卒業演奏会

三谷一葉

卒業演奏会


 歌が大好きだったから、音大に入学した。

 いつもより濃い化粧をして、ワインレッドのドレスで着飾って舞台に立つ。

 一礼して、顔を上げた時に見える黄色の照明。ピアニストに目で合図をして、伴奏が始まって、歌い出す直前に吸い込む空気。どれも大好きだった。これのために生きていると言っても良い。

 今回歌うのは、恋に恋する少女の気持ち。生まれて初めて「愛している」と男の人に告げられて、うきうきしている可愛い曲だ。

 歌い出し。少女はうっとりと愛しい男の名前を呟く。なんて素敵な響きなの!

 恋を知らなかった少女が初めてそれを知った時に出る色っぽさ。これを出すのに苦労した。あくまでも純真無垢に、いやらしくない色気が必要なのだ。

 例えば靴箱の中にラブレターを見つけて、それを読み返している時のような。少女漫画の主人公になったつもりで、可愛らしく、魅力的に。

 照明がまぶしい。客席の方を見れば、しかめつらしい顔をした教授の姿が目に入る。

 入学したばかりの頃は、教授の顔を見た瞬間に記憶が飛んだものだった。卒業間近の今では、じっくり観察する余裕がある。

 最初は戸惑いの方が強かった少女だが、少しずつ喜びが大きくなる。楽しげに、今にも踊り出しそうなくらいに。

 歌はここが難しい。自分の身体そのものが楽器だから、精神状態が声に影響を与えてしまうのだ。失恋した直後に愛を讃える歌は歌えない。

 だけど、これが最後なのだ。難しかろうが何だろうが、私にとっての最高を歌いきって見せる。

 喉が潰れていたとわかったのが、大学三年生。それから少しずつ歌える時間が短くなり、今では五分で限界だ。

 テレビに出てくる「うたのおねえさん」になりたかった。大好きな歌の仕事がしたかった。でも、無理だ。

 だから最後は、一番好きな曲にした。私の最高音が出てくる、恋に恋する可愛い女の子の歌。

 くるくると踊るような旋律。幸せそうに笑う少女。

 いつまでも続けば良いのに。このままずっと、いつまでも。

 喉が引きつれそうになるのを、必死にこらえる。まだだ。まだ最高音を出してない。

 喉に力は入れないで。自然に。呼吸をするのと同じように。

 賑やかだったピアノが止まる。私の見せ場だ。

 お腹から額に抜けるように。しっかり地面に足をつけて。

 ころころと転がる旋律の先に、最高音。会場いっぱいに、私の声が響く。今までで、一番綺麗な音が出せたと思った。

 曲が終わる。ピアノの最後の音が消えた。

 ピアニストが立ち上がったのを確認して、一礼。ぱらぱらと拍手の音がする。

 舞台の空気。照明。歌い出しまでの間。自分でも最高の音を出せたと思えた瞬間。終わった後の拍手。

 …………ずっと、ずっとこれが欲しかった。

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卒業演奏会 三谷一葉 @iciyo

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