どんぶり一杯の霊峰
バチカ
どんぶり一杯の霊峰
私の宝物の話をします。
一杯のラーメンどんぶりです。
今は綺麗に洗浄され、実家の床の間に置かれています。
なぜ、宝物なのかというと、帰省するたびに私に応援の言葉をかけてくれるような気がするからです。
――いくら負け続けてたって、焦っちゃいけないよ。最後の最後で勝ち取っちまえば、それでいいのさ。
なぜ、そんなことを思うのかって? その理由を語るためには、まず私のおばあちゃんの話をしなければいけません。
★★★
私のおばあちゃんは最強でした。
どれくらい最強なのかと言えば、自分よりも遥かに若くて屈強な男と喧嘩して、勝ってしまうほどです。
大学二年の夏休み、下宿先から実家に帰省した私を出迎えたのは、何台ものパトカーが家の前に停まっているという剣呑極まりない光景でした。
何が起きたの⁉ と、玄関を恐る恐る覗いてみると、警察官相手におばあちゃんが叫んでいました。
「だから言ってるだろ! アタシは当前のことをしたまでだよ。あんたもお巡りさんなら分かるだろう⁉」
半袖の柄シャツと無地のズボンという年相応の身なりをしたおばあちゃんが、皺が増えて薄くなった瞼を目一杯に見開き、強面の制服集団を相手に頭一つ小さい位置からしわがれた声でぶん殴るように捲し立てています。
幸いにも近くにお母さんがいたので、私は何事? と、訊いてみました。
「あ、
「た、ただいま。でも何があったの? ただ事じゃないよね」
実はね――と、お母さんが教えてくれたのは、私が帰省する前日の夜に起きた出来事でした。
一階の部屋で寝ていたおばあちゃんは、何やら悪い夢を見て目を覚ましたそうです。布団から身を起こしたおばあちゃんが目撃したのは、今まさに窓ガラスに小さな穴を空けて、中に侵入しようとしていた泥棒でした。
おばあちゃんは、叫びました。
「こるぁああああ!!」
泥棒はさぞ驚いたことでしょう。後に聞いた話によると、叫んだ拍子に口から入れ歯が飛び出し、泥棒の顔面に食らいついたのだそうです。口から口が出て攻撃するとか、それ何てエイリアンですか。
突然の不意打ちに泥棒は驚きましたが、おばあちゃんの怒りは収まりませんでした。それもそのはず、なんと泥棒の手には、キラリと光る危険なものがあったからです。次の瞬間には、おばあちゃんの手には護身用の杖が握られていました。
「人ん家に忍び込んで来やがったばかりか、危ないモン持ってるとはいい度胸だね! このアタシらに手を出したからにゃ、覚悟は出来てんだろうな!」
二階で寝ていた両親には、おばあちゃんと泥棒の具体的なやり取りは分かりません。おばあちゃんの怒鳴り声で目を覚ました二人が聞いたのは、どすんばたんという激しい物音と、男の人の悲鳴と、ドアを勢いよく開ける音と、おばあちゃんの「待ちやがれおんどりゃああ!」という叫び声だったそうです。
やがて、泥棒は逃げるように交番へ避難したようですが、お巡りさんはさぞかし驚いたことでしょう。当時そこにいたお巡りさん曰く、包丁を手にした男が半泣きになって署に来たかと思いきや、鬼の形相を浮かべたおばあちゃんが走って来たのだそうです。
「タスケテ、オマワリ、サン……」
「おんどりゃあ、人んちに無断で入って危ないモン振り回しておいて、助けてお巡りさんとか何おこがましいこと抜かしてんじゃコラァ! 今度やりやがったら怪我じゃ済まさねえぞこの野郎ッ!」
かくして、泥棒は逮捕――というよりは警察の手で保護され、おばあちゃんには後日詳しい話を聞くことになりました。で、現在に至ります。
「でも、おばあちゃんが強いのは近所でも有名でしょ。それなのに泥棒とか、よっぽど知らない人が来たんだね」
「犯人は、外国籍の労働者らしいよ。外国人じゃ知らなくて当然よね」
「マジで? それは知らなかった。なんだかここも物騒になってきたね」
なんてことをお母さんと話してると、ひとしきり警察と話をし終えたおばあちゃんが、こっちにやってきました。
「おお、紅羽ちゃん帰って来てたのかい! なんか悪かったねえ。せっかく帰って来てくれたのに、なんかこんな慌ただしい感じにしちゃってさ」
「ああ、いやいや、大丈夫だよおばあちゃん。話は全部、お母さんから聞いたよ。無事でよかったね」
「心配には及ばんよ。アタシがあんなクソ野郎なんかに負けるわけあるかい。紅羽ちゃんなら分かるだろう?」
「分かってるよ。おばあちゃんは、最強だもの」
「分かってるならいいさ。さ、何飲むかい? 冷えた麦茶があるんだ。あと、アイスも買ってあるんだ。食うか?」
と、しわくちゃの顔を更にくしゃっとさせるおばあちゃんは、孫の私に接する普段のおばあちゃんと変わりませんでした。昨晩に泥棒退治した人物と同一視するのに苦労してしまうほどです。その日、私は帰省のために持ってきた荷物を自分の部屋に置いて整理をした後、おばあちゃんの買ってきてくれたアイスを食べて過ごしました。
――そんな最強のおばあちゃんですが、この夏、運命的な出会いをします。きっかけは、家に訪ねて来た地元の友達、
「ねえねえ、近所に大笑軒ができたんだけど、一緒に食べに行かない?」
居間にて翼より提供された情報は、真夏の暑さに半ば抑圧されていた私の気分を、大いに高揚せしめるものでした。
「嘘、本当に⁉ 行く行く! いつ開くの? やっぱり混んでるから開店する前から並んだほうがいいのかな?」
大笑軒とは、私の下宿先にあったラーメン屋です。多いときは毎日通い詰めたほど大好きなラーメン屋で、その店からしばらく離れてしまうことを考えてしまうと、長期休暇の帰省ですら少し憂鬱に感じられてしまうほどでした。そんな店が、まさか地元にも支店を建てていたとは!
「11時頃だから、もうすぐかな。開店したのはGWの後だったんだけど、開店当初は凄い行列だったよ。でも、今はもう落ち着いてるだろうし、今日は平日だから、まだあんまり混んでないと思うよ」
「そうなの? 最高じゃん。でも、何食べようかな。今日は朝ごはん食べちゃったし、ふじ麺中盛かなあ」
「朝ごはん食べちゃった。って言っておきながらそれチョイスするとか、流石は紅羽だね。あたし、この日に備えて朝ごはん食べてないんだけど……」
そんな女二人のやり取りに導かれて、私達の所にやって来たのはおばあちゃん。
「なんだか楽しそうなこと話してるね。一体、何事だい? ……お、翼ちゃん来てたのかい。いつも孫の紅羽ちゃんに仲良くしてくれてありがとうね。あ、何飲むかい? 麦茶があるんだ。あと、アイスも先日の残りもあってね。何味があったっけかなあ。食うか?」
「ああ、いえいえ、お構いなく。いつもありがとうござます」
実はさっき翼は「おはようございます」って言ってたんだけど、それすらお構いなしに喋りまくるおばあちゃん。流石はいつものおばあちゃん。とりあえず、私はおばあちゃんに翼と盛り上がっている話題について答えました。
「これから翼ちゃんとラーメン屋に行くの。新しくできたのなんだけど、私の下宿先の近所にもあったやつでさ。凄く美味しいんだ」
「へえ、ラーメン屋ねえ。ラーメンって言ったら、喜楽屋のしか食ったことねえから分らんが、紅羽ちゃんが美味しいっていうんなら気になるね。アタシも行ってみたいねえ」
おばあちゃんの返答に、私は戸惑ってしまいました。
喜楽屋は、地元に昔からあるラーメン屋です。鳥ガラ醤油をベースにしたスープに、細い麺が絡む昔ながらのラーメンが売りの店です。おばあちゃんの好きなジャンルで、よく私もおばあちゃんと一緒に食べたものです。
けれども、これから私達の行く大笑軒は、喜楽屋とは対称的です。だから、翼は言ってしまったのです。おばあちゃんに絶対言ってはいけないことを。
「えー、でもおばあちゃんには無理でしょ。あれはお年寄りが食べるようなものじゃないですよ。どちらかと言えば、私達よりもずっとガタイの良い男の人が食べるような――」
「アタシに無理とはどういうことじゃオラァッ!」
さっきまで朗らかだったおばあちゃんの顔が一変。爆発物に火種を巻いたかのように憤怒の形相で怒鳴ったのです。その怒声は私達の和気藹々とした雰囲気を容易く吹っ飛ばしました。ギャグマンガの世界だったら、きっとこの部屋の窓ガラスが全て割れたかもしれません。
「アタシがこの世で一番嫌いなことはね、やってもいないことを無理だと言われることだよ。翼ちゃんだって知らんはずはねえよな? たかがラーメンごときで無理だと抜かされるたあ、アタシも舐められたもんさ。上等じゃないか!」
すっかり圧倒されてしまった翼に代わり、私が助け船をします。
「でも、あそこのラーメンは本当にヤバいんだよ。喜楽屋のとは全然違う。量も多いし、スープもずっと濃いんだ。友達の中には完食出来なかった人だっているほどなんだよ? 翼だって、おばあちゃんのことを思って言っただけなんだって」
「なんだい。紅羽ちゃんまでそんなことを言うのかい? そこまで心配されるほど、こちとら落ちぶれちゃいねえんだよ。俄然、そのラーメンが気になったねえ。ちょうど昼飯も決まってなかったんだ。アタシをそこへ連れてきなあ!」
★★★
夏休みながら平日というのもあって、昼間の大笑軒は空いていました。カウンター席に何人かはいたのですが、私達全員が座れる程度のボックス席は十分に確保されていたのです。
大笑軒の店員は、私達を見て少し驚いたのかもしれません。なにせ、大学生の女二人とおばあちゃんの計三人ですから。大学生とか作業着姿の男の人とかがメインであって、女の人と言えばせいぜい家族連れで来るお母さんや女の子程度。という大笑軒において、女三人というのは如何にも奇異に映るのでしょう。
下宿先の大笑軒でも同様でした。けれども、私はいつも一人で行っていました。周囲から不思議な目で見られたものですが、私はラーメンが食べたいだけであって、知ったことではありません。その辺の図太さは、きっとおばあちゃんから受け継いだものでしよう。
今のおばあちゃんは、怒り心頭だった当時よりもずっと穏やかな様子で座っています。これは、おばあちゃんの信条の一つによるものです。
「何かを食べるときは、腹が減っているから以外の理由で不機嫌になるんじゃないよ。機嫌が悪いと、どんなに美味い飯も不味くなってしまうんだ」
とのことです。それに、この時間に至るまでに、大笑軒のおすすめについて、翼と三人でおばあちゃんに色々教えたんですよ?
「で、この大笑軒ってのは何がオススメなんだい?」
「つけ麺の店なんだけど、一番のオススメは、やっぱりふじ麺かな」
「ふじ麺? なんだい、そりゃあ」
「とにかく、具が凄いラーメンなんですよ。どんぶりの上に、キャベツやらもやしやらチャーシューやらがドーンと乗ってて……」
「へえ、なんだかよく分からないけど、面白そうだね。決めた。アタシもそれにするよ」
「おばあちゃん、覚悟してよ。相手はただの大盛りなんてものじゃないんだからね」
「そう言われると、ますます楽しみになってくるね。早く食べたいよ、そのふじ麺とやらをよ」
かくして、注文したのはふじ麺三つ。私だけは中盛を頼みましたが、その注文に店員はまた驚いたようです。まあ、その気持ちは分からなくはありません。女性ならば、ふじ麺を複数でシェアして食べてもおかしくはないのですから。邪道ではありますが。
やがて、店員が持ってきたラーメンに、おばあちゃんは目を丸くしました。
「お待たせしました。ふじ麺中盛一つと並盛二つです」
「なんだいこりゃ⁉ これがラーメンなのかい⁉」
そんな反応が出てしまうのも、無理はないのかもしれません。なぜなら、肝心の麺が全く見えず、代わりにチャーシューやらもやしやらキャベツやらニンニクが、まるでどんぶりに蓋をしているかのように山盛りになっていたのですから。
分厚く切られたチャーシューは麓に在る湖のように寄り添い、全体を形作るもやしは白く渦巻く入道雲のように高く積まれ、更にその上を、雪化粧よろしくキャベツと醤油漬けのニンニクが乗っかっていました。もやしにはうっすらと黒胡椒が振りかけられており、ほんのり香るスープやニンニクの湯気と相まって、見る者の鼻をくすぐります。
我が国を象徴する霊峰の名を冠するラーメンを前にして、私の心は踊りました。嗚呼、これが故郷でも食べれるとは。大丈夫ですよ、おばあちゃん。食べる前に「いただきます」と言うのを忘れてはいませんから。
これはあくまで私の食べ方なのですが、山は必ず崩して混ぜる派です。茹でたてシャキシャキのもやしを、背油たっぷりのスープが絡みついた太くてコシの強い麺と一緒に食べるのが好きなのです。と言っても、いきなり崩そうとするとこぼしてしまうので、まずは中腹のもやしを削り、山麓から掘り出した麺を少しすすってから崩します。
崩れた具の山を麺一緒に胃袋へと放り込んでいきます。弾力のある太麺の食感にシャキシャキとしたもやしやキャベツの小気味よい食感が合わさり、私の口の中の全てを楽しませます。さらにそこへニンニクの香ばしい香りと醤油ベースの濃厚なスープの香りが食欲を刺激し、箸を持つ手を止めさせません。
具の山が小さくなっていくと、山盛りのもやしのベールに隠された、背油たっぷりのスープの全貌が明らかになってきます。この状態になってくると、私は崩した山を更に掘り進めていくような気分になります。
私は冒険者なのです。スープを目一杯吸って染まった具や麺を腹の中へ溜め込んでいきながら、このどんぶり一杯の山の中に隠された秘宝を求めて潜入する冒険者なのです。その先にあるのは、腹を満たしたという満腹感、充分に食べたという満足感、そして、この霊峰を食らい尽くしたという達成感――それらは私にとって、目も眩むほどの黄金にも匹敵する価値があると言っても過言ではないでしょう。
至福の時間は、あっという間でした。気付いた時には、どんぶりの中には何もありませんでした。後は、自分や他の人のペースも見つつ、ゆっくりスープもすすろうかなと思います。翼は私よりも食は相対的に細いので、まだ麺がいくつか残っているようですね。おばあちゃんは……?
私は我が目を疑いました。減ってないのです。もやしの山が、私が食べ終えた今でもまた真っ白なままなのです。
いや、ふじ麺を嗜む人の中には、もやしを混ぜずに麺を掘り起こしながら食べる人もいて、おばあちゃんもその流派に属する人なのかもしれません。ですが、おかしい。何がおかしいって、おばあちゃんの顔色がおかしいんですよ。
刹那、とても聞きたくない音がおばあちゃんの方から耳朶に触れてきたのを私達は認めました。形容することすら憚られる嫌な音です。さらに恐ろしいことに、おばあちゃんがいるのはボックス席の上座で、私は通路側に座っているのです。つまり、これから来るかもしれない最も恐ろしい出来事が、私がおばあちゃんの逃げ道を塞いでしまっていることによって、最悪の形で起きてしまうかもしれないということです。
私はまず、おばあちゃんに確認しました。大丈夫? と。その答えが、無言で首を左右に振るだけだったのを見て、私は急いで席を立ち、おばあちゃんを歩かせました。
おばあちゃんは、店の隅にあるトイレに消えました。そこから恐ろしい音が一切響いて来なかったことだけが、私達にとって唯一の救いでした。
戻ってきたおばあちゃんは、今までに見たことがないほど、憔悴しきっていました。その顔は、戦意を喪失した戦士そのものでした。私は愕然としました。ただ単にトイレであれをした程度では、人間は今のおばあちゃんのような顔にはなりません。あれは、それ以上に大きな負の何かに直面した人間がなる顔です。つまり――
この日、私は初めて、おばあちゃんの敗北を目の当たりにしました。
★★★
その夜、おばあちゃんは晩御飯すらろくに食べれない有様でした。両親から食べるよう促されても、箸を持つ手が動きません。
よほど敗北のショックが大きかったでしょうか。いや、どんな辛いことも笑いや怒りのようなエネルギーに変換して立ち直る最強のおばあちゃんです。だから私には、おばあちゃんが晩御飯を食べれない本当の理由が、なんとなく分かりました。
「おばあちゃん。もしかして、ふじ麺がまだ残ってる?」
「……ああ。こいつはかなり厄介だね。食い物を残すという屈辱を二度もアタシにさせたばかりか、今も腹の中で土嚢みたいに居座ってやがるよ。ここまでコテンパンにされたのは、何十年も生きてるが初めてだ」
やがて、おばあちゃんは席を立ちました。ダイニングを出て行った方向から察するにトイレでしょう。
いや、ふじ麺のボリュームはかなりありますから、晩御飯の時間になっても未だ胃の中に残っていることはよくあります。朝ごはんを抜いてふじ麺を食べた翼も「今日はふじ麺だけ食べる日だよ」と言っていたくらいですし。
おばあちゃんが食べ残した分は、可能な限り私が食べました。食べ物を残すことは、許されませんからね。
翌日。一晩寝れば嫌なことも癒えるもので、おばあちゃんはケロリとしていました。いつも通りに朝食や散歩といったルーティングを終えると、居間でゴロゴロしている私の下へやってきます。
「さあ、紅羽ちゃん。アタシはこれからどうすればいい?」
「どうする? 何を?」
「決まってるだろ、ふじ麺だよ! どうすれば、あいつに勝てるんだ⁉」
どうやら、嫌な気持ちこそ癒えたのですけど、代わりにふじ麺への怒りと復讐心が、おばあちゃんの心の中を満たしてしまったようです。
何か悪いことをしたわけではないのに詰め寄られ、私は座りながら後退りしました。あ、壁が背中にぶつかりました。もう逃げられませんね。
「紅羽ちゃんは学校の近くでいつも食べてるんだよな? あれを食べようって思った時、普段はどうしているんだ? アタシは参考にしたいんだ。さあ、言いな!」
「え、ええと、今日はふじ麺を食べるぞ。って、朝の段階から気持ちを作って……。あと、翼のような小食の子とかは、朝ごはんを抜いて徹底的にお腹を空かしたり、身体を動かして消化がしやすいような状態にしてるよ」
よくよく考えると、ラーメンを食べるためのコンディションを予め作る。って変な話ですよね。
「……ほお。成る程。じゃあ、今日は朝御飯食べちまったから無理だな。挑むのは明日からにしよう」
「明日⁉ もう? 体壊してたのにすぐ行くのは、おばあちゃんの身体的にも良くないよ。せめて、一週間後にしよう? そうすれば、万全の態勢でリベンジが出来るかもしれないからさ!」
「むぐぐ、確かに、紅羽ちゃんの言うことももっともだね。腹の中にまだあいつが残ってるんだったよ。良いだろう。その代わり、一週間後、必ずアタシを大笑軒に連れて行きな。今度は絶対に負けないからな」
「うん。分かった」
かくして、再戦への決意をおばあちゃんは固めました。
で、来たるべき一週間後の戦いに向け、おばあちゃんは何をしたのかというと……。
その日、
「おばあちゃん、何してるの⁉」
「決まってるだろ! 日課の筋トレだよ!」
いや、おばあちゃんが趣味で筋トレを嗜んでいるのは知っています。けれども、固定した物干し竿に脚を引っ掛けて腹筋運動しているおばあちゃんを私は見たことがありません。てかそれ、昔のカンフー映画でしか見たことないんですけど。
「相手は強敵なんだよ。今までと同じようなやり方で勝てるもんか!」
三日目、
「おばあちゃん、散歩おかえりー。今日は遅かったねえ」
「いやー、体力も付いて自信着いたからねえ。ちょいとイオンまで走っていったよ」
「へー。って、ええ⁉ あそこ? 凄く遠いよ⁉ ここから車で一時間だよ? 走ってきたの?」
「そうだよ。それの何が悪いんだい? そうそう。これ買ってきたアイスだよ。紅羽ちゃん食べな」
そう言っておばあちゃんがくれたスーパーカップは、蓋を開けてみると隅っこがうっすらと溶けているとかそういうのが全くなくて、冷蔵庫から出したばかりのようにしっかりとした形が維持されていました。
というか、おばあちゃんが今まさにテーブルの上に置いた二つの大きなビニール袋は何ですか? 食品やらが大量に積み込まれているようですが、まさかそれイオンで買ってきたやつですか? つまり、炎天下の中それ持って、ここまで走って来たってことですか? それも、このアイスを無事に家まで持って来れる程度の速さで?
おばあちゃん、なんでたまにしれっと人間を辞めるような芸当をするんですか。
五日目、
「この辺の道、とても綺麗になったね。昔は落書きとかもあったのに」
「ああ、それな、アタシが消させたんだ」
今、私とおばあちゃんの二人で散歩している地域は、壁の落書きが放置されたままになっているなど、とりわけ治安の悪い所でした。けれども、ついさっき通った高架下は、真っ白に新しく塗り替えられており、落書きなど全く見られませんでした。その理由が、おばあちゃんが消させたから? 私は眉を潜めて、更に詳しく訊いてみました。
「一昨日の夜、散歩してたらよ。悪ガキが何人かで集まって、あの辺で落書きなんかしてやがったんだ。アタシが注意してやったらよ。うるせえババアっつって生意気にも喧嘩売ってきやがったんだ。だから、返り討ちにしてやった。けどよ、向こうも反省なんて全くしねえで、すぐに援軍を呼んで来やがった。アタシは腹が立ってね。向こうが謝るまで徹底的に懲らしめてやったわ。で、二度と落書きなんかさせてねえために、そのガキ共全員に、ここいらのペンキの白塗りをさせてやったんだよ」
いや、おばあちゃんの注意に逆恨みする不良も不良で最低ですが、それらを皆倒したばかりか白塗りまでさせるおばあちゃんって、孫の私が言うこともなんですが、一体何者なんですか。
七日目、つまり、当日、
朝食一つ取らず、おばあちゃんは午前中から、冷房の効いた居間の隅でじっとしていました。なぜかというと、おばあちゃん曰く「朝ごはん抜いてるとイライラしてしゃあねえ。だから、隅っこで瞑想してるんだ」とのこと。
まるで石像のように座禅を組んでいるおばあちゃんですが、全身から「近づくな!」というオーラが溢れ出ています。もはや生きてる呪いの像です。不用意に近付いて何か粗相でもすれば、間違いなく祟られますね。物理的に。
やがて、開店時間となる11時。おばあちゃんはゆっくりと瞼を開き、叫びました。
「さあ、時が来たよ! アタシを連れてきなあ!!」
同じく居間でゴロゴロしていた私は、怒鳴り声に鞭打たれたように飛び起き、おばあちゃんを大笑軒へ連れて行きました。
開店間もなくだったおかげか、人はまばらでした。見るからに大笑軒を愛好してそうなガタイの良い男が何人かいた程度です。私達は、そんな人達のいるカウンター席に座りました。
隣にいた若い男の人が、少しびっくりした様子でこちらを見ていました。おばあちゃんと孫と思しき女性という組み合わせが、見慣れなかったからでしょうか。それとも、仇敵を討たんと燃えるおばあちゃんのオーラに怖気づいているからでしょうか。
やがて、注文したラーメンがやってきました。ふじ麺が、おばあちゃんと相対します。改めて、ふじ麺の威容を思い知ります。どんぶり一杯の霊峰は、また挑みに来た挑戦者を歓迎する、王者の如き貫録がありました。
ふと、隣にいた恰幅の良い男が「食べるの?」と思わず口にしてしまい、おばあちゃんから殺気の籠った目で睨まれてしまいました。戦いに挑む戦士に小さくともヤジを飛ばすなんて、いけないことですよ。
一方、私は別のを頼みました。
大笑軒のふじ麺は私のお気に入りなのですが、この店のメインは別にあります。それが、盛りそばと呼ばれるつけ麺です。麺の入ったお椀とつけ汁の入ったお椀の二つでワンセットのラーメンで、その中で最も私が好きなのが特製ふじ盛りそばです。
つけ汁の上には角切りされたチャーシュー、青々とした生キャベツ、醤油漬けのニンニクといった具が山ほど乗っており、豚骨ベースの魚介系の香りは、カウンターに置かれた途端に私の食欲のリミッターを解除させてしまいます。つけ汁として調製されたスープはどろっとするほど濃厚で、それでありながら具である生キャベツの甘味との相性は抜群。冷や盛りにさせた冷たい麺を熱々のつけ汁にくぐらせ、汁のエキスをたっぷり吸った麺を一口すすれば、うまみと香りが瞬く間に脳内にまで駆け巡ります。ああ、幸せ。
ふじ麺も好きですが、盛りそばもたまりませんね。で、盛りそばには、麺も具も食べ終わった後にもう一つ楽しみがありまして、それが、つけ汁を麺を茹でるのに使ったお湯で割る、スープ割りというものです。いわゆる、ざるそばに於ける蕎麦湯ですね。夢中になって盛りそばを平らげた私は、早速店員さんにスープ割りを頼むべく……、
「おい! 大丈夫か!」
「え?」
逼迫した男の声が聞こえたのはまさにその時でした。声がした方向を見て、私は吃驚しました。
「おばあちゃん!!?」
おばあちゃんはどんぶりに顔をつけたまま突っ伏していました。顔がスープの中に沈んだまま動いていません。
ああ、なんてこと。私がつけ麺に夢中になっていたすぐ隣で、とんでもないことになっていたなんて! この私がすぐそばにいながら、一体何をしているんですか。
しかし、今は後悔している暇なんてありません。声をかけてくれた隣の男の人にも手伝ってもらい、おばあちゃんをどんぶりから引き離します。おばあちゃんの顔はふじ麺のスープで汚れており、どんぶりの中の方を恐る恐る覗いてみると、もやしやら麺やらが、まるで冥府の門の前で手招きする亡者達のように大量に余っていました。
おばあちゃんは無事でした。すぐさま意識を取り戻したのですが、その直前に吐き出したスープは、私にはチャンピオンからボディを食らったボクサーが吐く血のように見えました。
店員が救急車を呼んできてくれたようで、おばあちゃんは一応医師の診察を受けることになりました。命に別状は無く、健康状態も問題なしだったようですが、二度目の敗北という事実だけは、おばあちゃんの心に深手を負わせていました。そして同じく、あの場にいながら気付いてあげられなかった私の心にも。
「ごめん、おばあちゃん。私が隣にいたのに、全然気付いてあげられなくて。もし男の人が助けてくれなかったら、私……」
「泣くんじゃねえよ、紅羽ちゃん。これは全部、アタシの問題さ。負けちまったばかりか、紅羽ちゃんには心配させるわ、店には迷惑を掛けちまうわ、アタシはなんてことをしてしまったんだ。アタシはただ、あのふじ麺って野郎に勝ちてえだけなのによう……」
罪の意識のあまり病院の診察室で泣く私を、おばあちゃんは優しく抱きしめてくれました。
「ごめんな、紅羽ちゃん。アタシ、やっぱあのふじ麺には勝ちてえわ。あいつに勝たなきゃ、アタシは死んでも死にきれねえ。完敗の味はラーメンの味でした。なんて、みっともないったらありゃしねえだろ? だから、もうちょっと付き合ってくれねえか」
おばあちゃんの決意に、私は首を縦に振りました。もうこうなったら、私も覚悟を決めます。おばあちゃんの打倒ふじ麺の戦いに全力で付き合います。何があったとしてもすぐに助けられるよう、サポートする所存です。おばあちゃんの優しさに助けられ、私は覚悟を決めました。
★★★
大それたこと言って早々なのですが、私は思わずおばあちゃんに突っ込んでしまいました。
「おばあちゃん、何してんの!!?」
今、私達がいるのは地元にある大学です。翼ちゃんが通っている大学なのですが、そこにあるラグビー部の部員達に混ざって汗を流す女性が一人。
「おるぅああああああ! おんどりゃ、この程度かあ!!」
おばあちゃんよりもずっと体格の大きな男の人が、大きなテディベアのように吹っ飛びました。
なぜ、おばあちゃんがここにいるのか。実は、おばあちゃんが溺れかけた時に助けてくれた人物がこの大学のラグビー部員だったそうで、そのことに興味を持ったおばあちゃんがラグビーをやってみたいと言ったのだそうです。理由はおばあちゃん曰く、
「この兄ちゃん、ふじ麺の大盛りも余裕で食えるそうじゃないか。で、なんで食えるのかって聞いてみたら、ラグビーやってるからって答えたんだ。だから、アタシもラグビーやってみたくなったんだ。出来るヤツの真似をすれば、アタシもふじ麺を食えるようになれるかもしれないからね」
とのこと。
当然、おばあちゃんのラグビーやりたい発言に、屈強なラグビー部員達は戸惑いました。自分よりも頭一つ、いやそれ以上に小さなおばあちゃんが自分達と混じって激しい練習をするなんて考えられないからです。ラグビーは、ともすれば練習中にも酷い怪我が起こりうる激しいスポーツ。万一何かが起きた時に、部も責任を取れないと思ったのでしょう。
けれども、彼等の心配は杞憂に終わりました。当然ですよね。マットレスのように吹っ飛ばされる男の人を見れば。
さて、次の練習は、タックルです。機動隊の盾のようなマットを構えたおばあちゃんが、部員のタックルを受け止めます。
「さあ来な!」
自分よりも小さくか弱そうな老婆にタックルすることに躊躇いを見せた彼ですが、先ほど吹っ飛ばされた仲間の姿が脳裏を過ったのでしょうか、意を決しておばあちゃん目掛けて渾身のタックルを――
あっさり受け止められました。
おばあちゃんよりもずっとずっと大きな男の人がぶつかったというのに、おばあちゃんは吹っ飛ぶどころかびくともしません。おばあちゃんは、まるで少しだけ地表に露出した巨岩のようです。男は苦悶の表情まで浮かべて更に力を込めますが、おばあちゃんは全く動きません。余裕に表情を浮かべているばかりか、逆に呆れて溜め息まで漏れる始末。そして、
「この程度か、
怒声と共におばあちゃんが力を解放すると、男は畳一畳分くらい盛大に吹っ飛ばされ、仰向けに倒れました。
続いて、今度はおばあちゃんがタックルする番。一人だけでは(部員の方が)危ないということで、複数の部員がスクラムを組んで待ち構えます。
結果ですか? 一言で表すなら、ボウリングのストライクです。
グラウンドの上に無様に投げ出された男達は、まさにボールに倒されたピンのよう。彼等の中には、自分達をあっさりと倒してもなお悠然と立つおばあちゃんの威圧感に、怖気づいて戦意すら失ってしまった人もいるようです。
そんなおばあちゃんの雄姿を見て、私の隣にいた監督が一言。
「あのおばあちゃんいいね。チームに欲しい」
「色々と面倒だと思うので、勘弁してください」
私は冷静かつ丁重にお断りしました。
「紅羽ちゃんの友達から聞くにゃ、あんたらは全国上位の強豪なんだろう? なのにこのアタシに手も足も出ねえってのはどういうことなんだい? 代わりにアタシが、もっと鍛えなおしてやろうかコラァ!」
おばあちゃんの咆哮が、グラウンドに響き渡りました。
さて、おばあちゃんが大学のラグビー部にお邪魔した理由はもう一つあります。それは、彼等と晩御飯を一緒に食べることです。大笑軒で。
もう一度言います。大笑軒で。
実はおばあちゃん、この時に備えて、今日は水以外ろくに口にしていないのです。飢えは最高のベストコンディションである。と言う人もいますが、そんな体調で学生達のラグビーに参加していたのですから驚きです。かくして、おばあちゃんは自分よりも遥かに体格の大きい男達を引き連れて、大勝軒を訪れたのでした。
男達がカウンターやらボックス席に座ります。おばあちゃんはカウンター席に座りました。当然ながら、身内である私も同伴です。
ラグビー部員達は、盛りそばにふじ麺と様々なラーメンを注文します。私もふじ麺を注文しました。そして、言うまでもなく、おばあちゃんも注文します。ふじ麺を。
「三度目の正直だよ。次に勝つのはアタシさ」
「おばちゃんなら出来ますよ。なんてったって、最強なんですから!」
おばあちゃんの意気込みに、学生の一人が声を上げます。他の男達も呼応して口々におばあちゃんを応援します。あの練習がきっかけで、おばちゃんとラグビー部員の間には、熱い絆みたいなのが出来てしまっているようですね。
「有難いねえ。アタシは幸せもんだよ」
三度目の霊峰が、おばあちゃんの前に現れました。ここまでくると意気込みも全く違います。というか、朝も昼も抜いてて空腹感がマックスのおばあちゃんの放つオーラの巨大さたるや、ふじ麺の霊峰すらひと掴みで丸呑みにしてしまわんとするほどです。
前回の反省を踏まえ、私はおばあちゃんを注視しつつふじ麺を口にします。
私がもやしの山肌を崩そうとしていたとき、おばあちゃんは山麓に埋まる麺を掘り起こしていました。そう言えば、おばあちゃんはスープを吸ったもやしの色があまり好きではないと言っていました。なんか色が汚くなって食欲が失せるのだそうです。
私が具の山を崩してどんぶりの中身を掘り進めていた時、おばあちゃんの霊峰もまた徐々に小さくなっていました。
私が麺ともやしを纏めて胃袋へと放り込んでいる時、おばあちゃんもまた麺を口の中へと放り込んでいました。
私が具材のほとんどを食べ終え、スープの底に隠れる残党を探っているとき、おばあちゃんのペースに少し陰りが見えました。
いえ、これは想定の範囲内。いつもおばあちゃんは言っています。少しペースが遅くなったくらいで動揺はしてはいけないと。それくらいはカバーできる精神力は必須だと。
ラグビー部員の中には、既に間食している者もちらほら。けれども、誰も帰りません。なぜなら、主役はまだ戦っているのですから。
完食した私がおばあちゃんを確認すると、既に白い霊峰が消え、麺やもやしがスープの中に残っているだけになっていました。後は、これを掘り進めば完了です。
がんばれー! と声援を飛ばす部員も出ます。おばあちゃんは親指を立てて、まだ行けるとアピールします。
一口、また一口と腹の中に放り込みます。スープの色に染まった麺が、おばあちゃんの腹の中へまた一つまた一つとのしかかっていきます。
「……!」
おばあちゃんからまた嫌な音が! 箸を持つ手が止まります。もう充分だろ。と、おばあちゃんの身体は訴えます。けれどもおばあちゃんは、この時まで今日は飯抜いて来たのに、これで沢山なわけねえだろ。と、抗います。このせめぎ合いが、おばあちゃんの中で繰り広げられているのです。
スープの深淵から覗く麺やらが、満身創痍の戦士を嘲笑う魔物達のように、おばあちゃんに語り掛けます。我らは未だ在る。それでも食らうか、それとも引くか、と。けれども、おばあちゃんは退きません。箸で麺を掴み、口の中へと運びます。
これは意地です。おばあちゃんは普段から言っています。どんな時でも目標へと近づくことが大切であると。その一歩が大切であると。一歩でも踏み進められることこそ価値があると。
だから、箸を進めます。多少、止まることがあっても、食べ続けます。
周りの応援を一心に受けて。まだ燃え盛る闘志を糧にして。勝利への飢えと意地を武器にして。おばあちゃんは、箸を進めます。
そして……
ばたーん!
大きな音を立てて、おばあちゃんは背中から倒れました。
どんぶりを覗くと、太い麺やらもやしやらが、スープの中に残っていました。その姿は、私には魔窟から姿を現したヒュドラのようにも見えました。
仰向けになりながら「ごふっ」と出たゲップが、おばあちゃんの断末魔の叫びとなりました。
三度目の戦いも、おばあちゃんの敗北に終わったのです。
★★★
敗北したら、また挑めばいい。
最後の最後に勝てればいい。
私とおばあちゃんの戦いは、これからも続いていくと信じていました。しかし、私達の戦いは、ある日突然終わりを迎えてしまったのです。
ふじ麺との戦いを繰り広げた翌年、おばあちゃんは実家で突然倒れ、病院に運ばれました。余命幾ばくと宣告された、重い病でした。
食事すらままならぬ日々を、おばあちゃんは送っていました。お見舞いに来た私に、おばあちゃんは普段通りの笑みを返してくれていましたが、次第にやせ細っていくおばあちゃんからは、もう今までの力強い姿は残っていませんでした。
「アタシは、世界一の幸せ者だよ。色んな事をやって、色んな事が出来た。可愛い孫にも恵まれたんだ。こんな良いことまみれの人生を送れる奴なんて、どこにもいねえよ。ただ、ね……、あいつに、ふじ麺の野郎に勝てねえまま終わっちまうのだけが、アタシは心残りだねえ」
病室の窓の外を眺めながら呟くおばあちゃんの寂しそうな背中が、私にとって最期のおばあちゃんの思い出でした。
――やがて、おばあちゃんは永き眠りにつきました。
九〇という長い年月を充分に生き切ったおばあちゃんの彼岸への旅立ちを、私達は盛大に送ったのを覚えています。最後の告別式には私や親戚の人達以外にも、沢山の人が来てくださいました。最強無敵と謳われたおばあちゃんが、どれだけ町の人に慕われていたのか、私は改めて思い知りました。参列者の中には、大笑軒の店員すらいたのですから。
しかし、本当に驚くべきはこの後でした。おばあちゃんはまだ、終わってはいなかったのです。
それは、おばあちゃんの一周忌の時に起こりました。
その日の晩は、なんと大笑軒の出前。普段は出前なんてシステムは無いはずなのですが、「普段から懇意にしてもらっているから」という理由で店側が自らサービスしてくれたのです。なんて有難い話でしょうか。これが、おばあちゃんが残してくれた力によるものなのでしょうか。
当然、頼むのはふじ麺です。
といっても、一周忌に参加している親戚の皆様は、全員が全員、私のようにふじ麺を完食できるわけではありません。なので、何人かは一杯のどんぶりをシェアする形になりました。一杯まるまる頂いたのは、私や従兄弟といった若い衆や、父のような大食いの人くらいですかね。
無論、そんなことをすればどんぶりが余るわけで、残ったどんぶりの一つは、割箸と一緒におばあちゃんの遺影の前に備えておくことにしました。ドーンと大きく立てかけられた遺影の前に、同じくドーンと置かれるふじ麺の霊峰。かつて見たおばあちゃんとふじ麺の戦いを想起させられて、私は思わず胸が熱くなりました。
さて、遺影があるのは、おばあちゃんの部屋だった和室ですが、親戚一同が集まっている居間は全くの別室です。で、ふじ麺が遺影の前に置かれたのを確認してから、私達は居間でふじ麺を頂きました。
濃厚なスープの香り、シャキシャキした具の歯ごたえ、コシの強い太い麺、どれも店で食べたふじ麺そのものでした。初めてこれを食した親戚も、未知のラーメンの凄さに驚いているようです。
おばあちゃんがふじ麺と戦ったエピソードは、この町では語り草となっています。最強無敵と言われていたおばあちゃんが生前唯一勝てなかった存在として、ふじ麺は伝説となりました。店が言うには、最強が勝てなかった存在に勝てば事実上何にでも勝てる存在となれる。とかいう理由で、勝利の願掛けとして食べる人も少なくないとか。おばあちゃんの影響力は、今もなお続いているのですね。
居間にある残ったどんぶりや親戚が食べきれなかったどんぶりも、従兄弟とシェアしながら全て食べました。久々に完食したふじ麺は、麺やスープ以上に思い出もどっさり濃厚に詰まっていてい、なんだかちょっぴりしょっぱかったです。
おっと、最後にもう一杯、残っているものがありました。おばあちゃんの遺影の前にあるやつです。母がそれに気付き、どんぶりを取りに和室へと向かいました。
その時です。和室の方から、母の悲鳴が聞こえたのは!
慌てて私達が向かうと、震えながら母が言いました。
「……ない! おばあちゃんに備えてた、ふじ麺がないの!」
そんなまさかと思いました。ですが、遺影を見て愕然としました。本当に無いのです。わずかな汁だけを残して、どんぶりの中身だけがごっそりと無くなっていたのです。
ひっくり返ったわけではありません。どんぶりは遺影の前に置かれたままの状態でありました。
ネズミの仕業とも思えません。私達が居間で食している間に、間食できるネズミが果たしているのでしょうか。というか、ネズミの仕業ならもっと和室が荒れているはずです。けれども、和室は決して荒れておらず、周囲も特に汚れていません。というか、ネズミならわざわざ、一緒に備えた割箸を割るでしょうか?
泥棒の仕業でしょうか? いや、泥棒なら不審な足跡など、もっと手掛かりが残っていてもおかしくありません。泥棒が備え付けの割箸を使って食べた。というなら合点が付きそうですが、ラーメンだけ行儀よく食べて去る泥棒など、それこそ珍しい話だと思います。
ここで私達は気付きました。現場は汚れていないと言いましたが、例外がありました。遺影です。なぜか、遺影だけがラーメンのスープで汚れていたのです。
からの布巾を持ってきて、私はおばあちゃんの遺影を拭きました。ふじ麺を無くしたばかりか、そのスープで遺影を汚すとか、本当に一体どこのだれがやったんですか。実に腹の立つ話です。
「……⁉」
私は眉を潜めました
落ちないのです。
布巾で何度も何度もこすっても、遺影に掛かったスープが消えないのです。普段なら、スープの汚れを布巾が吸って遺影が綺麗になるはずなのに、全くスープが消えないのです。
その理由、私はすぐに気が付きました。
「このスープ、遺影に掛かっていない。遺影の中のおばあちゃんに掛かっているんだ……」
その場にいた誰もが、私の話を聞いてぎょっとしました。何かの間違いではないのか? と言う人もいました。けれども、私が何度もこすって見せても、おばあちゃんの口周りのスープが消えない事実を目の当たりにして、すっかり黙ってしまいました。
遺影の中にいるおばあちゃんが、とても満足そうに微笑んでいるように見えました。
「ついに成し遂げたんだね、おばあちゃん」
――ああ。こんな
遺影の中から、おばあちゃんがそう語り掛けているような気がしました。
やがて、私は大笑軒に事情を説明し、このどんぶりを私達に譲ってくれないか。と頼みました。答えは快諾。おばあちゃんが最後の最後に勝利した証は、晴れて私達の家の床の間に飾られることとなりました。
――これが、私の宝物のお話です。
どんぶり一杯の霊峰 バチカ @shengrung
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