やっと会えたね

桐生荒也

やっと会えたね

「どうも、すみません。こんなに濡れてしまって」


 土砂降りの雨を横目にしながら、彼の言葉を聞いていた。

 穏やかな口調で喋る彼は、白い上着とジーパンにカジュアルな服装だ。見た目も二十代ほどで派手さはなく、爽やかな印象を受ける。


「いえ、この日にしてと頼んだのは私ですから。体は冷えませんか?」


 「大丈夫です」とマスターから受け取ったタオルで髪を乾かしていた。


 私たちは今、道沿いにある古風なカフェにお世話になっていた。

 私は彼にある「お願い」をしていた。それを彼は快く受けてくれて、この日の午前十時に待ち合わせしていた。まさか、こんな激しい雨に襲われるなんて思わなかったけど。


 私が店に入って、少しすると雨が降りだした。通り雨だろうとマスターは言っていたけど、待ち合わせの時間までかなり余裕をもって来た私は季節外れの豪雨をずっと眺めていた。この店に来るだろう青年の身を案じながら。


 彼が来店したのは待ち合わせの十分前だ。案の定、彼はずぶ濡れで店にやってきた。その姿で彼は「遅れました?」と聞くのだから、律儀な子なんだなと感心したのだった。


「こんな日になるなんて……電話してくれれば、日を改めたのに」

「僕の都合なんて考えなくていいですよ。約束事はきちんと守る、それが松岡家の家訓なんで」


 こういう青年だ。彼の気持ちの良い対応は幼少期から教育されたことから来ているのだという。正直、その頃のことを聞かせてほしい気持ちがあったけど、生憎私にその時間がないせいでお話できないのは残念だった。


 彼は対面の席に座った。乾ききっていない髪が垂れ下がるのを鬱陶しそうにしながら、彼はコーヒーを注文した。私はどうするのか聞かれて、結構です。と遠慮させてもらった。


「へっくしょん!」


 やっぱり体が冷えているようだった。上着は脱いだみたいだけど、下のTシャツまで水は進行していたらしく服が体に張り付いていた。


「大丈夫ですか? 風邪ひきますよ」

「こんなの平気です。こう見えて俺、体丈夫なんで病気は滅多にかからないんですよ」

「……鼻水でてますよ?」

「うそ!?」


 彼は鼻を触り、垂れていることを確認したら慌てて机上のティッシュ箱から何枚か取って鼻をかんだ。

 なんだか笑ってしまう。最初は大人びた人だと思っていた。実際そうだし、きっと私よりしっかりした子なんだと思う。だからこそ、子どもっぽいところを時折見せてくれるのは私としてはギャップ? を感じて高評価だ。


「ほら、これ飲んで早く体を温めなさい」


 そう言って、持ってきたカップにコーヒーを注ぐのはこのカフェのオーナーであり、マスターの岡本さんだ。年齢はおそらく六十代後半で、渋い声とトレードマークの白髭が特徴的な人だ。彼とどんな関係なのかわからないけど、以前から私と懇意にしてくれた人物だ。


 「ありがとうございます」と言って、彼は砂糖を入れかき混ぜて飲んだ。温かいコーヒーに舌鼓を打って、はぁ~と幸せそうに息を漏らした。


 コーヒーの仄かな香りが鼻を掠めてきた。不意にきたそれのせいで、ちょっとコーヒーを飲みたい衝動にかられた。飲もうなんて思わなかったのに、お腹の底にあった食欲が一気に目覚めて登ってくるこの感覚。もう長らくそれを意識してこなかったせいで、抑える方法なんてもう忘れてしまった。なんとかしたいけどどうすればいいんだろう。


 そんな私の葛藤なんて知らぬ彼は少し落ち着いた様子で私の顔を見直した。

 そんな彼を見て私は今日ここに来た目的を思い出す。


 そうだ。お腹のことなんて考えてる場合じゃなかったんだ。最近はどうも、緊張感とかそういうのに疎くなっている気がする。

 ただこの子とお話にきたわけじゃない。ちゃんとしないと。私のほうが年上なんだから。


「それでは改めて、よろしくお願いします。三上由紀みかみゆきさん」


「こちらこそ、よろしくお願いします。松岡春樹まつおかはるきくん」


 ここでようやく話の本題に入っていく。


        *


 春樹くんにした「お願い」は正直、私はほとんど諦めかけていた。

 ずっと探したのに全然見つからなくて、手がかりすらでてこなかった。

 だから春樹くんに頼んだのも、きっとダメなんだろうなということばかりで信用なんて欠片もなかった。


 でも、彼は「お願い」を果たしてくれた。見ず知らずの私のために探して、見つけてくれた。

 本当に驚いた。驚きのあまり、その時がどんなだったか覚えていない。今でも自分が都合のいい夢を見ているんじゃないかと疑っている。それは杞憂なことだってわかってるけど。


 春樹くんの声を聞くたびに、これは夢じゃないんだと教えてくれる。そして、その先にあるものを意識した。


 やっと私は、あの苦しい日々から解放される。やっと元居た場所に戻れるんだ。


 もうすぐ会いにいくからね――啓介。


        *


 春樹くんは持ってきた鞄の中から書類を出した。

 書類はファイルに綺麗に整理されているようで、ファイルから付箋がいくつかはみ出ていた。あの中に私の知りたいことが入っているのか。


「色々と調べてきたので、由紀さんの知りたいことからお聞きください」


 春樹くんは準備ができたのか、そう聞いてきた。

 なら、最初に聞くことは――。


「啓介は、増田啓介ますだけいすけは今どこにいるんですか?」


 服のすそを強く握りしめながら、私は思い人の――増田啓介の居場所を春樹くんに聞いた。


 増田啓介は、私の思い人であり婚約者だった。


 今から十年前、昔からよく来ていたこのカフェで私は当時付き合っていた啓介から婚約を受けた。

 いつか彼と一緒になれたらいいなと考えていた私は、二つ返事でその婚約を承諾した。緊張の糸がほつれたように、ほっとした顔を浮かべる啓介を昨日のことのように覚えている。


 だけど、私たち二人が幸せになる日なんて来なかった。

 

 カフェを出て、彼の車に乗って帰っていたとき正面に走行していたトラックが突然左右に揺れ、右に回転して道をふさいだ。啓介は咄嗟に急ブレーキしたけど、間に合わずトラックは車に覆いかぶさるように横転した。私の意識はそこで途切れてしまった。


 事故の後、私はとある病院で目を覚ました。随分長く眠ってしまったようで、カレンダーのページが違っていた。

 私は起きてすぐ啓介を探した。同じ病室にいなかったということは、別の部屋にいるのかもしれない。

 病院中探したけど、啓介はどこにもいなくて、病院の名簿にも啓介の名前は入っていなかった。もしかしたら別の病院にいるのか、それとももう退院しているのか。

 啓介は一体どこにいるのか。そのことで頭がいっぱいになって、不安になった。


 病院を出た後も、私は啓介を探し続けた。


 いつか連絡がくるんじゃないかと思っていた時期があるけど、全然その気配はなかった。記憶は断片的で、啓介が住んでいた家も、働いていた職場も、話に聞いていた家族のことも全く思い出せなかった。ただ、増田啓介という大切な人の名前となけなしの記憶だけはあって。


 そこからは長く、でも短いような時間が流れていった。諦めてしまいそうなときは何度もあった。でも薄っぺらだけど彼の顔と声と温もりがそれを食い止めてくれた。


 そして、私を助けてくれると言った彼がこうして目の前に現れてくれた。


「増田啓介さんは」


 その先の言葉が紡がれるのは、私のこれまでの十年に等しいか、それ以上の感慨を含んでいるようでゆっくりに感じられた。

 そして、それはあっけなく――、


「亡くなっていました。十年前の交通事故で、救急車の中で息を引きっとったそうです」


 終わりを迎えた。それが私の十年間の答えだった。


        *


 それから私は春樹くんと別れ、別の場所に向かっていた。

 体がふわふわっとした感じで、足取りはいつもより軽やかに前に進んでいた。


 今の私の心境を例えるなら、どう言えばいいだろう?


 悲しい? 悔しい? それとも、泣きたい?


 どの言葉もしっくりこない。だって、涙なんて出てこないし、顔はずっと前を向いて、すっかり晴れた空をこの目に焼き付けているんだから。


 もちろん、心が全部そうとは言えない。十年間の苦労が、全部無駄になってしまったようなものだし。

 できれば、春樹くんが見せてくれた写真じゃない啓介を見てみたかった。


 でも、後悔はしていない。諦めなかったから、春樹くんに出会えて真実を知ることができた。私一人ではできなかったことを果たせた。それで十分だ。


 歩き続けて、目の前に桜の花びらが落ちてきた。目的地に着いたんだ。

 そこには大きな桜の木が植えられていて、満開になったらそれは見事な光景になると春樹くんが言っていた。

 そして、そこは多くの魂が眠る場所だ。


「やっと会えたね」


 数多くある墓石の中から見つけて、その前に立った。

 墓石には「増田家之墓」と彫られていた。


「大変だったんだよ。親切な子がいてね、その子がここを教えてくれたの。あの子がいなかったら、もう啓介に会うことなんてなかったかもね」


 話すことがたくさん増えた。

 今までのこと、この十年で起こったこと、春樹くんのこと、岡野さんは今も元気にしているのも伝えないと。


 ――だから、早くそっちに行くね。


「待っててくれてありがとう。啓介」


 ありがとう、春樹くん。迷ってた私にこんなに恵まれた最後を用意してくれて。


 ありがとう、岡野さん。私のこと見えないのに店の席を使わせてくれて。


「十年もかかったけど、またあなたの隣にいさせてね」


 全身の感覚なんてもうない。視界がぼやけてきた。きっともう消えかけている。


 最後に言うとしたら、やっぱりこれしか思いつかなかった。



 ――私ね、あなたに会えたこと幸せだってずっと思ってたよ。



 朧げなシルエットが見えて、笑いかけた。


 そして、私はそっちに向かって走っていった。

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やっと会えたね 桐生荒也 @kiryukouya

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