第20話「光翼」

 龍泉寺琴律りゅうせんじことりは下腹部の不快感を堪えきれずに目を覚ました。

 ずん・・と重い疼痛が止まらない。

「……」

 辺りは暖かく、明るく、遠くから鳥の声も聴こえてきていた。

 身を起こして周囲を見回す。屋内であった。箱やら書物やらが所狭しと積まれている。琴律はこの場所に覚えがあった。

「ここは……もしや」

 引き戸をごろりと開けて外に出る。思った通り、根之國の『春』の部屋——散々迷って化物に追われた挙句に逃げ込んだ、屋敷の庭園であった。横たわって寝ていたのは、蔵の中だったのだ。

 以前六人で見て回った通り、庭の蔵の外には手水場ちょうずばと木造の便所がある。ぴったりと閉じた扉には護符おふだが貼られ、押しても引いても開くことはなかった。

 屋敷の周囲には塀が巡らされ、門も設えられていたが、こちらもぴったりと閉ざされて、琴律の力を以ってしても全く開く気配がない。

 閉じ込められているのか——と琴律は悟る。禁錮あるいは軟禁であろうか。

 自らの所業を振り返るまでもなく、それくらいは至極当然の仕置であろう。罰として命を奪われてもおかしくない程の罪を重ねたのである。そう考えれば優しいくらいだとも思えた。

 歩くと、尻と太腿を伝って、血が流れた。どうやら、止まらずずっと出血し続けているようであった。不快感の正体を知っても、処置のしようがない。仕方なく琴律は、手水鉢の水を使って汚れた脚や尻を洗い流した。

 このままここに閉じ込められ、一生を終えるのだろうか。ここは死後の世界であるから、もう自分の一生は終わったことになっているのか。それとも、誰か訪ねてきて、別の罰でも受けさせられるのだろうか……。

 そんなことを考えながら、琴律は再び蔵の中へ足を踏み入れた。

 蔵の中には、夥しい数の、紅くひらひらしたものが舞っていた。

 金魚の群れであった。

 思わず、はっと息を呑む。

「これは……!」

 紅く小さな鮒魚さかなの群れが、蔵の中の空間を水槽に見立てて泳ぎ回っている。

 格子の嵌まった明り採り窓から日光が差し、蔵の中に埃の線が描かれる。まるでここが閉じ込められた水中であると錯覚してしまいそうなほど、金魚たちはのびのびと身を翻しながら泳ぐ。

 以前やってきたときにも見たが、この世のものとは思えぬほどの、絢爛にして雅やかな光景であった。——もっとも、ここは“あの世”であるが。

 暫し琴律は、息をするのも忘れて、この万華鏡の如き絶景に見入っていた。

(……しんば、二度とここから出られぬのならば)

 琴律は金魚に手を伸ばし、一匹に指を触れた。

(私はこの金魚きんととたちと変わらないのだな)

 金魚はひらりと身を躍らせて琴律の指から逃げる。琴律はそれを追いかけ、無理に金魚を捕まえた。

 金魚は紙に化けることなく、琴律の手の中でもがく。

「……」

 琴律はしばらくそれを見つめていたが、だんだんと手に込めた力を強くする。金魚は琴律の手の中で、びくびくと身を震わせている。このまま力を入れ続ければ、潰れてしまうのであろう。

 小さな命の生殺与奪の権を握っていることを自覚し、琴律は快感を覚える。

 自分は、またも死後の世界・根之國に於いて、命あるものを殺めてしまうのだ。自分はそれが出来得る、能力ちからを与えられた存在なのだ。

 今度はどのような罰を受けるのであろうか。また別のどこかへ連れてゆかれるのか。手酷い責苦を受けるのか。額の彫り物には一画いっかく加わるのか。

 そんなことを考えながら、琴律は思い切り手を握り締めようとした。そのとき。

「——ほう。うぬか」

 扉を開け放したままだった蔵の入り口から、覚えのある声が聞こえた。

 振り向けば、そこには忘れようもない、女の姿。

橋姫はしひめ……」

 白装束を纏い、長い髪を後ろで束ねた格好——寺の地蔵の炎から現れ琴律らと初めて相対したときと同じ姿で、死女橋姫は蔵の中に入ってきた。

 ただ二点、以前と異なる処があった。

 橋姫の左の頬に、大きな火傷のあとができている。高温の炎に焼かれた傷は痛々しく、白き美貌をけがしている。

 そして額に、片仮名の「ナ」の文字が刻まれている。

 げいか——と、琴律は己の身を顧みながら思う。少なくともこの点において、琴律は橋姫と“同じ”であるのか。

「斯様な処で、何をしておる」

 琴律は手を広げた。ひらひらひら——と金魚が逃げる。

「……何も」

「ふん」

 橋姫は蔵の中で琴律と向き合っていたが、やがて上を向いた。吹き抜けの蔵は二階までを見上げることができる。橋姫は蔵じゅうを舞う金魚たちを眺めると、目を細めた。

「見たところ、汝も罰当たりの罪人か。……奇縁じゃわ」

 上に手を伸ばすと、金魚たちが一斉にやってきて橋姫を取り囲み、啄ばみ始めた。橋姫はそれに身を任せていたが、そのうち金魚たちが一匹、また一匹と姿を消し始め、とうとう橋姫の姿だけが残った。

 琴律は、以前この蔵で見た春画にしきえのことを思い出していた。

 あれにえがかれていたのが橋姫であったならば、この金魚どもこそ、橋姫の残留思念そのものではないか。

 橋姫の顔からは火傷の痕がきれいさっぱり消え、手には黒い煙管が握られていた。

「妾に着いて、おもていでよ」

 振り返りざまに橋姫が促す。琴律は橋姫に続き、無言で蔵の外へ出た。

 三枚歯の下駄の跡をそのまま真似るように踏み、琴律は橋姫に着いて歩く。やがて手水場の前にやって来た。

 橋姫は板造りの便所の、扉の前に立つ。

「此れじゃな」

 橋姫が手を出して扉に触れると、

「まだまだ。まだまだ」と可愛らしい声がした。

 扉に貼られた護符が返事をしたのを目の当たりにして、琴律は少し驚く。

「ふん。案内あない役の小娘がくだらぬものを貼って行きおった所為で、門扉が閉ざされておるらしい。妾も汝も、いずれ此の垣内かいとより外には出られぬ」

「……」

 橋姫は呆れたように薄く笑い、琴律の顔をじっと見た。

「よもや、汝らの助けなど請わぬ心算つもりであったが」

 そう言って、手に持った煙管をぶん・・と振る。橋姫の右手を琴律が見れば、それは一振りの黒い打刀に変わっていた。

「それは……」

「汝が罰当たり刀、借り受けるぞ」

 橋姫は便所の扉に半身を向けて立ち、鞘から抜いた刀を上段に振りかぶる。

 その様子を見て、琴律は目を背ける。自らの産み出した呪わしき刀が疎ましかった。

「……護符を斬るつもりですか」

「如何にも。これを破らねば、永劫の褻衣けころもとき、この門塀の中で過ごす事になる。汝と共にじゃ」

「そのふだを破ることは、奨めません」

「なに?」

 琴律の言葉を訝しんで、今しも刀を振り下ろそうとしていた橋姫は、手を止めた。

「今更、何を抜かす」

其女あなたが死に果ててこの根之國に居るということは、やがて黄泉送りになるべき身です。犯した罪業から考えれば、閻魔えんま裁きも無いのでしょう。それならば——我らにとって憎き仇とはいえ、せめてこのまま」

 琴律は橋姫の顔を見ることなく、静かに言葉を紡いだ。

「汝が何を言うておるのか、妾には分かりかねる」

 橋姫は横目で琴律を見ると、舌舐めずりをした。

 手にした刀の抜身から黒い焔が立ち昇る。

 それを目にした琴律は、じり——と半歩後ずさる。

「此の囲い——結界と云うのか——此れを破ったれば、妾にも血肉ししが戻ろう」

 橋姫は再び刀を振り上げ、

「或いは、汝如きを喰らうて肉を得ることくらいは!」

 叫ぶと同時に、琴律の刀で護符を斬り払った。そして琴律に向き直ると、獣の如き形相で掴みかかった。口からは多量の涎が飛び散った。

 真っ二つに斬られた護符が便所の扉から剥がれ、ひらりと地に落ちる。

 琴律が身を翻して橋姫の牙を躱そうとした瞬間。轟音とともに便所の扉が開かれ——否、噴き飛ばされ、中から髪の化物が躍り出た。

 化物は最も近くにあった餌——橋姫を捉えると、その胴に髪を伸ばして絡め取った。

「おお——」

 橋姫は予想もしなかった存在ものの襲撃に対し、なんの対策も持たなかった。

 手からは刀が取り落とされ、無造作に結わえた髪はざんばらに解かれる。

 髪の化け物は、逆さに吊り上げた“娘の部分”を橋姫えさに近付けると、ばくりと大口を開いた。

「あなや——何ぞ! 此れは何ぞ!?」

 化物の口は橋姫の足を、そして下腹部を呑み込んでゆく。

「おお——おお」

 苦悶に呻く橋姫を、琴律は灯籠の陰からじっと見ていた。

「おのれおのれぇ——」

 妖怪変化のきたならしい歯で肉も骨も噛み砕かれ、美しかった顔を歪ませる橋姫を、琴律はただ黙って見つめる。

「憂き世じゃ……に……憂き世じゃ……」

 やがて橋姫は頭のてっぺん、長い髪の毛まで全てを化物に齧り取られ呑み込まれてしまった。

 化物はなおも腹を空かせた様子で、涎を垂らしながら屋敷の塀を打ち破り、どたどたと敷地の外へ出て行ってしまった。

「……」

 あたりに静寂が戻ったことを確かめると、琴律はばらばらに破壊された便所に近づいてみた。

 残骸の中に、一管の黒い煙管が落ちている。

 琴律はそれを、手に取ってしばらく眺めていたが、やがて吸口を口に咥えて吸い込んでみた。

 真新しい畳のような、草の濃い匂いがした。

 『春』と銘打たれた空間は暖かく、静かで、空気が凪いでいる。

 琴律はずん・・と重い腹を堪えながら美しい庭に腰を下ろし、やわらかく吹く風に身を任せた。

 風はすうっと琴律の頬を撫で、髪を揺らして通り過ぎる。

 空子は独り、来た道を走って戻った。白い河原を抜け、寝殿造の建物を通過するが、ヰ子もゑ鯉も、その姿が見えなかった。

 二人よりも先に走ってきたので当然といえば当然であったが、空子はふと、ゑ鯉の云う「琴律ことりをここから出られないようにして、居てもらう」という言葉が気にかかった。

 一体どこに居させて、いつまで帰らせないというのだろう。……まさに今、琴律をどこかへ連れて行って、閉じ込めているところなのだろうか……。

 そんなことを考えながら、里山の道を駆け抜け、大門をくぐる。

 長い坂道が細く続き、そこを抜けると道反ちがえしの岩戸——おとろしのいた場所に差し掛かった。

 空子は思わずひっくり返りそうなほど驚いた。ここへ来るとき、あれだけ見る影もなく破壊されていた岩戸が、破片ひとつを残すことなく元に戻っている。

 注連縄しめなわも、長い黒髪までもが以前見たときと変わりなしに、狭い隧道を塞いで、巨岩が座っていた。

「ええっ、これっておとろし・・・・さんだよね……? 大丈夫なの……?」

 空子が近寄り、恐る恐る手を当てるが、古き岩戸はなんの反応も返さない。

「どうすりゃいいんだこれ……拝んだらいいのかな」

 空子は両手を合わせて目を閉じる。

「か、かしこみかしこみ……なんまいだぶなんまいだぶ。なんみょうほう、れんげっきょ」

 訳も分からず、ごちゃ混ぜの題目を口にする。

「お願いでございます、ここを通してくだしやんせ……かしこみ申す」

 必死に目を瞑って手を摺り合わしていると、岩が大きな口を開いた。

 ——鳥か。

「ふはっ」

 空子は驚いて目を開き、

「と、鳥か——?」と言葉を鸚鵡返しにしてしまう。

 岩——おとろしは長い前髪の間からぎょろりと目を覗かせ、空子を見つめている。その形相といい、大きさといい、空子はまるで取って食われそうな威圧を感じてしまう。

「あ、そ、そうです。鳥……です」

 おそらくエトピリカのことを言っているのだろう、と空子は解釈し、答えた。

 ——何か。

 空子がこれまで聞いたこともないほどに低い声。

「あの、おとろしさん。ここへ来るとき、私の友達が、その、おとろしさんに乱暴して、無理やりここを通っちゃったと思います。それでその、そのことを、謝りたくてですね」

 彼女なりに言葉を選んで、必死に友の所業を謝罪しようとする空子をじっと見詰め、おとろしはまるで河馬かばのように、大きく口を開いた。

 ——射干玉ぬばたまからすには、られた。

「からす?」

 ——ねぶわしを、はしで突いた。あしで蹴り付けた。儂は、砕かれた。

「コトちゃんのことか……。あの、そ、それで」

 ——如何どうやら鴉はとらまえられたか。其れならば好し。

「それで私、急いでですね」

 ——鳥よ。此処を通りくか。

「は、はいっ。ここを通してもらって、えーと何だっけ、中つ国へ帰らなきゃならないんです。ここを逃げたシオルと、私の友達が、闘ってるの」

 おとろしは、大きく開いた口を更に開いた。

 ——儂が連れよう。乗れ。

 そう言うと、きょとんとしている空子の見ている前で、おとろしは長い髪の毛を巻き上げ、腕のように伸ばして、空子の手脚に絡みつけた。

「わ! わあ!?」

 あっという間に空子は、触手のような髪の毛に持ち上げられて、おとろしの頭上に乗せられてしまった。

「えええ……」

 轟々ごうごうという地鳴りを響かせて、おとろしの巨顔が移動し始めた。

 よく見れば、おとろしには顔だけでなく、爪の生えた腕のようなものが生えている。これを使って、地を這うように移動しているのであろう。

 このまま、中津國へ連れて行ってくれようというのか。

 空子はおとろしを信じ、任せて捕まっていることにした。

 暗い隧道をとっくに抜け、周囲は木々の生えたもりになっている。

「外に出ちゃってる!」

 実際、彼の移動速度はかなり速く、中津國までの距離を空子が走るよりも、余程楽に帰り着けそうに思えた。

 などと考えていると、おとろしが急停止した。

「うわ」

 空子は振り落とされそうになり、反射的に髪の毛を掴む。

 前方に、白い着物を纏った人が倒れている。おとろしと同様、長く黒々とした髪の毛を持っているが、どうやらこちらは女のようであった。

「こ、この人——」

 女の顔を見た空子が思わず息を呑み込むのと同時に、おとろしは髪の毛を伸ばし、女を絡め取って、頭上に掲げた。

橋姫はしひめっ!?」

 一年越しに見る、にっくき仇敵の顔であった。弟を死なせ友を傷つけた張本人。

 橋姫は根之國こちらを勝手に抜け出し中津國あちらに舞い戻って、河津聖亞かわつせいあの肉体に取り憑き、 勝手に振舞っていたはずである。実際に、橋姫を名乗る聖亞から、自分も乱暴を働かれたではないか。

 その橋姫がここ根之國ねのくにに居るということは、けいらが討ち倒し、聖亞を救ったということなのだろうか?

 しかし今居るここは根之國に入る前の道であり、いわゆるの世との世のはっきりしない境目の場所である。——否、岩戸であるおとろしよりも中津國なかつくににより近い場所である。ということは——

 空子の乗っているおとろしの全身が、倍ほどにも膨れ上がった。黒髪に覆われた頭上が、女ふたりが乗るには充分なスペースにまで大きく広がる。

 ——鳥よ。

 おとろしが口を開き、空子を呼んだ。

「は、はいっ」

 ——儂は此れを、再び黄泉國よもつくにへ連れねば為らぬ。呉越同舟ではあるが、暫し共にが上に居れ。

「えっ!?」

 そう言うと、おとろしは短い腕だか脚だかを踏ん張って、垂直に跳躍した。

「うわああ」

 空子はまたも慌てて、おとろしの長い髪にしがみ付く。恐ろしい勢いで、地上はみるみる遠ざかってゆく。まるでロケットに乗せられて宇宙へ打ち上げられるかのような勢いであった。空子の眼下には滝やら河やら、白い河原やらが目に入った。

 急ぐ空子を送り届けるよりも、橋姫を黄泉へ還す方が大事であるらしい。

 (まあ、そうかもしれないよな)と空子は思った。

 いつ暴れ出さぬとも知れぬ罪人を護送する方が優先されるのは、どの世界でも同じことなのだろう。

 なにより、景たちが頑張って無事にイオマンテを遂げたからこそ、橋姫がここに居るのだ。それならば急いで帰ることもない。空子はそう考えることにした。

 ぐんぐんと空高く跳び上がり続けるおとろしの上で、空子は目を閉じたまま動かないでいる橋姫の顔を改めて見つめた。

 見れば、冷たいながらも美貌を湛えていたはずの橋姫の顔には幾つものあなが空いて、血が流れ出している。また、額には漢字の「大」の文字が黒々と刻まれている。

 右腕の手首から先が、もぎ取られたように失われている。反対の左手には、黒い色の喫煙道具——煙管が握られている。

 またどういうわけか、萵苣が着ていたはずの白いドレスを裸身に巻き付けており、それもまたあちらこちらが赤黒い血に染まり、汚らしく乾いている。そこから覗く腕にも脚にも丸い孔が穿たれ、その全身が見るも無惨な傷だらけになっている。

 激闘の痕にしては、不自然に人為的な傷だ——と空子は感じた。

 白いくび、手足、腰を黒い髪の毛に絡みつかれて、橋姫はぐったりと項垂うなだれている。

 死んでいるのだろうか。

 死んだから——肉体を破壊されたからこそ、根之國こちらへ来たのだろう。それなら、取り憑かれ弄ばれていた河津聖亞は、景たちに肉体を破壊されてしまったのだろうか……?

 厭な考えが次々と頭の中をぎる。

 まっすぐ上昇するおとろしの頭上で、空子の胸中は穏やかではなかった。

 いつの間にか、橋姫の目が開き、空子を見据えていた。

「——!」

 声も出せず、ただ息を呑む。

「憂き……世じゃ……」

 醜いしわがれ声であった。

「……うぬは……エトピリカ、の……童女わらわめか……。我が咒詛まじないで、釘付けには……ならなんだ、か……」

「お、お前ええ……」

 空子の頭の中に、はらの中に、握り拳に、憎悪の炎がちろり・・・と灯る。それは小さな炎であったが、やがて一気に燃え上がり、めらめらと全身をいた。

 歯を食いしばり、眉をしかめて、空子は吼えた。

「橋姫ええ!」

 小さな身体で、おとろしの頭上に立ち上がり、髪で巻かれた首根っこを捕まえた。力任せに引っ張り、おとろしの頭上に橋姫の身体を叩きつける。空子は仰向けになった胴体に馬乗りになって、橋姫の顔を引っ叩き、両手で掴んで揺さぶる。

「返せ! 大ちゃんを——私の弟を返せよおお!」

 声を涸らさんばかりに、空子は叫ぶ。

「ひひ。ひひひひ」

 橋姫は左手に握っていた黒檀の煙管をよろよろと振りかざし、気味の悪い笑みを浮かべた。

「このっ——」

 空子はその左手を捻じ上げ、橋姫から煙管を奪い取った。

 橋姫は抵抗しなかった。もはや抵抗などできる力は残っていなかったのであろう。

 以前対峙したときとは打って変わって、橋姫は力無く弱々しかった。それでも、その喉からは薄気味の悪い、冷たく不快な笑い声が漏れ続けている。

 空子の手の中で、煙管が大きく太く膨れ上がった。

「!」

 空子の身長の半分を超える長さにまでなったそれは、見覚えのある形と色をしていた。

 それは——龍泉寺琴律りゅうせんじことり打刀うちがたなであった。

 琴律が産み落とし、携え、振るい、多くの命を奪った刀——幼馴染の友が、人を斬り殺すために股座またぐらからり出した凶器。

 自ら焔を発し燃えて無くなった筈の黒い刀が何故、今ここにこうして現れたのか——。それを考える心の余裕はみるみるうちに消えて無くなっていった。

 多くの血を吸い、もはや禍々しき妖刀とすら呼べるそれは、空子の手の中でずっしりと重く存在感を増してゆく。

 琴律と相対したときと同じように、空子の頭の中にもやがかかる。鼻息が荒くなる。体温が上がる。

 悪意の塊とさえ呼べるそれを空子は目の高さに掲げ、少しの間見つめた。そして柄を握り、鞘を一気に抜き捨てた。

 空子の左手から離れた鞘はおとろしの上から地へと落ちてゆき、やがて見えなくなった。

 真っ黒な刀身が、陽光を受けて鈍く閃く。

「……」

 空子は刀の柄を逆手に持ち直し、おおおおお、と声を上げた。

 刀を振り上げ、橋姫の眉間に思い切り突き立てる。

 包丁でキャベツでも刺したかのように、鋭い刃は頭部を簡単に貫通し、おとろしの髪にも至り、橋姫を串刺しにしてしまった。

 ええいッと気魄を込め、空子は体重を掛けて更に深く刀を差し込む。もはや、おとろしの頭にまでも突き刺してしまったことになど頓着しない。

「どうだっ」

 吐き出す息も荒く、空子は橋姫の顔を睨みつける。

 橋姫はそれでも、ひひぃ、ひひぃ、という笑い声を漏らし続けている。

 両目にいっぱいの涙を溜めて、空子は仰向けの橋姫の腹を殴った。重いはずの殴打は、べちっという濡れた音とともに威力を失う。

「これでもか! くたばれ! このお!」

 何発も何発も、白いドレスの上から女の腹を殴り続ける。溜まった涙が両瞼からこぼれ跳ね散る。

 空子とて、こんなことが復仇になるなどとは思っていなかった。死んだ弟がほんとうに還ってくるなどと——してや手にかけた当人が元どおり還してくれるなどと思い込んでいるわけではなかった。

 ただ、小学校に入学したばかりで、ランドセルを背負うことにさえ慣れないで、理不尽に殺された弟を思うと、そのおもいをぶつけずにはいられなかったのだ。それをよく分かっているからこそ、空子は泣くのだった。

 おとろしは、まだぐんぐんと高度を上げてゆく。空の雲さえ通り過ぎ、天蓋を突き破らんばかりの勢いで、ふたりの女を乗せた巨大な妖怪は上へ上へと昇ってゆく。

「返せ! あたしの弟を! 大地を返せ! 返してぇ……」

 橋姫の髪を掴み、つばなみだはなを飛ばして空子はたけった。

 顔面に刀を突き立てられた橋姫は、笑いながら、目だけで空子を見た。

「ひひ。わっぱが……欲しいか。いしいか。ひひひひ」

 橋姫は左手を胸元に入れ、何かを掴んで差し出した。

「ほれ。……此処にる」

 そこには、鈍くぼんやりとした光を放つもの——エトピリカに変身する際の霊珠れいじゅが乗せられていた。

「あっ!?」

 霊珠は橋姫の手の中でひときわ大きく光を放つと、人の——小児こどもの形に変わった。

 天美大地あまみだいちの姿であった。

 大地は、いなくなった夜と同じパジャマを着て、目を閉じていた。意識は無い様子で、橋姫に首根っこを掴まれている。生きているのか死んでいるのか、それすらも分からなかった。

「大ちゃんっ」

 空子は思わず、それに飛び付く。両目から、大粒の涙が飛び散った。

 空子の小さな手が届く寸前で、橋姫はその腕を思い切り振った。

 勢いがあまり、橋姫の左腕は肩からげ、骨から肉が離れ、ぼろぼろと腐って朽ちた。

 崩れた手から離れ、大地の身体が宙に舞った。

 最後の力を振り絞って、橋姫はおとろしの上から大地を投げ落としたのであった。

「ああーっ!」

 空子は身を乗り出して、おとろしから下を覗き見た。

 大地はぐったりと身動みじろぎせぬまま、まっすぐに落下してゆく。

 空子はおとろしの上で立ち上がった。

 橋姫の手にしていた霊珠は紛れもなく、死んだ天美大地のおもいを抽出したものだったのであろう。

 空子は橋姫を見もせずに、

「お前は、とっくに死んでるんだ。だからこのまま、黄泉よみの国に行けっ。あたしは——あたしと大地は、帰る! 生きて帰る!」と言い放った。

 そして、おとろしの上から飛び降りた。

 橋姫は、なんの躊躇いもなく宙に身を躍らせた空子に視線を向けていたが、やがて力無く笑った。

わっぱを追うあまりに……疾う疾う、己が身を……棄てたかや……。痴れたこと……よ……」

 両腕を失くし、頭を串刺しにされ、虫のように這いうごめくことすら適わぬ女——否、これはもはや辛うじて女の形、人の形を留めただけの、きたならしく哀れな肉塊であった。

 意識があるだけで、もはやその肉は、自ら動こうとする意志を持たなかった。

「……坊よ」

 橋姫が口を開いた。

「妾を……非道の母を、怨むか」

 橋姫の顔の真ん中に突き立てられた黒い刀が、すっすっと短く小さくなり始め、やがて黒檀の煙管に戻ってしまった。

 額の傷から抜け落ち、顔の上に倒れた煙管を、橋姫は口で受け止めた。

 草も詰めていない、火も付いていない煙管を咥え、橋姫は息を深く深く吸い込み、また深く深く吐き出した。

「憂き世じゃ……憂き……世じゃ……」


 ——もう泣かないで。


 橋姫の潰れた耳に、はっきりと声が聴こえた。

 おとろしは何も言わず、まだまだ上昇を続けている。

 死んだ者の黄泉國よもつくにというのは、地の底などではなく、天高くに在ると云う——。

 空子そらこの目に入る景色は、すでに中津國——空子の暮らしていた現世・・のようであった。

 神社のもりを通り抜けることもなく、いつの間にやら戻ってきていたものと見え、雑然とした建物やら道路やらが、空子に迫ってきている。エトピリカという特殊な身分にとっては、此の世と彼の世の境が本当に曖昧になってしまうようであった。

 大地だいちは未だ空子の手の先である。

 スカイダイビングなど空子には経験が無いが、パラシュート無しでこのまま落ち続ければ、地面に叩きつけられてしまうことだけは自明であった。二人仲良く根之國あのよへ逆戻りである。

「大ちゃんっ!」

 空子は必死に短い手足をばたつかせ、くうを掻いた。お蔭で大地との距離は縮まり、とうとうパジャマの裾を指で引っ掴むことができた。

「こっち来いっ」

 そのまま力一杯引っ張り、胸に抱き留める。

 暖かい。

 一年以上もまみえなかった、弟の顔。腕に抱いた身体。匂い。誰よりも会いたかった。

「大ちゃーんっ!」

 空子は目を閉じたままの大地の顔に、己の顔を擦り付けて叫ぶ。

「大ちゃん、お姉ちゃんだよ。起きて! 目ぇ覚ましてっ」

 耳元でいくら呼びかけても、大地は目を開かない。

「お願いだ、目を覚ましてよ! 一緒に帰ろうよ、大ちゃん! 大地!」

 涙がどんどん溢れて飛び散る。

(やっぱり、あたしは死んじゃうんだな)

 もっと子供の頃の夏の夜、回転灯籠まわりとうろうなんてものを空子は見たことがあるが、いざこうして死んでしまうと思っても、両親も友達の顔も、脳裡をよぎることはなかった。

(ちびで馬鹿なあたしは、チャンスが何度あっても、弟が死ぬのを助けてあげられないんだ。大地ごめんね、ダメなお姉ちゃんで、ごめんね)

 二人はどんどん落ちてゆく。地方都市の低いビルやら橋やらが、もう肉眼で見える位置にまで迫っている。

 空子の腹が、くうう、と鳴った。

 はっと顔を上げて、空子は大地を抱く腕に力を込めた。

「いいや……こんなんであきらめてたら、ケイちゃんたちに笑われる! ……それに!」

 地面を睨んで、空子は吼える。

「生きてみんなで帰らないと! 焼肉食べ放題行けないし!! ダメでも、最後まであがいてやるからなーっ!」

 空子は手足を広げ、全身で大地を抱き込んだ。そして、身を丸めた。

「レッドガル! フレイムアターック!!」

 自分の身体をクッションにすれば、最悪、大地だけでも助かるかもしれない——空子はそう考え、大地をすっぽり包み込む姿勢を取った。

 空子はきつく目を閉じた。

「——それ、レッドフレイムでしょ。お姉ちゃん」

 耳にその声が届いた瞬間。

 空子の背から、光が伸びた。

 光は翼の形に変わり、羽撃はばたく。

 落下スピードが急激に緩み、二人は一瞬だけふわりと宙に留まる。そして、ゆっくりと降りてゆく。

 空子の足が、未舗装の地面に着いた。

 見覚えのあるそこは、空子がいつか夜の散歩をしていた——蓬莱ほうらい姉妹と初めて出会った史跡公園であった。

 音も無く、背の翼が消える。

 どうやら今は夜であるらしく、あたりは闇に包まれていたが、無数の星のおかげで真っ暗ではなかった。

 丘陵に拓かれた公園の地面に大地を横たえ、腕で背中を支えてやる。前髪を撫でてやり、空子は微笑みながら泣いた。

「……大ちゃん、おかえり」

「うん。……お姉ちゃん、前にも必殺技の名前、間違えてたよね」

「カタカナだと、なかなか憶えられないんだよぉ。ごめん、ちゃんと番組みて、勉強するよ」

「今度、問題出すからね。ちゃんと答えられるようになっててね」

「わかった」

「約束だよ」

 大地が小指を差し出した。

 空子はそれに自分の小指を絡める。

 ぐっと強い力で引っ張られ、空子は同じように力を込めて指切りをした。

 風に乗って耳に届くうぐいすの声と小川のせせらぎが、『春』の部屋の静けさをより強めていた。

 もはや自分以外に、人の気配は感じられない。龍泉寺りゅうせんじ琴律ことりは、誰が手入れしたのかも知れない小綺麗な庭で、置かれた野面のづらの景石の上に、黙って腰掛けていた。

 髪の化物のお陰で、琴律を閉じ込めていた塀は打ち壊され、穏やかな野原や川が瓦礫の向こうに見えている。琴律次第で、ここからいつでも出てゆけるものと思われた。

 火を点けるでもなく、橋姫はしひめ煙管きせるを通して、琴律はゆっくりと息を吸ったり吐いたりしていた。

 何百年か前に死んだ女の匂いを吸い込み、体内に入れる。それはあたかも持ち主の息そのものを吸うこと、呼吸を重ね合わせることのような気がしてきて——琴律はなんとなしにどうでもいいような、ぽかんと浮世離れしたような、不思議な気持になった。感情が空っぽである。

 橋姫への憎悪を忘れたわけではなかった。ただ、私の内に憎悪があったなと思うだけであった。

 やわらかな日差しの中、おだやかな風に吹かれながらそうしていると。

 琴律の目頭から小鼻へ、つ、つ、つっ——と涙が流れて落ちた。

 はっ、と琴律は自らの顔に手をやる。

 何故、涙などが出たのか。琴律には全く理由がわからなかった。

 ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ——。涙の粒はぽろぽろと瞼からこぼれ、鼻筋を伝い、顎から滴り、座っている地面に垂れ落ちる。

「ふう——うっ」

 ひしゃげた声が喉から漏れた。思わず手で口を押さえるが、自分のものでないような声はそれを押し退けて出てくる。

 涙は後から後から流れ出てきて、琴律の顔をぐしゃぐしゃに濡らす。

 琴律は口から煙管と大量のよだれを落とし、地面に手を突いて、這いつくばった。何度もむせび、呼吸いきが詰まる。

 目も鼻も口も大きく開く。己の中に有るものすべてを、そこから体外へ出してしまわんとするかのように。

「ふ……ああああああ」

 一度大声を上げて泣き始めると、もう止まらなかった。

「ゆーび切った!」

 声を合わせて、姉弟は指切りを交わす。

 空子そらこの腕に抱かれたままで、大地だいちは手を下ろした。

 空子はもう一度、強く大地おとうとを抱きしめる。

 大地は微笑んで目を閉じた。

 空子の腕の中でぼうと光り、やがて一個の勾玉まがたまへと姿を変える。

 空子はそれを掌に乗せてしばらく見つめていたが、やがて力を込めて、両の掌を擦り合わせた。

「しばらくばいばいだ、大ちゃん」

 勾玉は掌の中で、さりさりという音とともに粉微塵の石へと姿を変え、空子の立っている足元の地面に落ちてゆく。

「お姉ちゃん、大ちゃんの分まで生きるからね。大人になって結婚して、元気な子を産んで、育てて、そんでその子が大人になって、また子を産んで——お姉ちゃんがお婆ちゃんになっちゃっても、生きていくから。ずっと見ててね」

 星の光を乱反射して輝く光の粒は、地面に降り注ぎ、やがて吸い込まれるように消えてゆく。

 空子は洟を啜りあげて夜空を見上げ、変身を解くと、家へ向かって走り出した。

 友らと交わした焼肉バイキングの約束を思い出すと、ぐるぐると腹が鳴った。


(終)

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花魁鳥は夜に啼く 北大路真彦 @s_bergman

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