土産話

有給休暇

土産話

 土産話を一つや二つは持っていったほうが良いかと思っていた。自分の人生は語るには単調すぎて、なにか一つだけでも特筆しようと悩んでみても、語るに値するものは自分の人生を丸々と語ることしかない。すべてまとめたところで人を楽しませられるかも怪しいものだ。いざレールから外れて過去から未来へと続くレールを見てみると、なるほど面白いぐらいに直線の線が走っているのがわかる。


 そんな人生を送ってできた感性が、すこし遠出したところで面白いものを見つけられるとは思えない。考えてみれば、この世に生きる大多数が職などの些細な違いはあるにして、同じような人生を歩んでいるはずだ。同じような人生の話をしても、同調の声が聞こえてくるだけなのはわかりきっている。ただ、それでも溺れる人が水を必死にかき分けるように、俺の中では死ぬ前の一つの悪あがきの意味を遠出に込めていた。


 俺の家の中は驚くぐらいに静かで、そして薄暗かった。黄昏時の夕日が床を浸して、生活音は何もなく俺の耳が捉えているのは己の心臓の音のみだった。こんな音一つで生かされていると思うとそれはそれで滑稽だが、事実その音が唯一生きている音で、それもいずれ近所の子供騒ぐ声に紛れて聞こえなくなる。少し暗闇の濃度が増していく部屋の中心で胡座をかいていた俺は、いつこの部屋から出ようかと漠然と考えていた。考えはするが、足がそれに従うのはいつだって遅かった。自分の人生のようで嫌になるが、その繰り返しで出来てきた人生がまるで違うなんてことはありえない。


「一が積み重なって十になるんだな」


 考えることだけは立派になった。それを鍛え上げてくれたものも、言い訳や情けない自尊心からで、それを打ち壊すような大きな出来事も未だに起きたことはない。理由は簡単だ。足がその場所に向かおうとしないからで、俺は今その慣例を破壊しようと、稀に見る行動力を胸に秘めながら部屋の中でまんねりと座している。希釈されたかのような薄い橙色の光が組んだ足を濡らす。微かに足へ感じる温もりを撫でて、一息ついて区切りをつけてから長く組んでいた足を解いて立ち上がった。足先を濡らしていた光はそっと手を引いていき、仄暗い黒がその足先を包んだ。


 家の外を出れば思わず目を閉じてしまうほどの夕日が外を照らして、後ろの部屋が黒く淀んだ禍々しいものに思えて仕方がなかった。後ろを振り返れば、脱ぎ捨てられた服も首を落とすテーブルランプも今から出ようとする俺を恨みがましく見ているようにしか思えない。くさいものには蓋をしろと心の中で笑いながら、俺は無表情のまま扉を閉じた。熱しられたアスファルトの匂いが否が応でも外ということを意識させる。昔はこの匂いを好き好んで吸っていたのに、年を重ねてのこの移り変わりは自分でも驚くものだった。憧れだった大人への憧憬も、前を走り去る子供が奪い去っていった。赤い大きな玉は、山の上で朗らかに笑っている。あの笑みは諦めの笑みだ、あいつの足元には俺には見えない海が広がっていて、あいつが沈み蒸発するのを手招きしながら待っている。その未来を知りながらあの玉はそれでもなお笑っている。その笑い顔が蒸発した時に、夜の静けさがやってくる。いずれ、夜が来る。俺はその太陽が山の裏に隠れるまで玄関の前を動くことが出来なかった。皆が見惚れる光は美しすぎて、それに直面したくなかったからだ。俺は早く夜になってくれと、夕日に見惚れながら静かに祈る。


 まもなく夜が来た。玄関の前で固まりかけた足の出そうとする一歩が重い。このままここに留まっていればいいと誰かが言ってくれれば、俺はそれに素直に従うつもりだが、救いの言葉を周りに求めても周りは夜で俺を気にかける人は誰もいない。周りの暗さを認めた時、不安感よりも安心した気持ちが勝った。皆生きるのに絶望をしながらも懸命だ、一人が迷って悩んでいたところでそれを覆い消すように世界は常に混迷していて、其の中で生きる自分もその世界の一部なんだと認められた気がした。自分が自分を否認しても世界はそれを肯定してくれるとは、なんて素晴らしい世界なんだろう。これはぜひとも土産話として持っていかなければいけない。もっと美しい世界だったと自慢できるようにしなければと義務感を胸に抱けば固まっていた足もすんなりと前に出た。向かう場所は最寄りの駅、線路沿いの道を歩いていれば時々、横にライトを付けた五両編成の列車が轟音と共に走り去っていく。横目で見ていればほとんどすべての人間がスマホや本に目線を落としていた。俺が彼らを見ていることに気づくものは誰もいなかった。列車は緩やかなカーブを描いて、建物の向こうに消えていったが、その走る音は姿が見えなくなっても未だに聞こえてくる。空には星が多く輝いている。死んだ人はお星様になると子供の時に信じていたのは何人ぐらいいるだろうか。俺は小さい時には無条件にそれを信じていた。その時には空を見る度に美しいのではなく恐ろしい思いだったが、大人の今は美しいと思える。線路沿いに並ぶ家の窓からは電気がちらほらと漏れ始めていて、蔦に壁を支配されている家の窓からは、母親らしき者の声で子供を呼ぶ声が聞こえている。チリンと鈴をならして俺の横を通り過ぎていく自転車乗りの男すらその家の窓の方向を驚いたように一瞥するほどの声量だ。長い道の最後には、駅が見えた。駅はタクシーの出待ちと自動販売機の明かり、駅名を照らす光は田んぼが半数を占める田舎町には似つかわしくない騒々しさを演出している。自動販売機や駅の光には羽虫が集い人を寄せ付けない。自動販売機の炭酸飲料のところでは蛾が一匹羽を休めているほどだ。その存在に気づいた利用客が身体を仰け反らせば、これは驚いたと言わんばかりにその蛾はひらりとあたりを飛び回り、それをタクシーの運転手が窓ガラスに頭をあずけながら冷ややかに見つめていた。利用客が足早に駅の中に入れば、タクシーの運転手も興味が失せて目を閉じる。蛾もしばらく飛んだあとにまた同じ炭酸飲料のところで羽を休めた。


 先程のタクシーの運転手に見られながら入った駅の中は熱帯夜の湿り重くなった空気が淀んだように広がっていた。数人の客はスマホの光で顔面を照らされて、何を考えているのかわからない表情で次に来る電車を待っていた。改札前の電光掲示板によれば、次の列車はおよそ十分後にくるらしい。皮膚から離れない重苦しい暑さに心の中で舌打ちをしながら、駅の端にふてくされて涼んでいる木製のベンチが目に入った。いい場所が見つかったと近づいて、塗装の剥がれた木製のベンチにそっと腰を下ろせば生乾きだったようで、落ち着けた尻がじめっと水気を吸い込み始めた。これは参ったなと一度落ち着けた腰を上げて、尻をそっと撫でれば確かに手には嫌な感覚が残った。しかし、もう座ったあとで濡れているのだからこれ以上気にすることもないだろうと再度腰を落とす。駅の明かりに虫たちが集って照らされ、スマホの画面に人間たちが照らされている。むき出しの鉄骨はがらんとした構内を殺風景に彩っていた。殺風景な構内にも夏は広がりうんざりとして顔を落とす。ベンチの下のアスファルトにはタバコの吸殻が転がり、その横を一匹の蟻があたりを見渡して歩いては立ち止まり、歩いては立ち止まりしきりにあたりを探し回りながらベンチの影にへと歩を進めていた。この蟻は上で俺が見下ろしているということに気付いているのだろうか。俺がその蟻の上に頭部の影を落とした時に蟻は慌てふためきベンチの影に身を隠した。前と横しか見ていなかった蟻にとって、俺の影はなにかの天変地異の前触れとでも映ったのだろう。蟻はベンチの下にじっと動かぬまま、深淵染みた表情で俺の方へと身体を向けていた。なんだよと小さく声に出すが、蟻はそんな言葉の意味を理解もせず、そして興味もない様子で俺を見つめていた。それを見つめているうちに、その顔が徐々に慈愛の表情に思えてきて怖くなった俺は其の足を踵で潰してベンチから立ち上がった。殺した感触もない、歩くために一歩足を踏み出すのと同じだった。俺の足の下でありが潰れている。向かいでスマホに顔を照らしていた男が突然立ち上がった俺を目を合わせないようにして覗き見ているのがわかった。遠くでは踏切が鳴っている。線路を挟んだ向こうのホームに行くために階段を上り始めた自分は、殺伐と明かりを放つ蛍光灯に群がる虫達の下で電車が近づいていることを知った。甲高い踏切の音は、遠くで聴く分には耳を防ぎたくなるような刺々しさはなくなっている。それよりも、その甲高い音が平生を思い浮かばして、その音の日常への染み込み具合を知って今更ながらその音の美しさを感じることが出来た。その音もやがて終り、列車が騒音を伴って駅になだれ込んでくる。先頭の車両が巻き上げる風が、服の袖を引っ張り画面に目を落としていた人たちは顔を上げて、列車の側面に疲労を隠せぬ物憂げな目線を向けた。明日もあると確信している目だ、今の俺にはその目をする力が残っているだろうか。停車し、扉が開いた先に広がる車内を見る俺の目は少なくとも爛々と光っているのはわかる。これからしようと考えていることを含めれば、それは一部狂気じみているのかもしれない。でも、俺にとっては初めて見た世界を一生懸命に覚えようとする赤子の目に近いものがあるんじゃないかと無根拠ながらに信じていた。


 電車に揺られて左へと去りゆく黒い町の輪郭を見送っていた。明かりや人の生活の気配も列車はことごとく無視して突き進んでいく。見知らぬ人の暮らしが目に飛び込んではすぐに消え去っていく。この電車の数人の客も初めて見る顔だ。落ち着きのない三十前後の男性が膝を擦りながら、車内と車窓へ何度も目線を往復させている。皮膚が蛇腹様に重なった首元には、両頬から伝った首元が合流して何度拭っても汗が溜まってしまっている。表情は明るく、皆が顔を伏せてスマホや本を読んでいる中でのそれは異質で目を引くものがあった。何かを探しながらも表情は笑顔であたりをしきりに見渡していた。俺はそれを少し離れた場所に座って眺めて、あそこまで目を引くものが俺にはあるだろうかと考えずにはいられなかった。異様なものや特殊のものに惹かれるのは、己が普通であると実感しているのならば仕方のないことだ。男と目線があった、相手はいとも簡単にその繋がった線を切り離して、また楽しそうにあたりを見渡している。俺の後ろで景色が通り過ぎ、電車は信じられないほどに遅く今にも止まりそうな速度で走っていた。とたんに駅の鼠壁が車窓の賑わいを塗りつぶした。あの男がすばやく腰を上げると、俺の前をせかせかとした歩調で通り過ぎて、扉の前に精一杯顔を近づけて駅の姿を大きく膨らませた瞳に写し込ませていた。その間も口元は大きく弧を描き、頬の肉はふっくらと隆起している。前に見た首元の汗は乾いているというのに、彼の手は執拗にその場所を撫でていて首筋はほんのりと発赤していた。周りの乗客もその男の異様さに目を引かれているが、彼はそれに気づく様子は微塵もないし、それに気付いたところで気にすることもないだろう。彼にとって周りは風景で、彼にしてみれば俺や周りの乗客などは精巧に書かれた絵にしか見えないのかもしれない。電車は愚図ついて未だに停止せず、足を引きずっているようにずりずりと意地汚く前に進んでいく。身体が右に押されてようやく電車が停車した。張り詰めた息を吐き出しながら扉が開くと、彼は車両を飛び出して小さな歩隔を急いで回して古い乗客が出るのを待つ新たな乗客の列の間を突き抜け、あっという間に駅から姿を消してしまった。新たな乗客はその彼の姿を呆然とそして興味深そうな顔で振り返ると我を取り戻して、電車の中に入り込んでくる。もう、誰も彼の姿を見ているものはいない。彼はもうすでに列車の中から死んで消えてしまったのだ。かろうじて俺の中には彼の姿は残っている。ただ数時間命が延びているだけに違いはないのだけど。しかし、あそこまで注目をひきつける彼は、俺とは違って人生の中で土産話として語れるものは数多くあるんだろう。羨ましいと思う心の奥で、このままでよかったと侮蔑の虫がそこにしがみついているのが俺にはぼんやりと感じられた。電車はまた無機質な音を響かせて、どこか遠くにへと走り出す。走り出せば俺はもうなにも考えない。揺られる景色の片隅で人間たちが皆それぞれの小さな世界に埋もれこんでいる様子を見て、俺には埋もれる世界もないことを悟る。この人間たちは、ここではない場所に生きているのかもしれない。時折、この世界に浮上するからなんとか生きていられるだけなのかもしれない。それに気付いたところで、僕には道が一つしかない。脇道にそれることを許してくれる世界はどこにもない。無意識についたため息を傍らの短髪の女が迷惑そうな顔を隠すこともなくその顔の表面に浮かばせる。それは水面に上がってきた水泡と同じですぐに弾けて消えるほど些細なものだった。なにを見ているんだと怒りが出てこないでもない。もし俺がこいつに怒りをぶつけたところでこの人はすぐに別の世界に逃げ込むだろう。それに俺は人を怒るほどの気力もなし、怒りの世界に逃げ込むほどの力もない。目線を下に向けたまま、顔を下げる。その小さな首の動きによる謝罪は、電車の揺れによるものと勘違いされてもおかしくないほどのものだった。自尊心も共に揺れている。列車が大きく横に揺れて、俺の身体もそれに負けて横にへと倒される。掴んでいた手すりの革がぴんと張りなんとか体勢を止められた。女の方もすこしまごついた様子だったが、ハイヒールを履いた足を一歩踏み出すことでなんとか身体を倒さずに済んだようだ。片手にはスマホが握られていて、もう片手は何も掴んでいない。ハイヒールの踏み出す音が電車の中を満たした気がする。女はすでに手元の世界に潜り込んでこの世界では息をしていないから、周りがちらりと彼女を見ていても構いはしないようだ。何事もなく電車は点々と電気が付いている団地前を通り過ぎて、川の上を走り去ってビルが大きく立っている都市部にへと向かっていった。有象無象の住宅が特に感情を引き立てるでもなく姿を見せては消えていく。ビルが徐々に大きくなっていき、遠くからは見えた都市の輪郭が見えなくなってきたころには窓の画角に収まりきらない高層ビルの明かりがずらずらと横にも奥にも続き、その隙間を縫う道路を夜にもかかわらず数多くの人が往来していた。あの中にいる人のなかには俺と同じ考えを持ってこの真夜中の町をあてもなく彷徨う人も何人かいるんだろうか。あっという間に景色を飛ばしていく電車の中ではそれを見つけることも出来ない。混み合ってきた列車の中の人間の感情も読み取れない今の自分には、電車が止まっていたところでそれが見つけられるとは思えない。僅かに濃くなっていく人間たちの体臭に鼻先を扉の僅かな隙間に近づける。鼻の先を撫でる隙間風によって冷えていく、新鮮な空気を捉えながら、早くこの旅の終わりを夢想して目を閉じた。終わりの先を想像してもこのままの暗闇しか思い浮かばない。


 車輪のごたつきが足元に響いてくる。目を開けば暗闇の開放感は煙のように消えてしまって、人が密集した列車の生々しいほどの息苦しさを見せつけられて、早く列車を降りようと決断させるのに時間はかからなかった。目的地は決まっていない、すべての場所が目的地になりうるからだ。最終の場所は決めているが、舞台が決まっていないだけの俺にとってこの決断はなんともありがたいものに思えた。そして俺は、人とぶつかりあいながら開いた扉の先に抜け出した。抜け出した先の空気は、埃っぽく人の匂いにむされているというのにどこか空想じみてるようで、それでいて清々しい気持ちがしていた。後ろの列車はすぐに扉を締めて、ホームから去っていく。列車が走り去っていく音が雑踏に負けていく。ホーム内の雑踏が鳴りを潜めるまで、俺は階段下の僅かなスペースに佇みながらあたりを注意深く見回していた。知っている人に会わないかが不安だったからだ。先程までは抱いていなかったその不安が、電車を降りて着実に終わりに近づいているのを感じるやいなや突然に現れてきた。それはどこか逃げ道を見つけることを恐れる気持ちも抱いていたのかもしれない。ここまで気を強く持てたことは自分でも片手に数えられるほどしかない。行動の原動力は大きいものだったが、それを打ち崩すのは簡単なほどその輪郭は脆いものだった。その曖昧な輪郭を少しずつ固めて壊れないようにしていれば、無関心な人の群れも周りにはほとんどいなかった。誰も通らない改札の向こうには、心配を杞憂だと確信を抱かせる人の群れが、お互いの顔も見ずに四方八方好き好きに散らばっている。俺をすんなりと通した改札は、背後であっけなく扉を締めて俺のことには見向きもせずに目を閉じているみたいだ。会話が、騒がしいノイズとなって忙しなく耳に入り込んでくる。ぽつんと佇む俺だけがこの街から浮いていた。この町は気力が凄まじい。枯れ果てた精神にはその気力の激烈さは毒にも等しいものだった。人の多い所を望んでいただろうと己に嘲笑を浴びせながら俺は人気の少ない場所を求めてその町の中をさまよい歩いていた。町から出て土産話を探しに行くことは決めていたが、これといって計画は立てていなかった。さまよい歩けば向こうからそれが俺を見つけてくれるとでも思ったのだろうか。受動的な姿勢にとってこの無関心な町はどうにも相性が悪かった。早々と土産話ができないことに感づいた自分は、呆然と飲食店の外壁に背中を預けながらこれからの事を考えた。なにか起きはしないかと目は忙しなく辺りをうろつくが、誰一人として異彩を放つ人間はおらず、今日の出来事で他人に話せるなことがあるとしたらそれはあの電車の騒がしい男しかいない。


 ため息を吐く。そして傍を通りがかった短髪の女が迷惑そうにこちらを振り返った。俺のため息でも身体にかかっただろうか。電車でも同じことがあったなと極めてどうでもいい事実が頭の中を一瞬駆け巡るが、女性が電車の中の人と同じだったということがそれをかき消した。その女性も俺の姿を見て驚きで止まっているようだった。お互いに存在を認識してしまえばそこから離れるのにはエネルギーが必要だった。切りにくい視線の糸へ戸惑いを持ちながら、俺と彼女はぎくしゃくとした会釈で糸を切ろうと努力した。前もって言い訳をさせてもらうならば、受動的な人間というのは常に受け身であるわけではない。一か百と極端に振られている人間なんていないかのように、俺の中にも数パーセント程度の能動的な一面というものがある。土産話を諦めていた後に起きた出来事、これを逃せばなにも始まりもせずに終わるだけという焦りが背中を押したのもあった。


「すいませんね。電車の中でも迷惑をかけてしまったようで」


 会釈後の女は二度に渡って不快を隠さぬ表情を見せつけた事実に弱々しい笑顔で俺を見ることしか出来なかった。俺も衝動的に発した言葉が皮肉っぽい皮をまとっているようでその次の言葉が安易には出てこなかった。女の後ろを人間たちがひっきりなしにぞろぞろと去っていく。俺と彼女の間を歩く人間の姿は見えない。彼女は俺の続きの言葉を待っていたようだが、俺はなにも他に言葉を放つ気力も残ってない。諦めを滲みこませた彼女は、気にしていないですよと苦し紛れの言葉を吐きながら俺の身体を下から舐めるように見定めていた。その目には見定める目があり、この人は俺とは違う存在なんだと感覚的にわかってしまう。わざと空白の時間と似合わないゆったりとした口調で話しかける自分はどこか必死な思いがあった。無関心な町の一部が唯一俺に目を向けているのだ。これを逃せば、もうひと目に晒されることなく俺はここから去っていくのが今になって怖くなる。


「急いでいるんですか」


「いえ、急いではないですが、なにか御用ですか」


 嘘でも吐けばいいのに、口元を歪めて訪ねた俺の質問に戸惑ったように正直に答えるものだから、俺はこれはしめたと言わんばかりに立ったまま会話を続けた。夜といっても季節は夏だ。俺のシャツの襟元は濡れて、俺の会話に答える彼女の首元にも薄い汗の膜が街の明かりに反射しているのが見えた。彼女の口調はどこか急いでいる気配があるが、それでも俺の何気ない会話に我慢強く答えてくれる辺り悪い人ではないんだろう。会話はいつまでもどこまでも続いた。それはお互いの足が疲労を訴え始めても、彼女の履いているハイヒールの踵がぐらぐらと揺れ始めてもそれを無視するように俺は懸命に会話を続けた。しかし、それは土産話にできるようなものでもない。見知らぬ誰かと会話をしたという一行で済む簡潔な出来事をちんたらと引き伸ばしているだけの冗長とした土産話を誰が求めているとでもいうのだろうか。会話が途切れて彼女の足が動く気配を見せた。俺は土産話のことを頭の片隅に大雑把に投げつけながら、消えかけの星を見上げて会話の続きを考えていた。流れ星がさっと流れた時に俺は覚悟を決めて彼女にとある疑問をぶつけた。


「死にたいって考えたことってないですか」


「死にたい……ですか。何度かはありますけど」


 気付かれずに動こうとした彼女の足の筋肉がぴくりと固まって、俺の問に心底不思議そうに返答をしていた。俺はもうなにも考えることはない、ただもう思ったことをぶつけるだけだ。このまま当たり障りのない会話をしていたところで何も面白いことなど起きるはずはないというぐらい俺にもわかりきっていることだ。


「やっぱり死にたいってみんな考えるんですね」


 どんな人間にも死への願望があるということはさすがの自分も知っていた。それが違う人間だと感じていた彼女にもしっかりと根付いているものだと知ってどことなく安堵する。


「急にそんなことを聞いてきてどうしたんですか」


 彼女のその鈍すぎる返答に、彼女は本当に急いでないのかもしれないと俺に考えさせるのに十分だった。そしてなんと返答すれば面白くなるのか楽しくさせるのにも十分だった。なにを言えばいいだろうか。これはまるで、美しいものを壊す気持ちにも似ている。なんだか露出狂の気持ちがわかりそうだ。俺は今から自分に備わっている恥部を晒すんだ。この美しい彼女は一体どういう反応をしてくれるんだろうか。


「僕はですね。これから死のうと思ってるんですよ。だから、最後の思い出つくりにあなたと話してるんです」


「はぁ……死ぬんですか」


 呆然としているようで毅然としている彼女は俺の言葉を口の中で転がしたまま、じっと俺の顔を見つめていた。その瞳は乾ききって瞬きが多い。その後に続く言葉は未だに出てきていない。俺はなにかを勘違いしていたみたいだ。彼女もこの町の一部だったと今更ながらに気付いた。


「あなたも死にたいって考えてるのなら、一緒に死にませんか」


 もはや自棄だった。むしゃくしゃしたまま、彼女にへとプロポーズをすればくしゃりと表情を歪めた後に冷たくあしらわれてしまった。


「いやですよ。死ぬなら一人で死にたいです。一人で死ぬ勇気ないんですか」


「土産話を求めているんですよ。もうすぐ死ぬんですし、死ぬ気になったらなんでもできますからね、人を誘って一緒に死ぬぐらいわけないですよ」


「死ぬ気でなんでもできるんだったら生きればいいじゃないですか」


「人間、死ぬ気になったら死のうとするんですよ」


やはり彼女はこの街の人だった。ふとこの町の中から空を見上げれば星の光はなにも見えなくなっていた。あの時の流れ星は幻想だったんだろうか。彼女の冷たい言葉はもう霧散してオレの心は晴れやかになっていた。俺につられて短髪の彼女も空に顔を晒した。そこには真っ黒な空が広がっているだけ。その空を見上げているうちに、彼女を説得しようとするのも馬鹿らくなる。空に負けず劣らず黒い彼女の短髪はさっと風に触られて静かに揺れていた。


「星が見えないですね」


 ちぐはぐな会話の展開に空を見ていた彼女が俺を見る目は変人を見るものと一緒だった。これはあの時の俺と同じ侮蔑と小さな羨望が混じっているものだ。


「そうでしょうね。こんな明るい町の中なら星は見えなくなりますよ」


「それもそうですね」


 無言が続いた。その隙を付いてさっと彼女は一言を残して去っていく。引き止めることはせずに、ハイヒールがつかつかと遠ざかっていくのを、冷たいコンクリートの壁に凭れながら眺めていた。あの人の中で俺はあとどのくらい生きていられるんだろうか。彼女と話している時、電車の中の彼が突然息を吹き返したものだから、俺ももうしばらくは生きていられるんだろうかと思いながら死に場所を探した。土産話はもうどうでもいい。知らない人間と話をして自死を誘った。そしてなによりも自死したことが一番の土産話だろうと重要視しなくなった俺は問題をぶっきらぼうに解決させた。

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