孔雀がいる

 準永遠さんに「帰ったら孔雀がいるよ」と言われたのでそのつもりでドアを開けたのだが、孔雀はいなかった。ベッドの上を、机の下を、納戸の中を見てみたが、いつも通りぐちゃぐちゃの毛布や積み上げた漫画やカップラーメンの買い置きがあるばかりで、羽毛の一枚も落ちていない。

 しかし、孔雀がいるよと言われたからにはいるに違いない。つまり、目に見えない孔雀がこの部屋にいるのだ。白い孔雀。繊細な羽根が重なり綾織のような模様を織りなす美しい孔雀。見られないのは残念だが、世の人々が──これまでの私を含め──孔雀なしで生活しているのを思えば、そのくらい目をつぶるべきだろう。見えないだけに。

 見えないとは言え敬意を払うべきだろうと考えて、私は床に正座し、「どうぞよろしくお願いします」と頭を下げる。見えない孔雀は答えない。そもそも孔雀はあまり鳴かない。

 そのようにして私と孔雀の生活は始まる。

 孔雀は草木や果実、昆虫などを食べるとのことなので、みかんを半分に切って部屋に置いておく。水も添えておく。みかんは乾いていくばかりで減らないので、私は乾きかけのみかんを食べる。食べなくて大丈夫なのか、それとも見えない孔雀の食べた跡や糞も見えないのか、判別がつかないので心配するのはやめる。毎日晩御飯の後にみかんを食べては新しいものを切って出しておく。

 孔雀のふわふわの羽のことを想像する。自然が生み出す美しい幾何学模様。羽毛に包まれて熱い孔雀の体温。布団の代わりに孔雀の羽に包まれて眠ることを考える。そう思い込もうとするが、肌に触れる毛布の感覚が想像を裏切る。目をぎゅっと閉じて眠りに落ちようとする。孔雀の夢は見ない。

 孔雀が見えないのは私だけではないかと考える。私の部屋も体も孔雀の羽毛と糞だらけなのに、そのことに気づかず生活しているだけではないか。会社の人やコンビニの店員は狂人を恐れて何も言わないか、普通の生活が送れているかのように装ってくれているだけではないのか。仕事着のカーディガンの埃をはたく。私の髪の毛が数本落ちる。

 孔雀のウィキペディアを読む。孔雀の鮮やかな羽の色は実は茶色で、光を乱反射する表面の形状により、実在しない色を見せるのだという。孔雀が目に見えない理由が分かった気がして数秒高揚するが、この孔雀は白孔雀だということを思い出して着席する。乾いたみかんを食べる。

 スーパーからみかんが消えるころ、準永遠さんと久しぶりに会う。

「なんだか久しぶりですね」

 私は恨みがましい目で彼女を見る。アイコンと同じ涼しげなミントグリーンの服を着ている。

「孔雀の話をしてもいいですか」

「どうぞ」

 ずっと見えないんです、と私は訴える。帰ったら孔雀がいるよと言ったのに。一緒に動物園で見たでしょう、あの真っ白な孔雀。でも見えないんです、一度も見えたことがないんです。みかんも食べないし水も飲まない、羽毛の一枚も落とさない、それで、

 私は烏龍茶をごくりと飲む。烏龍茶で酔っ払わないのは不思議だ。

 それで、孔雀なんて本当はいないのかもって、いや、そうじゃなくて、孔雀を実在させられるのは私だけだって思ったんです。ごはんも水も用意したし、糞で汚されてもいいように本棚に覆いもかけました、孔雀の姿を思い浮かべながら毎日寝るんです、孔雀の羽の細部まで、嘴の形やアイリングの皺まで、それなのに、そういうふうにしていればいつか見えてくるはずなのに、それなのに、それなのに、それなのに、

 私の目は冷静で、準永遠さんが二杯目のハイボールを頼むのもちゃんと見えている。割り箸を包んであった紙が床に落ちて、準永遠さんがそれを見たけれどまあいいかと視線を逸らしたのも見えている。まぐろぶつが赤く光っている。ツマの一本一本が、高すぎる解像度で撮った映像みたいに一本一本一本一本見える。

「それはね」と準永遠さんは言う。

「それはねーえ」と甘い声が囁く。

 私は耳を塞ぐ。孔雀を実在させられるのは、存在しないものを実在させられる力を持つのは、私だけのはずなんだから。私の手のひらに巡る血の響きがうわんとこもって、世界は遠ざかり、でもまだ酒場のざわめきは聞こえている。聞こえている。聞こえた。


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準永遠さんはお友達の名前です

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