安らぎ

絹谷田貫

安らぎ

 チャイムがなったのでドアを開けると、丸々太った蛙がいた。人一人ほどもある、大昔の映画で忍者がまたがっているような大きな蛙だ。どうやってインターホンを押したのかわからないけれど、げぇこと頬を膨らましながら「安らぎたいのですが」というのでしょうがなく家に上げた。



 のたのた、ともずるずる、ともいえない、這うような動きで蛙はあがりこみ「安らぎたいのですが」と繰り返した。


 私ははぁ、と返す。ええ、といったのかもしれない。


 ともかく蛙であり、安らぎに来たというからには、私の部屋で安らぐことが第一の目的なのだろう。何をすれば良いのかも良くわからないが、とりあえずお茶を出し、ちゃぶ台に向かい合わせに座ってじっと蛙を眺めてみた。それほど蛙に詳しくないのでよくわからないが、良い緑をしているのはわかった。つやつやとした、若草色にちかい緑だ。暫くまんじりと緑だ緑だと感心していると「そんなに見られては安らげません」といわれてしまったので、電気を消して眠ることにした。蛙が常夜灯がないと寝れないと言い張ったので少し困った。



 蛙は私より少し早く起きて、私より少し早く寝る。毎朝仕事に出る前には一言言ってくれるが、なぜか帰ってくるときにはそれがなかった。それが気に障る日も有ったし、どうとも無い日も有った。要は気分の問題であり、いちいちつき合わせるのも大人気ないと、私は出かける際に「撥ねないでね」と一言言うだけにとどめて、日中は仕事に励んだ。たまに蛙が私のいないのを良いことにぴょこたんぴょこたん跳ね回って良いないかが気にかかった。何分あの体だから、ぴょこたんどころの騒ぎではすむまい。下の階の人に酷く迷惑だろうし、家を追い出されてはたまらない。結局周りからなにか言われるということがなかったから、蛙からしてみれば心外な疑いだっただろう。それ以上考えるということをせず、あれは撥ねない、いい緑をした蛙であると一人で納得していた。



「ワタクシ」と蛙は自分のことを呼んだ。「ワタクシは、柿の種は好みません」



 蛙の癖にずいぶんと仰々しい一人称であったし、偉そうなわりに柿ピーのピーナッツばかり食べるし、これもまた気に障る物事の一つであった。


 しかしまぁ、これもまた、いちいち言うのも。


 ワタクシワタクシと聞きながら、私は柿の種ばかりを含んで舌の辛いのに慣れないのに辟易した。一週間もすると、バターピーナッツのあのもったりとした味が恋しくなって、私は朝のコンビニでバタピー(と、この呼び方は隣の机のシロコさんに教わった)だけを買っては、会社のキーボードをうつ傍らでポリポリそれをかじるようになった。


 ふだん辛いのと3:2程度でやってくるはずのもったりが途切れなく口に飛び込んでくるので妙に口の中が油重く、帰るころには唇の上と下を引き剥がすのが億劫になる。妙に無口になりながらスーパーによって、だらだらと買い物をして、家に帰って「おかえり」と言わない蛙を一瞥して、その後適当に料理をする。


 チンするチーズグラタン、オクラの和えたの、しなびてしまう寸前のフランスパン。勢いで一本買ってしまったパンを一人で片付けるのに手間取って、もう四日ほどこればかり食べている。


 その横でじっと緑でいる蛙が、少し手伝うといってくれればいいのにと思いながら、どこか恨めしげに考えながらぐんぐん平らげ、その後面白くない顔で洗物をする。蛙がきてからこんな顔ばかりしている気もするし、ずっと前からのような気もしていた。面白くないのだけが確かなので、とことん面白く無い顔をして、それからさっさと寝た。家ですることなんて無い。常夜灯はまぶたの裏に入ってきて嫌いだ。



 以上のことを、会社でシロコさんに喋ると「それはよくないですよぅ」と言われてしまった。「面白く無い顔なんてしてたらおもしろくないでしょうぅ?」



「そうかしら」といいながら、私はシロコさんの唇がしっとりと湿っているのと、それが妙に間延びした語尾をつむぐのに気をとられていた。シロコさんは可愛い。こんな喋り方をしていて、不自然に思われない程度に可愛い。変な人気があるらしい。どこで人気なのと聞かれればわからないというほか無いけど、そういうことを誰かが給湯室で言っていた。OLが給湯室で聞くことは八割方真実なのだとシロコさんは以前笑っていた。



「でも同じだけウソなんですぅ」


「じゃあどういう計算になるの」


「十人が十人自分の計算をするから、一人で計算できませんよぉ」



 ややかしいですねぇ、と笑う唇はつややかで、私はそこにちらちらと目がいくのを抑えられなかった。ややかしい、ややかしいよ。と繰り返しながら、私は自分の唇を思った。こんな風になりたいと思った。



 私はいつもそう思う。こんな風になりたいと思い、コレを手に入れたいものだと思う。もっと言えば自分が決定的に欠けていると思っている。壊滅的にと言っても良い。



 かといって、そうで無い気がする。



 私は穴ぼこを抱えたままふらついている。



 ややかしいよ。



 蛙は日に日に小さくなっているようだった。最初は気づかなかったが、ふとした拍子に縮んでるんじゃないかしらんと疑問に思い「縮んでる?」ときけば「縮んでおります」と帰ってきたので、柱に紙を貼って、そこに計って印をつけた。私も実家の大きな柱を思い出して、自分の背をそこに記した。別に傷をつけて背比べした思い出はないが、そんなことをするのも良いと思って気まぐれにつけたのだった。


 次の日にはそうで無い気がしていたので、私の記録は163㎝で止まっている。シロコさんは156らしい。蛙はわからない。


 どこを持ってして身長といえば良いのかさっぱりなので、そのとき一番高い所を目測で計る。日に日に縮むが、安定しない。ギュンと縮んだかと思えば、まるでかわらないような日もある。変らなかった次の日やたらめったらピーナッツを食べるので、帰りに柿ピーにバタピーを足して買って帰って与える。私は柿の種をかじる。シロコさんは一日に何度もバタピーをねだる。



 元の大きさが酷いから、蛙は長い間、縮めど縮めど大きい蛙のままであった。大きいまま、良い緑のままである。変らず良い緑だと思いながらじぃっと見つめていると、私はその緑に横たわってみたい気持ちになった。


「良いかしら」と聞けば返事は良好で、謹んで、遠慮して、縮こまるように、横からしなだれかかってみた。しなだれかかって、違うような気がして、背を預けてみて、やはり違う気がした。



「もう結構」と私は起き上がり、やはり面白く無い顔をしながら食べて洗って寝た。次の日見てもやはり蛙は良い緑だった。


 それから私は何度か、お昼の休みなどに蛙の冷ややかな皮膚を思い出しては、それほどでもなかった、それほどでもなかったと繰り返し確認した。


 お弁当は面白く無い顔で一人で食べた。シロコさんがたまに隣に来てくれたが、面白くない顔をしているから、面白くないだろうと思う。



 蛙は話しかけられるか、柿ピーを食べる前に例のことを断るか以外にえらく無口だったが、一度だけ話しかけられたことがあった。じっと私が緑だ、緑だと感心するのに、声をかけてきたのだ。



「入れ替わるのでしょうか」


「え」


「貴方は私に乗りましたが、私が貴方の指ほどに縮んだとき、私が貴方に乗るのでしょうか」



「やめてよ」と、存外に強い口調で出た。



「やめてよ、嫌よ、乗られるなんて嫌よ」


「嫌ですか」


「どんなに縮んだって嫌よ、私は」


 私の声は固くて、強くて。


 硝子の棍棒のようだった。


「私は、嫌よ。私に何者が乗るのも、嫌」



 そうですか。と蛙はまた、緑々した肌でじっとするのに戻るのであった。私は自分のどこからこんな嫌悪が沸いて出るのかビックリした。それから少しして、蛙がぐんぐん縮むようになった。私は相変わらずだった。



 相変わらず面白く無い顔ばかりすごしていると、面白くない話に出会った。給湯室で私は、私がシロコさんに酷く嫌われているらしいという話を聞いた。それは私が居るのにあからさまに気づいていない二人の間で行われたやり取りで、この上なく優先度の低い扱いを受けていて、私が後ろからそっとでていったっとしても、二人は実に自然に挨拶と、噂話へのお誘いをかけてくれた。


 私は急須を掲げて見せて断って、小走りに自分の机に戻っていった。その日、私はシロコさんの唇を見れなかった。じっと視線はキーボードとバタピーだけを往復して、稀に彼女の膝の辺りに移った。それは彼女が話しているときで、私が返すとき、私の視線はバタピーに戻るのだった。



 妙な噂であり、信憑性はなく、どこから出たのかも不明で、まるで気に留めるべきことでもない。そんなことのはずなのに、机の間で交わされる言葉や、ピーナッツや、そのほかの何かのやり取りは減ったように思えた。そうでないと思う時との入れ替わりの間隔が狭くなった。他のことにしてもそうだった。蛙はもう抱えて戸棚の上にしまえる程度の大きさになっていたが、私はその緑さえ以前のように良いものだと思えなくなった。特によいものでもないと思ってしまうとなにもかもそれまでだった。



 シロコさんに避けられるようになったかといえばそうでもなかった。シロコさんがお弁当を持って隣に来る回数は増えていた。シロコさんの所にもあの話が届いたのかもしれない、それとも逆に私がシロコさんを嫌っているという話を仕入れたのかもしれない。どちらにせよそんなことには誰の計算も絡んでいなくて、私とシロコさんだけでさらさらとけてしまえるものなのだろうけど、毎日に変りはなく流れていって、ついに一度もバタピーが行き来しない日が訪れた。変化があるのは蛙だけだった。



 私はシロコさんに何もかもを打ち明けて、「ワタシの計算だと、それは十割ウソですねぇ」といわれる日を望んだ。潤った唇に視線を飛ばす日々を思った。朝方それは募り、家を出ればすぐに、そうでもない気持ちに取って代わられた。シロコさんは毎日隣に来る。バタピーは一人で空ける。スカート一枚一枚の違いがわかるようになる。シロコさんは三枚持っていて、なにかをこぼすことが多いようで。蛙はついに、指先ほどまで小さくなった。ワタシは面白く無い顔をしながら机に乗せた蛙と向かい合い、その話を聞いていた。



「やりたいことがあります」


「はい」


「ピーナッツのことではありません」



 こんなに小さくなったのに、どこから声が出るのだろうか。不思議に思いながら、私は蛙の緑をじっと見た。それはもうワタシにとってなんだかわからない緑で、まじまじ見るほどのものでなくなっていた。ピーナッツのことでなければ、なにを望まれるのであろうか。ひょっとして、乗られてしまうのだろうか。



 蛙に乗られる。



 目の前の口の中に入ってしまいそうな、豆粒のようなそれが、私に首尾よく乗っかるところを想像した。いつぞやの嫌悪が顔を出した、が、そうでも無い気になった。私はふらついていた、ガタガタにふらついていた。



「すれば良いと思います」私は言った。「好きなことをすれば良いわ」


「では、失礼して」蛙は答えた。



 ぴょこたん、と蛙が跳ねた。


 本当に、3㎝ほど、小さく、机の上だけで跳ねた。



「え」と私は間抜けな声を上げた。


「乗らないの?」


「乗りません」


「なんで」


「乗る理由がありません」



 それは、そうだ、私は良い緑をしていない。



「撥ねた、やぁ撥ねましたよ。窮屈だった。撥ねてはいけないといわれてもう。しかしこれで十分です。好きなことをした。安らぎました。どうも」



 蛙は満足げだった。げぇこ、と一回鳴いてさえ見せた。帰ります。と玄関に撥ねていこうとするのを、私は止めた。



「何とかしてくれるんじゃないの? 貴方が私のふらつくのをなんとかしてくれるんじゃないの? 貴方が変えるんじゃないの?」



 げぇこ。



「知りません。貴方のことは貴方でなさい」



 ぴょこたん、ぴょこたんと撥ねながら言う蛙が、憎らしくて忌々しくて私は引っつかんで窓から放り投げた。くるくると宙を待った後。癪なことに無事に着地したらしい。「げぇこ。帰る、帰ります」とあの声が聞こえてきて、悔しくて窓を力任せに閉めた。



 悲しくてたまらなくて私は蛙の痕跡を執拗に探した。消し去ってやろうと思った。カキピーと柱の記録だけしか見つからないのでむしゃむしゃとカキピーをピーナッツごと食い、然る後紙をはがしてやろうとした、ふと自分の背の記録が眼の高さにあった。私は大きくなっていた。そんなこと知らぬとはがして丸めて捨てた後。蛙が縮んだことを思った。



 電話を一本私はかけた。



「シロコさん」




「安らぎたいのだけれど、お邪魔するわ」

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