窓際の一室

冬虫

第1話

窓際の席に座るクラスメイト、小野さんへの第一印象は、「不思議な人だ」なんてものだった。

誰一人とも積極的には関わらず、必要に迫られて初めて口を開く。けれどたまに、しばらく楽しそうに話していることがある。そうしてひとしきり笑ったあと、ふと我に返ったように、ひとり悲しい顔をする。

僕は、そんな彼女のことが気になった。

声をかけづらい雰囲気に隠された容姿が程よく整っていたこととか、窓辺の風に揺れる髪と赤いイヤホンのコントラストが綺麗だったこととかは関係なく、僕は、その在り方が、気になって仕方がなかった。


彼女は、基本的にひとりでいる。


僕は、ずっとひとりだった。


1


始業式から二週間ほど経ってようやく、周りの人の名前がはっきりしてくる。同時に、誰となら遠慮なく話せるか、誰にはどんな配慮をしなければいけないのかが、少しずつ、わかってきてしまう。例えば、右隣の遠山君はさっぱりとした雰囲気で、大体のことを笑い飛ばしてくれる。けれど、そのふたつ前の席の寺田君はそうもいかない。自ずと、彼との距離は大きめになってくる。

そして、僕の左隣、窓際の席に座る小野さんは、なんというか、接し方が皆目見当つかなかった。

授業時間以外を終始イヤホンとともに過ごし、「私は今音楽を聴いている。だから、話しかけないで」なんて雰囲気を纏っている。そして、数少ない話せそうな機会に声をかけてみると、笑ったりしてはくれるけれど、多くのことをはぐらかす。

関わらない方がいいのかもしれない。きっと、彼女は放っておいてほしいのだろう。だけど、僕は、彼女のことを知りたいと思ってしまう。


僕にとって、文庫本は盾だった。

誰一人ともわかりあえる気がしなくて、なにかよくわからないものに怯え続けていた。

「たった一人と通じ合えればいい」なんて思って、人と通じ合う術を錆びつかせ続けていた。

教室の隅で、ひとり、盾を構えて止まり続けていた。

そんな、毎日。楽しい、つまらない、なんて話じゃなくって、紛れもなく苦痛のカテゴリ。

僕にとって、孤独は、苦痛だった。

小野さんは、どうなんだろうか。

小野さんにとって、あのイヤホンは何なんだろうか。

彼女は、何かと戦っているのだろうか。

僕は、それが、知りたいと思った。


春の夕方、すっかりオレンジ色に染まりきった空は、端からだんだんと夜の気配を匂わせている。

僕は置きっ放しだった荷物を取りに戻った教室で、考え事をしていた。

廊下の方から名前を呼ばれ、現実に引き戻される。荷物の整理が済んでないことに気づき、少し慌てる。

弁当箱、教科書、教科書、ノート三冊、ルーズリーフ。最後に筆箱を詰め込んで、カバンのファスナーを走らせる。肩に担いで廊下を向くと、中学から数えて四人目の友達、遠山君が待っていた。

「遅かったな」

「ごめんよ」

駆け寄って、歩き始める。

カバンの中にはまだ他に、しわくちゃに押しつぶされた文庫本カバーがあった。

最後にそれを取り出したのは、一体いつの話だっただろうか。




教室には、いつも通りの喧騒が響き渡っている。ある人は笑い、またある人が手を叩き、一見静かにしている彼も、椅子を引いて音を立てる。クラスメイトたちと数人のエキストラが、いつも通りに喧騒のオーケストラを演奏していた。

僕は今、話し声として参加していた。ごくごく普通の、『みんな』がやっているような。

だけどそれは、一年程度の練度では、とても疲れるものだった。

誰かの話す話題に振り向き、相槌を打ち、誰かの行動に合わせてみて、誰かの失言にはフォローを入れて、…間違えた、彼はここでダメ出しされる『キャラ』なんだった。

そんな事を考えながら生きるのは、やはり、とても息苦しい事だ。

だけど、僕は僕のため、きっと変わらなきゃいけない。

「だよなぁー。な、お前はどうする?」

そんな考え事をしていたから、不意に投げかけられた言葉に上手く前後を拾えない。

「あ、ごめん、…何の話?」

少し演技ぽく言うと、遠山君はやはり笑い飛ばしてくれる。

「ほら、遠足の班。火曜日までに決めとけって話だったろ」

「ああ、そういえば」

「それで、こいつらはもう女子三人組をナンパ済みだから」

「なるほど。気になる子でもいるってわけか」

「いねーし、ナンパじゃねーよ」

笑い声混じりに僕と遠山君にデコピンをくれた彼は、たしか冨原君だったと思う。

「ま、そんなわけでだ。お前は班どうするとか決めてるか?」

「遠足自体、今の今まで忘れていたよ。えと、遠山君は空いてる?」

「ああ。とりあえず俺らで二人な。他に三、四人くらい…」

辺りを見渡すと、その視界の先では、イヤホンを外した小野さんに二人のクラスメイトの女子が話しかけていた。

「な、他は女子でいいか?」

少し驚きながらも、頷く。

彼は三人の女子の中で、一番髪の長い、わりと綺麗なひとに声をかけた。途中、僕を指差したりしながら話していた。

交渉はすぐに終わり、彼はすぐにもどってきた。

「華のある遠足になりそうだな」

親指を立ててはにかむ彼に、その外向性に、僕は少しだけ羨んだ。

「お前もナンパしてんじゃん」

「わりとナンパっぽかったよね」

僕と、多分冨原君、はほとんど同時にそう言って、顔を見合わせて笑った。


その後、その三人の女子と、遠山君とで、少し話をした。

どういうコースにしようか、ご飯はどうしようか。僕らの遠足は、カレーに彩られることになった。



見慣れない、私服姿のクラスメイト。バスの排熱に、降り注ぐ日差し。べたりと張り付いたTシャツは、時折吹く風に程よく冷まされる。

五月のはじめ、少し寂れたキャンプ施設には、総勢二百九十人以上の高校生が人混みを形成していた。

バインダーを持って元気な案内を届ける新任の先生は、やはり普段よりも明るい声をしている気がする。

そんな、誰も彼もが浮き足立っている空気。ふと周りを見渡してみると、斜め前方に小野さんの姿を見つけることができた。しかし、照りつける日差しの明るさと深く被った帽子の影に隠され、その表情は読み取ることができなかった。

少し長い間、彼女の様子をうかがっていると、左肘を何かが叩く感触があった。振り向いてみると、隣に座る班員の女子、髪の長い、わりと綺麗な、確か南原さん。が、ニヤニヤした視線を僕に送っていた。

「見過ぎだよ、いつも。好きなの?」南原さんは小声だ。

少し、理解に手間取った。

「ふふ、かわいいもんね、小野ちゃん。やっぱあーゆー大人しい子の方が密かにモテたりするんだよなー。ミステリアス的な?あと笑顔に希少価値付くし」

そのくらいまで聞いてようやく、南原さんの言っていることがわかった。

とっさに、「なっ!」と、かなり大きめの声を出してしまい、周りからの注目と新任教師からのお叱りをもらうこととなった。適当に「あーはい、すいませんでした」とだけ言って、小声かつ全力で南原さんの誤解を解こうと努めるものの、彼女はずっと肩を震わせて笑っていたので、多分僕の話を一番よく聞いていたのは、前に座る名前も知らないクラスメイト君だろう。

どんな言葉を用いて誤解を解こうとしたかと言えば、「どんなことを考えているのか気になるだけ」とか、「単純に人として興味があるだけ」なんてものだ。冷静に考えると、僕が喋るたびに南原さんの振動が加速した理由がよくわかる気がする。


先生の話も終わり、南原さんの呼吸も落ち着いた頃、時計は午前の十時半を示していた。

共同の調理スペースにクラス単位で移動する。その歩みの最中、班員達と合流を済ませた。南原さんは、やけに僕にちょっかいをくれた。遠山君は、「意外と仲良いんだな、お前ら」なんて言っていた。イヤホンを胸ポケットにしまった小野さんは、班員の女子、人より明るい髪でポニーテールをつくる、吉野さんと歩いていた。会話もしてはいたみたいだけれど、言葉の数は少なかった。

目的地に着くと、材料を持って、料理の時間になる。

野菜を切って、食器を洗って、米を研いで、火をつけて、その作業は共同であることが多く、班員との会話も弾むことがあった。小野さんは、自身に向けられた言葉には反応を示していた。けれど、当然のことか、自発的な言葉を聞くことはできず、ちらりと彼女に目を向ける度、南原さんが僕をつついた。怖いから包丁を持った手ではやめてほしい。

炊き上がった米に、とろみのあるルーをかける。焦げ付いた鍋底が覗き、洗う手間のことを考えると少しだけ気分が落ちるけれど、ひとまずは目前の食欲で余りのある中和をする。

僕は、覚えている限り小学生以来の、声を揃えての「いただきます」を口にした。カレーの味はなかなかのもので、賛辞の言葉が飛び交っていた。それは小野さんも例外ではなく、無意識に彼女の方へ視線が飛びそうになったのを、意識がなんとか制御した。南原さんは露骨に悔しそうな顔をして、机の下で僕の足を蹴った。おい。


その後は施設内のアスレチックへ向かい、制限時間ぎりぎりまで遊び倒した。途中から班は分解され、僕、遠山君、南原さんの三人でまわった。遠山君は知っていた通りだけれど、南原さんもかなり運動ができて、僕ひとり取り残される場面が多々あった。けれど、なんとかチェックポイントに着くと、そこでは二人が待ってくれている。僕が休憩していると、南原さんが唐突にカマキリを捕まえ、見せてきた。遠山君は苦り切った表情をして少し距離を広げた。今回は遠山君の味方として「放してあげなよ」と言ってみる。南原さんは唇を尖らせると、「じゃああげるよ」と僕の服に付けた。カマキリはがっちりと服の繊維につかまっていたので、僕はアスレチックの最後まで彼あるいは彼女と共に過ごすこととなった。


その後は集合確認に二十分ほど掛け、バスに乗って学校へ戻った。移動中、遠山君と少し話をした。彼はぐっすり眠る南原さんを指差し、「こいつと俺、幼馴染みたいなもんでさ、昔付き合ってた」とカミングアウトをした。色々な言葉が頭の中を飛び交ったけれど、「気まずくないの?」なんて質問だけは口腔内からするりと出て行った。彼の返事は、「俺らはなんつーか、友達なんだよ、どうあっても。それ以上にも以下にもならない、そんな関係」というもの。僕は小首を傾げ、うんうん唸り、いつのまにか寝ていた。

眼が覚めるとそこはもう学校の近くで、遠山君は南原さんと話していた。その様子からは、二人はお似合いのように思えてしまう。僕は、やっぱり小首を傾げた。



遠足の翌週。春の連休は過ぎ、所謂五月病の感染が拡大する時期。教室には、いくつかの空席があった。僕は遠足以来、学校では遠山君と南原さんとの三人で過ごすようになった。友達と呼べそうな存在が増えた事、それ自体は嬉しいことなのだけれど、未熟な僕はどうしても疲れてしまう。休み時間にひとり水道で水を飲みながら、久しぶりのひとりを心地よく感じる自分に気づいていた。そのままぼんやりと手を洗っていると、「いつまで」なんて言葉が聞こえた気がした。周囲には一人だけしかいない。小野さんが、イヤホンをつけたまま水を飲んでいた。僕は何かを言おうと思ったけれど、その何かが定まる前に彼女は立ち去っていった。僕は、蛇口を閉じた。

教室に戻ると、二人は一つの携帯の画面を見ながら話し合っていた。クイズのサイトらしい。軽く息を吸ったのち、その輪に突入した。


その日の放課後、二人は用事があるとかで早いうちに帰っていった。僕は図書室で、気まぐれに本を開いてみた。昔好きだった作家の、しばらくぶりの新刊だった。あの日の僕ならきっと、発売日の日付のうちに読破していただろうな。けれどページをめくるたびにまぐれた気は剥がれ落ちていき、数分のうちに席を離れ、気づけば下駄箱で上靴を脱いでいた。


「…こんにちは」

靴のかかとを合わせる僕に、どこかで聞いた声が届いた。振り向くと、そこにはイヤホンを外した小野さんがいた。珍しいこともあるなと思い、挨拶の返事と共に、尋ねてみる。

「いつもしているわけじゃないし、疲れるから」

明確な返事が返って来たことに少し驚く。試しに、いろいろと訊いてみたいと思った。

「今、帰り?」「うん、部活とかもやってないし」「そっか。電車?」「うん。上り方面」「あ、じゃあ駅まで一緒だ」「南原さんは?最近よく一緒にいるよね」「あ、なんか先に帰ったみたい。用事があるって」「そう」「小野さんは、何をしてたの?」「中学の友達に捕まって、少し話してた」

普通に、話せている。けれど、小野さんの声色、表情には少しの違和感を覚える。

心拍数が上がる、息が詰まる。僕は訊きたかった質問を、喉を震わせ言葉にする。

「小野さんは、なんて言うか、どうしていつも…、話さないの?」

するとゆっくりと、彼女の表情は変わっていった。口角は上がり、目は細まる。

その表情は、多分、笑顔だった。

「そっか。わたし今、話していたね」

初めて見るその笑顔は、どう見ても笑っていなかった。


「どうして、かぁ。なんて言ったら良いかな?」その声の調子に、聞き覚えがない。

「わたしのため、そうあることが一番だって思ったから、かな」

その言葉は、僕がどうして本を閉じたのか、ひとりを嫌ったのかを説明するのに相応しいものだった。自分にとって、そうあるべきだと感じたから、と。そしてそれは選んだことを示している。彼女は、選んで、ひとりでいるのかもしれない。

僕とは、反対なんだね。呟こうとした言葉は、彼女の声に遮られる。

「君は、わりと無理してるよね。無理して人付き合いしてる。そう見えるよ」

「無理、なんて、そんなことは」

「自分で気づいてないの?君、話が終わる度にちょっと安心したような息吐いてるよ」

反論は、できそうになかった。確かに思い当たる節があったから。

「よく、見ているんだね」

できそうもない反論の代わりに、戯言で濁す。

「わたし、周りによく気がつくタイプだから。…元、だけど」

その言葉は、きっと嘘じゃない。例えば、人が気づかず落としたものを、気づかれないよう元に戻す、なんてことをたまに彼女はしていた。もし嘘があるというなら、元、というところくらいだろう。

だったら、尚更何故だろう。

「だったら、どうして?君はひとりじゃなくても上手くやっていけるんじゃないの?それなら」

「それなら、みんなと一緒に楽しくやっていけば良いんじゃないの?って?別に、全員が全員、そうすれば幸せになれるって訳じゃないのに?」

「それは、そうだけど。…でも、やっぱりひとりは」

さみしいよ、という言葉は咄嗟に飲み込んだ。飲み込んだそれは食道でも気管でもなく、心の底の沈殿を刺激する。

感傷が襲う。後悔と羨望が渦巻く。「さみしい」の一言は、僕には劇毒だった。

「ひとりは、寂しかった?」

彼女は僕の顔を覗き込む。その言葉は、心配というより好奇心のようなものに思えた。

「寂しかったかはともかく、不満がなければ僕は変わろうなんて思わなかっただろうな」

そっか、と彼女は相槌を打つ。そして、「それと、もうひとつ」と人差し指を立てる。

「君はどうして、『変わりたい』なんて思ったの?」

かつて輪の中にいたであろう少女は、その外れからそんなことを尋ねる。

「社会的に必要だから。そういうことが、できなきゃいけない」

「それが、本音?」

彼女は、すっかり元に戻っているらしい。本来の、明るく、周りによく気がつく女の子に。

「…みんなと仲良くするっていう、誰でもやってるようなことができない。必要なのに、したいのに、できない。そんな、嫌な気持ち。…多分、劣等感があったんだよ」

口にして思ったのは、今までの僕を悩ませてきた感情は、複雑怪奇なようでいて、その実『劣等感』の一言で片付けられるものだったんだ、ということ。

そしてこんな事を話すのは初めてだった。きっと小野さんは、人から言葉を引き出せるひとなんだろうな、ということ。

なら、やっぱり。

「小野さんは、どうして」

その輪から、抜けるのか。

僕は、やはり人付き合いは苦手で、だから疲れて嫌になってしまうことがある。

けれど彼女はそうではない。本来の彼女の居場所は、僕の目指す地平だ。

「なんでだっけ?ああ、そうだ」

信号で止まる。彼女の指先は唇へ動く。

「その前に、ひとつ約束。わたし、今日は話し過ぎちゃったから、明日には忘れてね。今話したこと、今のわたしのこと。今の、本当のわたしは、教室の隅でひとりで音楽を聴いているだけのエキストラだから」

無理だ。むしろ、意思として覚えていたい。彼女と、僕のそんな心に嘘をつく。

「わかったよ。だけど、勿論僕のも忘れてね」

「え、無理でしょ。人の脳をなんだと」

「その冷徹さから考えて、多分君のは機械かなんかなんじゃないかな」

何それ、と彼女は笑う。確かに普段からは乖離した表情だ。だけどとても自然に思えるのは、きっとこれが彼女の本当なんだ、と知ったからなのだろう。

やっぱり、忘れられる気はしないな。

「機械か、そっちの方がよかったかもね」

そんな言葉が聞こえた気がした。だけど、よく聞こえなかった。

「みんなの輪の中で生きるなら、知っておいて損はないと思うよ。わたしねー」

はぁ、と深く息を吐く。髪に隠れて、その表情は見えない。

「人を、殺したの」

知らず、一歩引いていた。構わず声は続ける。

「よくニュースとかであるでしょ、『いじめ自殺』。わたしは、西中三年二組の全員は、ある男の子を自殺させた、殺したの。勿論、誰も止めようとしなかったってわけじゃないけど、中枢の人に睨まれて巻き添えなんて嫌だったから、わたしたちは何もしなかった。何もできなかったから、ただエスカレートして疲弊して壊れていくのを見ているしかなかった。結構、堪えるよ。人が死ぬのって。彼の笑顔も知ってたはずなのに、もう思い出せないもん」

一息に続けると、にこりと、笑顔と呼びたくない笑顔を向けてくれた。

「彼が死んじゃって、そのあとの中学生活は言葉通りにお葬式だったな。先生も、生徒も、誰一人笑っていない。強いて言うなら唐突に叫び出す人くらい?わたし、どうして不登校にならなかったのかなって、今でも不思議」

いじめ自殺。そういえば県内のどこぞの中学でそんな話があったな、と思い出した。他人事だと、見て見ぬ振りをしたニュースだ。

彼女の表情の、辛そうなのに気づいている。声が震えているのを知っている。鞄の取っ手を、強く、強く握っているのをわかっている。だけど、何一つ、言葉が浮かぶことなんてなかった。

気の利いた言葉を探す僕に気づいてか、彼女の表情は、ふっと緩んだ。

「だから、わたしが言いたいのは、相当に強く『自分』っていうのを持っていないと、周りに逆らえなくなって、いずれ嫌な目を見るよ、っていうこと。気をつけてね!」

何か言うべき言葉があるのだろう。僕はここで、何一つ言えないままじゃ駄目なんだろう。

だけど、それはまだ、できそうにない。

僕は、「ああ、気をつけるよ」なんて間の抜けた返事だけを残し、それから駅までの五分間程度、「さよなら」と言うまで口を開かなかった。



昨晩に降った雨もはけ、黒く染まったコンクリートは、徐々にもとの灰色を取り戻しつつある。

交差点、友達と出会う。軽く手を振り挨拶を交わし、なんでもない話をする。

念のため持ってきておいた傘は、鞄に引っ掛けておいた。両手を空ける意味はないけれど、なんとなく、そうしたかった。


みんなの輪の中で生きるなら。


あの日から、結論は出せていない。ただぼんやりと日々を過ごしてきた。最早、その『ぼんやり』にも魅せられてきた頃だ。

だけど、ぼんやりとでも、歩いていれば校舎に着く。

昇降口、階段、階段、廊下を経由し、見慣れた教室の扉に手をかける。

まばらな挨拶が届き、気の抜けた返事をする。席に着き、鞄を開け、友達がくれた筆箱を机の上に出す。


聞いてよ!と、クラスメイトの部活の愚痴を聞く僕の視界の隅には、

窓際の一室で、ひとり音楽を聴く少女がいた。

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