェアに感染して情報端末は全消去だ。」
受講者が一斉にざわつき、おろおろし始めるものもいる。
「じゃあ、そのまま端末無しでダッシュで帰ってくれ。上りじゃなくて良かったな。」
先ほどの受講者があっけにとられていると、追い打ちをかける。
「意味もなしに、こんな山奥にすると思ったか?それともライフルでも撃たせてもらえるとおもったのか?……走れ!帰りのバスは無慈悲に出発するぞ!」
そういって出口を指さした。
端末を消去された受講者がバディと共に慌てて教室から飛び出していく。続いて別の受講者を指す。
「お前、開いて読め。」
「いえ、あの、マシンが重くて操作が…」
かぶせるように澤村がしゃべる。
「ポルノをクラウドに置くなんて良い趣味しているな。クラウドの中身とSNSで、お好みのジャンルを確かめて、その手のサイトにリーガルマルウェアを仕込んでおいた。水飲み場攻撃で引っかかり、お前のグランドコレクションが、全世界に向けて名前付きで絶賛公開中だ!公用端末でエロサイトなんか見るな!自分のおイタで逝ってこい!」
振り返り、別の受講者を指さす。
「おいお前!DNSのルーティング見てねぇだろ。昨日の夜、新しい端末を不審に思ったお前の奥様が、寝ている間にお前の指と目でセキュリティを突破。メールに転送かけたら、まんまと浮気相手がいい感じの写真送ってきやがって、奥さん現在全力で疾走中だ。事件になる前に対処した方がいいんじゃないか?ああん?」
数歩歩いて、別の受講者のそばに行き、上半身を追って覗き込むように顔を見る。
「そしてお前。なぁ、いろんなサービスで、同じか似たようなパスワード使ってたよな。自分の家の端末まで。辞書攻撃で破られて感染。Botに組み込まれてお友達を勧誘した上で、現在政府系サーバーに絶賛侵入攻撃中だ…」
澤村そう言った瞬間に、その受講者のHUDの前には赤い警告枠で緊急送達の画面が表示される。
【あなたの所有する端末から、政府系機関へのサイバー攻撃を検知しました。速やかに攻撃をやめ、端末を凍結した上で、最寄りの警察署に出頭してください】
受講者が画面を見て震え上がると、澤村は顔を上げ、背を向けて歩き出すと片手を持ち上げ「ご愁傷様。」と言った。
そしてハウとパトロの横に来ると二人の方に目を向けると、
「まともなのは…、おまえ等と、あと数人か…」
といい、そのまま教壇まで戻る。ハウとパトロは顔を見あわせて、腰のあたりで互いの手を小さくタッチする。澤村は教卓の上で先ほどと同じ姿勢になり、見回し上でため息をつく。
「あのなぁ。お前等サイバーセキュリティの研修なのに、真面目にやっているか?アタシが仕掛けたら、ほとんど狙い通りに罠に引っかかってバンだ。」
手で鉄砲のような形を作って打つそぶりをしてから、腕を組み、片足で床を数回鳴らす。
「お前等をハメたのは、主にゼロディ攻撃と言って、セキュリティホールが露見して対処されるまでの空白期間を狙った攻撃だ。昨日渡されたその端末はセキュリティホールがあり、同時に昨日の夜7時にはセキュリティパッチが公開されていた。なのにアンテナを高くせず、気付かなかったわけだ。そもそも端末のセキュリティホールをチェックしなかったか、もしくは自動更新のパラメーターがどうなっているか確認しなかったな。おまけにメールは考え無しに開く、仕事に関係ないサイトに行く、パスワードは使い回し、セキュリティ公衆衛生意識何処吹く風だ。マスクはしてもそっちの穴は塞がねぇんだな!」
引っかかった者たちは、荒げた声にビクッとする。
「てめぇ一人のお漏らしなら笑ってやるが、そっから政府機関に入り込まれて安全に関わる情報が流出したら、司法警察官としてどうなんだ?ああ!」
澤村はテーブルを叩いてそう言った。
「あらゆる道具を安全に使うためには、使う人間にリテラシーが求められるんだよ。少なくとも人様に迷惑かけないようにしろ!」
全員がやや消沈した声で返事をする。
「ふ…。安心しろ。ほとんどフェイクだよ。」
澤村が鼻で一つ笑ってそう言った。いままで蒼白になっていた受講者が安堵の息を漏らす。澤村はその中の一人を指さして続ける。
「ただし、奥さんの話は仕込みじゃねぇぞ、早くなんとかしろ。電話機能使って良いから。」
そう言われた受講者は飛び上がって、教室の外に駆けだしていった。澤村はそれを確認すると
「じゃあ、残ったもので続ける。」
「隊長。いつも通り、露払いしておいたよ。使えるのは10名もいねぇな。」
「…分かった。リストにマークしてくれ。」
「了解。」
・住宅街演習場
「近藤だ。担当はソーシャルエンジニアリング。」
先ほどより大幅に減った受講者を見まわして、筋骨隆々の近藤と名乗る男性はそう言った。
「突然だが、あの目の前の家屋が侵入目的の端末だとして、鍵を盗むかピッキングをするか、そういった形で押し入るのがサイバー攻撃だとしたら、他にはどんな方法があるか?」
いきなりの質問で面食らった受講者が、驚いたまま動かなかったり、バディと小声で相談したりして、答えは出ない。
「正解はこうだ。」
近藤は後ろポケットから帽子を取り出し、小脇に小包を一つ抱え、玄関の扉に近づいて指を一本出すと、インターホンのボタンを押した。すばやくその指をインターホンのカメラに押しつける。
「はーい!どちら様?」
インターホン越しの声がして、それに対して近藤が
「すみませ〜ん。宅配便で〜す。」
と言った。インターホン越しにパタパタと足音がして、扉が開き、中から主婦に扮したオートマータが現れる。
「こういう風に騙して中から開けさせる。騙しきれば相手は気付かないし、この荷物の中にマルウェアを仕込んでおけば、相手は勝手に感染して以降出入りし放題になる。この相手に気付かれないように騙して、自分の目的を達するテクニック全般を、ソーシャルエンジニアリングという。人間という最弱のセキュリティホールを攻撃するハッキングだ。」
受講者が感嘆の声を上げる。
「ところで、俺は話し始める前にお前等に身分証を送ったか。俺がもし政府の人間じゃなく、話していたのがあやまった情報だったらどうした?」
近藤は受講者を見回した。
「感心している場合じゃなく、実践ならお前等全員アウトだぞ。」
「隊長、こいつら全員、人を疑うってとこから叩き込んだ方がいいじゃねぇのか?」
「覚えておくよ。」
「副隊長、一応こいつらの手元のメモ、見せてくれ。」
「見ますか。」
「………。なんだ、こいつ、身分証のこと、気付いてんじゃんか…」
・立体映像研修室
「これが何かわかるか?」
国土交通省で山岳事故、地震や火山、大規模災害全般を担当しているといった羽場は、円形になった受講者全員の目の前で、ARを使って展開された立体映像を指した。障害物の間を玉が流れていくように見える。受講者の一人が
「なにかのシミュレーションですか?」
「街中で爆発が起こった際の、人間の動きのシミュレーションだ。」
切りそろえられた髪に対して、Tシャツから見える羽場の体格は、女性アスリートであった事を思わせる。
「次はこれ。」
空中に多数の点が現れ、その一つの点から別の点に線が延び、時系列に従い加速度的にその連結が広がっていく。ハウが手を上げ答える。
「見たことがあります。革命か何かの時のソーシャルネットワーク上での情報の拡散じゃないですか?」
「正解でもあるが不正解でもある。これはそのシミュレーションだ。」
羽場は全員を見回す。
「人は自らの行動を俯瞰しできないが、、その行動をシンプル化すると、流体や菌の繁殖にように、メソッドが定まっていてシミュレーション可能だ。」
一息おき、続ける。
「2010年代。某国の情報機関と検索エンジン会社が共同で、ウェブやソーシャルネットワーク上で、起こりうる未来を予測しシミュレーションする『世界監視システム』なるものを作り上げた。そこから導かれる、人間の業に根ざした答えを、誰か持っているか?」
ハウが間髪を入れずに答える。
「武器を手に入れたモノは必ず使いたがる。人間の業はそれを避ける事ができない。」
羽場は目だけでハウを見て。
「そうだ。ここで得るべき話は、嗅覚だ。与えられたピースから高速に可能性を予測すること。」
ハウと羽場の話が途中の話をいくつも飛ばした会話のようで、理解できないでいる受講者の仕草を羽場は目で追った。
「こいつ、この古典の話、知っているねぇ。いいねぇ。一度ゆっくり話したいねぇ。」
「妄想癖の女子会じゃねぇのか。」
「もうトラップの予測配置いらないの?」
「…スミマセン」
・移動作戦指揮車
コンテナトレーラーを偽装した作戦指揮車の中は、多賀城と名乗った総務省電波環境課の男性と、作業用のオートマータ数体、そして受講者でかなり窮屈な状態だった。ハウは背の小さいパトロを前の方に連れて行き、自分はその後ろに立つ。
「この作戦指揮車は、特殊部隊の作戦時に用いられるモノで、主としてサイバー絡みの案件で投入されます。通信不安定化を回避するために、極力有線で政府専用の非公然ネットワークBLACK.NETを用います。また現場制圧のためのハッキング部隊を参加させる場合でも、遠隔からの通信ロストリスクを回避するため、現場近くでこの車両を用います。」
HUDを使ってARで概要を説明しつつ、多賀城は早口で進める。
「さて、必要なAIやハッキング部隊が居て回線があり、接続されていれば、別段ロボットなどいらないはずですが、なんでロボットたちがここに居るか分かりますか?こういった作戦行動がない省庁の方答えてください。近寄ってみても良いですよ。」
オートマータは多数のモニター前に座って情報を見、また高速にキーボードを叩き情報を入力している。人型はしていてもかなりの速度であり、人間の目には早すぎて読めない。受講者の一人が多賀城に質問する。
「そもそも、なにがしかの文章なりを打ち込んでいるんですが、物理キーボードを使う意味があるんですか?」
「だから、その理由を聞いています。」
多賀城が背を向けた方向で、ハウがパトロの背中を押して、ほら、小さく声に出す。
「……防壁…」
「ん?どなたですか?」
多賀城が振り返ったので、パトロは半ば手を上げて答える。
「防壁です。エアギャップ…」
多賀城はニッコリとして頷いた。
「その通り。インターネットとBLACK.NETを直接繋ぐと、エレクトロワールドの有象無象が侵入してしまいます。事実、対策をせず直接繋いだ場合、数秒も持たずに制圧されるでしょう。だから直接繋がず、一種の通信の遅延装置として光学的認識と物理的入力を用い、攻撃に対する緩衝材にしている訳です。では実際に直接繋いでみましょう。」
多賀城は手際よく手に持った情報端末をオートマータに接続し、侵入対策をオフにして、続いて自分の端末の回線を抜き、インターネット側の回線をオートマータに有線接続した。
ハウがカウントを始めると、5秒ほどでオートマータが警告音を発して不規則に動き出し、多賀城はオートマータの電源を落とした。
「こうなります。」
受講者が多賀城に質問した。
「それ、どうなるんですか?」
「政府のクリアランス的には初期化です。必要であれば一部部品を交換します。」
多賀城の整った顔から、あっさりと出た全部消すというセリフに、質問した受講者が眉をしかめる。一部の受講者もざわつく。
「そういう顔になりたくなかったら、端末はきちんと扱ってくださいね。」
「現状、必要な知識はクリア出来ていると思います。あとは実践で使えるかどうかですね。」
「じゃあ、宮司。プラン通り、今やっている省庁幹部職物理ベネトレーションテストに使って見てくれ。滝にそっちに回させる。」
「了解です。」
横浜の、おそらく湾岸地区のどこかだろう場所から、自動運転のバスに乗り込んだ受講者は窓が遮光状態になっているので、正確には何処を走っているのかは分からずに居た。朝から乗ってきた大きなバスであるが、それぞれのステップで別行動を指示された者が多く、もう一桁ぐらいの人数しか残っていない。バスの座席もまばらに埋まっているだけだった。
「…オートマータって分かってたけど、ちょっとかわいそうだったね。」
ハウがそう言うと、パトロが頷いた。ぶるっと身を震わせた。自分とさほど変わらない機体のことを我が身に置き換えて、怖く感じたのだろう。
「次どこ?」
パトロがHUD内の表示を見る仕草をする。しかし情報は見当たらなかったようだ。その時、当初から非常時用の運転のための入り込んでいたスタッフが、が二人に近づいてきた。そして椅子の前でしゃがみ、小声で二人に話をする。
「お二人は後ほど、文科省近くで降ろしますので、文科省前のカフェに向かってください。そこで細い目をした長身のウェイターが出てくるはずですから、詳しくは彼に聞いて下さい。」
「なにをするんですか?」
ハウの質問に、一瞬間があり、スタッフは頷くとこう答えた。
「ソーシャルエンジニアリング実習です。」
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