Ⅲ
―――
大学に行かずに働きながらも、大学に行きたいという希望を諦めきれなかった私は、20歳の時に奨学金を借りて大学に入学した。
昔からの夢であった化学者という道に進む為、一生懸命勉強した。
と同時にアルバイトを何ヵ所も掛け持ちして、生活費と奨学金では足りない学費に充てた。
そして24歳の時、大学院に行こうとしていた私に降ってきたチャンス。
民間の化学総合研究センターに誘われたのだ。
そこは私にとって理想の環境で。
喜び勇んで入所し、毎日毎日研究に明け暮れた。
そこで知り合ったのが、響子さんなのだ。
彼女は女性の化学者という珍しいジャンルの第一人者で、私が出会った誰よりも頭のいい人。ノーベル賞ものの能力を持つと噂される程の天才化学者だ。
研究員はグループごとに同じテーマを研究しており、私は響子さんが所属するチームに入った。
そこで手取り足取り色々な事を教えてもらい本当に勉強になったし、プライベートでも仲良くなれて彼女と出会えた事が今までの人生で一番幸運な事だと思っている。
入社して1年半程が経ったある日、私は突然所長に呼ばれた。
「あの、所長。お呼びですか?」
「わざわざすまんね。藍沢君。早速本題に入るよ。君の所属するAチームのリーダーになって欲しいんだ。実はもう辞令も出てる。」
「…え?」
予想だにしない所長からの申し出に、私の思考は完全にストップした。
「な、何で私なんですか?入所してまだ二年目ですし、他の方たちと比べて経験も実績もありませんし……」
「私の独断で決めさせてもらった。確かに君はまだ若いし、経験も浅い。しかしね、人を惹き付ける才能がある。上手く皆を纏める力があると私は思う。」
「所長…」
「引き受けてくれるね?」
「はい!」
そんな風に評価してもらっていたなんて純粋に嬉しかった。だから私は何の迷いもなく引き受けた。
その日から私は『リーダー』と呼ばれるようになり、心地よい緊張感と充実した毎日を手に入れたのだった。
――
「はぁ~…」
自分の部屋に入ると、今日何度目かわからないため息を吐く。
私はカバンを投げ捨てて、ベッドにダイブした。
「戻って来い…かぁ~」
先程の響子さんの言葉を思い出す。すると、忘れたと思っていた記憶が何の前触れもなく蘇った。
「っ……!」
ギュッと目を瞑り、その過去を消し去る。大丈夫、私は平気。大丈夫……
そう、自分に暗示をかけながら……
だけど閉じた瞳の隙間からは、誤魔化しきれない滴が一つ零れたのだった……
――
それから数日が過ぎた。
「藍沢さん!そっち片付けといて~!」
「はい!」
時は12月、忘年会の季節なのでお店は忙しく、何も考えずにいれる事が私にとっては逆にありがたかった。
正社員になるかならないかの返事は正直まだ迷っていたが、早く結論を出さなきゃとは思っていて、優柔不断な自分に嫌気がさしながらも忙しく毎日を送っていた。
その日は朝からとても寒い日で、お店を開けた時には雪がちらちら降っていた。
何の変哲もない、いつもの日常になるのだと、そう思っていた。
「いらっしゃいませ!」
「おう!百合ちゃん。久しぶりだね。席空いてる?」
「いつものお席なら空いてますよ。」
「いや、今日は座敷にしたいんだ。特別ゲスト連れてきてるからさ。」
「そうですか、じゃあ奥の部屋にご案内しますね。」
常連の竹中さんが肩に雪を乗せながら顔を出したので、てっきりいつも一緒にいらっしゃる同僚の方たちと来たのかと思っていたら、思いがけず座敷でと言われて正直戸惑った。
特別ゲストって言ってたから、何か重大な接待とかだったらどうしようと焦ってた私に聞こえた声。
聞き覚えのある声に、私の体は固まった。
「竹中、俺は忙しいんだ。帰る。」
「まあまあ、そんな事言うなって。毎日あんな部屋に閉じ籠ってるから、お前は頭が固いんだよ。たまには息抜きも必要だ。」
「あんな部屋とはなんだ!だいたいお前はっ…」
竹中さんの後ろから文句を言いながら入ってきた人と目が合った途端、私だけじゃなく彼の時間も止まったように見えた。
たった一人、竹中さんだけが陽気な声で私達に話しかける。
「百合ちゃん、紹介するよ。俺の高校の頃の同級生で、一番の出世頭の
「そ、そうなんですか。あ、藍沢です。よろしくお願いします。」
「こちらこそよろしく。」
竹中さんの紹介に、お互いぎくしゃくしながら会釈をした。
そして再び目が合った瞬間に目覚めた、胸の奥底から沸き上がるような感情。
その感情の名前がどうしてもわからなくて、気づいちゃいけない気がして、私はそっと瞳を閉じた……
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