―――


 昨日聞かされた、降って沸いたような正社員への誘い。迷った末、私はある人に相談を持ちかけた。


「どうしたらいいと思います?正社員の話……」

「そうですね。百合さんがどうしたいか、が大事だと私は思いますが。」

 私は長いため息を吐くと、カウンターに突っ伏した。


 ここは私が勤めるお店とは違う、私が昔から通っている居酒屋である。

 そして隣にいるのは、前の職場で一緒に働いていた山崎響子やまざききょうこさん。


 私は事情があって辞めたけど、辞めた後でもこうやって飲みに誘ってくれる響子さんには感謝している。

 自分にはこの響子さん以外友達と呼べる人もいないし、家族もいない。


 妹は8年前に亡くなったし、母も後を追うようにして逝ってしまった。父親は物心ついた頃には既にいなかった。交通事故で私が幼稚園の時、妹が産まれたばかりの時に亡くなったらしい。つまり天涯孤独の身の上だ。


 母が亡くなった後、頼れる親戚もなくまだ高校生だった私は、大学進学を諦めて働く事にしたのだ。たくさんバイトをした。それこそ死物狂いに。


「それにしても、百合さんが居酒屋で働くとは、想像すらしてませんでした。」

「そうですか?でも言われてみれば居酒屋で働いた事なかったかも。色んなバイトしたけど。」

「……正社員の話、迷ってるのはまだ未練があるんじゃないですか?研究センターの仕事に。」

「やだな~、止めて下さいよ。そんな昔の話。迷ってるのはただ急な話に戸惑ってるだけで……」

 冗談混じりに言いながら響子さんの顔を見ると、思いがけず真剣な瞳と目が合って私はたじろいだ。


「例の彼女は辞めましたよ。」

「……え?」

「貴女を追いつめたあの女は、貴女に対する誹謗・中傷、嫌がらせ、全てがバレてクビになりました。」

「そんな…」

「だから百合さん、戻ってきて下さい!所長から頼まれたんです。貴女を説得しろと。」

「………」

 今まで見た事のない必死な顔の響子さんの顔が見れなくて、私は俯いた。


「ごめんなさい。今すぐには決められません。」

 私の言葉に、響子さんの纏っていた雰囲気が元に戻った。申し訳なさそうな声で、彼女は言う。

「そうですよね。百合さんは今、正社員になるかどうかで悩んでいるんでしたね。すみませんでした。混乱させるような事を言って…」

「いえ…」

「でも、百合さんには自分の気持ちに正直になって欲しいんです。貴女が選んだ答えなら、私は応援しますから。」

「響子さん…ありがとうございます。私、じっくり考えてみます。」

「はい。」

 満面の笑顔の響子さんを横目に、私は残っていたビールを一気に煽ったのだった……



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