伽藍の思い出

橘トヲル

第1話 伽藍の思い出

 がらんどうになった、部屋を見る。

 ほんの少し前までは、モノがあふれていた。俺が使っていたこの部屋は小学校3年の時に姉ちゃんに駄々をこねて譲ってもらった部屋だ。わずか4畳半くらいの部屋だったが、日当たり風通しが共によく、窓からは遠く海が見えて、何より小さなロフトが付いていたのが秘密基地みたいでどうしても欲しくなったのだ。

 1歳年上の姉ちゃんは最後には「しょうがないわね」と言いながら譲ってくれたのを今でも覚えている。

 それからこの部屋は俺の城になった。少ない小遣いで漫画を買って、本棚に並べてみたり、姉ちゃんと一緒に読んだこともある。姉ちゃんが中学に上がった頃には、なぜか自分の部屋じゃなくこの部屋で漫画を描いていたこともあった。しかもついさっきまで押入れの奥に突っ込まれていた。高校の頃のダチは、窓辺でヘッドフォンを聞きながら絵を描く姉ちゃんを見て「めっちゃ眼鏡の似合うカワイイねーちゃんじゃん!」とか言って興奮していた。聞いてるの、般若心経だぞって教えたらもう来なくなったが。

 でもなぜか思い出すのは姉ちゃんと過ごした最後の夏。俺が高2の頃のことだ。

 やかましく鳴きまくるセミの声を聴きながら、俺はフローリングの上に寝転がって、いつものように漫画を読んでいて。姉ちゃんもいつも通り窓辺で絵を描いていた。相変わらず耳にはヘッドフォンを着けている。その向こうの窓からは太陽がギラギラと照り付けていて、けれど微かな潮風とともに吹き抜けていく風が心地のいい日だった。

「ねぇ」

 姉ちゃんがスケッチブックから目をそらさずに、手を止めることすらなく声を掛けてくる。俺はと言えば「んー?」とか生返事をした気がする。

「あたし、来年には家出るから」

 一瞬「そうかー」と思って、すぐに意味を理解して仰向けに読んでいた本を自分の顔の上に落としてしまう。

「んぐぇ」

「ぷっ、何その声」

 俺が出した声に軽く吹き出しながら、こちらを見下ろす姉ちゃんを軽く睨み付ける。進学先はすぐ近くの大学だったはずだ。家を出る必要などないはずなのに……。

「あたし、東京の大学に行くことにしたから」

 そう言って笑う姉ちゃんの顔はとても綺麗で。俺は結局何も言えなかった。ただひたすらセミの声が、耳に痛かった。

 そして夏が終わり、秋が過ぎ、冬が去り、春が始まったころ。

 姉ちゃんはこの家からいなくなった。

 その年の夏は、空っぽの心を抱えたまま一人で過ごした。もう、以前のような夏は帰ってこなかった。

 何もなくなった床の上を見る。

 姉ちゃんがいなくなってから一年。今度は俺が家を出る。片付けてすっかり綺麗になった部屋にはほとんど何もモノは残っていない。

 出る直前、今さらになって気が付いた。

 窓から外を眺める。

 海は柔らかな陽光を照り返している。記憶の中の海とは違ったが、何もないこの部屋に残っている思い出は目を瞑れば、いつでもあの夏の日が思い浮かぶ。

 姉弟の笑い声が、聞こえた気がした。

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