雪のあしあと

@choal0422

雪のあしあと(1話完結)

「正直、うわさを聞いた時は半信半疑、まゆつばもんやなあて思うてたんですわ。まさかここまで精密やとは……。こら、ええ買いもんさしてもらいました」

 俺は男が差し出した封筒をポケットに仕舞うと立ち上がった。店の扉に手をかけた時、ふと思い立って振り返った。

「一つアドバイスさせてもらって良いか?」

 男が小首を傾げる。

「この店のデミグラスソースだが、いささか時代遅れで今どき流行らんレシピだろ。今風にアレンジするとウケが良くなるぞ」

 俺の不躾な言葉に気を悪くした風もなく男は顔の前で手を振った。

「いやいや、おおきにお世話さん。ご忠告はありがたいけど、そらできん相談ですわ。あれはわしの親父が遺してくれた大事なレシピやねん。傾きかけた店を立て直すためとはいえ、こないせこいことをしている男が何言うてるねんて笑われそうやけど」

 男は俺が手渡したレシピのメモをじっと見つめながら言った。

「あのレシピを守っていくことはわしの料理人としてのプライドの問題や」

「そうか」

 なら、俺が口出しするようなことではない。早々にその店を出た。お互い後ろ暗いことをしている身。長居は無用だ。

 十一月の夜気をはらんだ飲み屋街を歩き始める。これだけ大勢の人間が歩いていて俺を気にかける者は誰もいない。俺がこの街を気に入っている理由だ。

「ねえねえ、まだ早いじゃん。どっか遊びに行こうぜ」

 妙に甲高い男の声に俺は頭を巡らせた。あごに無精ひげを生やしたちゃらそうな男が娘をナンパしている。中年のサラリーマンであふれ返っているこの一角ではちょっと珍しい光景だな。

「あんた大学生でしょ。明日も講義があるんじゃないの」

 男の前に立っている娘は口調とは裏腹にからかうような目をしていた。まだ高校生だろう。肩にかかる黒髪を軽く振って小首を傾げる。人形めいた少し病的なくらいの白い肌が品の良い朱色の唇を際立たせていた。その清楚なたたずまいと口元に浮かべた人を喰ったような笑みがなんともアンバランスに映った。ナンパ慣れした娘なんだろう。俺は興味を失って彼らに背を向けた。

「んなもんサボりゃいいさ。人生長いんだぜ。一日くらいどうってことないって」

 好きにやってくれ─。

 パン!

 派手な音に俺は振り返った。男が頬を押さえている。娘は天使のような笑みを浮かべたままおもしろそうにそれを見ていた。

「この……」

 我に返った男が娘につかみかかった。

 やれやれ。厄介事はごめんだ。だが、ここは俺の好きな街だ。揉め事など起こってほしくない。

「おい」

 俺は男の肩を掴んだ。男は俺の腕を振り払いながらこっちを向いた。で、恐らくにらむかえるかしようとしたんだろう。が、俺を見た途端たじろいで固まった。不本意なことだが、俺を見た人間はまあ大抵こうなる。

「悪いな。俺のツレなんだ」

 低い声で俺がそう言うと男は口の中で何やら毒づきながら逃げるように去って行った。

「ありがと。って、言えば良いのかな」

 まるで珍獣でも見るような目で娘がじろじろとこっちを見てくる。身長一八二、体重九十のレスラー体型がそんなに珍しいか?

「じゃ、わたしちょっと急いでるから」

 拍子抜けするほどあっさりと娘はきびすを返して歩き出した。

 ─まあ良い。首を振って俺も歩き出す。今夜は懐が温かい。久しぶりに呑みに行くとするか。

「ちょっと、なんでついて来るのよ」

 声に目をやるとさっきの娘が前を歩いていた。お前もナンパか? という目をしている。

「いや、俺もこっちなんだが」

「あっそ。ねえ、おじさんこの街詳しい?」

 三十過ぎたばかりでおじさん呼ばわりはちょっと傷つく。

「ラビット・テールってお店知らない?」

「ショットバーだ。高校生が入って良い店じゃないぞ」

「あ、知ってるんだ。ねえ、もしかして常連? わたし、その店の常連でカトウキヨマサって人を探してるんだけど」

 娘は身を乗り出すようにして俺を見上げた。深いキャラメル色のひとみに吸い込まれそうになる。

「戦国武将みたいなたいそうな名前だな。そいつに何か用か?」

「おじさんには関係ないでしょ」

 その優等生めいた見てくれとぞんざいな口ききに大きなギャップを感じるんだが─。どういうしつけを受けて育ったんだ。

「いや、たまたまかもしらんが、俺の名前も加藤清正って言うんだ」

「うそっ」

 少女は頓狂な声を立ててのけぞり、それから脱力するように肩を落とした。

「ネットの情報とぜんっぜん違う。超イケメンって書いてあったのに。ハーフコート着たナマハゲのどこがイケメンだよ」

 えらい言われようだな。

「で、俺になんの用だ」

「仕事を頼みたかったんだけど……。デリケートな仕事ができそうな顔じゃないし……。どうしようかな」

「別に顔で仕事をしているわけじゃない」

 娘はそれでもしばらく迷っているようだったが、唇をきゅっと結んで顔を上げるとまっすぐに俺を見てきた。

「料理の再現をお願いしたいの」


 この仕事をする上で二つ決めていることがある。一つは客を選ばないことだ。金さえ払ってもらえば相手が高校生でも請ける。娘が差し出した封筒には規定の前金が入っていたので俺は彼女の話を聴くことにした。正直俺はちょっと驚いている。俺が再現する料理は精密なレプリカだ。だから相応の料金を戴く。興味本位で気軽に頼めるような額ではないし、ましてや高校生がポンと出せるようなものではない。言動はさておき、ノーブルな容貌といい、身なりといいこの娘、名の通った家のご令嬢か何かじゃないのか?

「どんな料理でも一口食べただけで正確に再現できるってホント?」

 彼女ご指定のケーキショップの椅子に腰を下ろすと彼女はそう聞いてきた。厳密には違うんだが俺は黙ってうなずいた。

「やってみせて。ネットで評判なんだけどここのはどの店のとも違ってすっごく美味しいんだって」

 彼女はパウンドケーキの皿を俺の前に押しやる。強引にこんな店を選んだから妙だと思ったんだ。デモンストレーションってことか。

「卵二個、バター一四〇グラム……」

 ケーキを口にすると脳裏にレシピと焼き上げていく光景が浮かび上がってくる。

「特徴的なのは甘味に上白糖やグラニュー糖を使っていないこと。粉砂糖と水飴だけだ。焼き上がったらセオリーに反するが型からすぐ抜いて、予熱で表面の水分を蒸発させる。だから外はカリッと中はしっとり仕上がる」

 カウンターの向こうで店主が露骨に嫌な顔をした。

「すっごい。その才能で料理の再現師を始めたんだ」

 店主の顔を見て娘は歓声を上げた。俺は顔をしかめたくなった。別に俺は鋭敏な味覚の持ち主じゃない。ただ、料理やそれを作った調理器具に触れるとその料理の記憶ともいうべき調理の工程が脳裏に浮かぶという妙な異能を持っているというだけだ。それから─確かに金をもらえば料理を再現することもあるが、俺の主な仕事は依頼を受けてライバル店の看板料理のレシピをかすめ盗ること。立証のしようもないから警察のご厄介になることはないがほめられた稼業じゃない。そう手放しで感心されると居心地が悪い。

「仕事の話をしようか」

 俺は話を戻した。娘も黙ってうなずく。

「あ、自己紹介がまだだったね。わたし矢口雪子。年は……来月十七歳になるんだ」

「高校生か?」

 と尋ねると雪子は『えへへへ』と妙な声を立ててあいまいに笑った。答えたくないらしい。仕事をする上での決めごとの二つ目は客の素性をせんさくしないことだ─。俺はそれ以上何も聞かなかった。

「で、再現してほしい料理というのは、わたしが子供の時にお店で食べたビーフシチュー。小さな洋食屋さんだったけどすっごく美味しかったの」

「その店はどこにある?」

「ん? とっくにつぶれちゃったよ」

「じゃあ、そこの料理人はどうしてる?」

「ええと……、とっくに亡くなっちゃった」

 どうも話が読めない。それでどうやって再現しろってんだ。

「やっぱり無理かな? こんな味だったってできるだけ説明するし、二日……、ううん三日までなら待てると思う」

 百年待たれても無理だ。俺がつき返した前金の封筒を見ても雪子は手を出さなかった。唇の端を噛みしめて懸命に涙が溢れるのをこらえている。一瞬、その歯を食いしばるような泣き顔があの時の梢の表情と重なった。

「ちぇっ、名前倒れも良いとこじゃん」

 唐突に子供じみた捨て台詞を吐くと、封筒をひったくって雪子は店を飛び出して行った。

そのまま放っておいても良かったんだろうが、俺の胸の中で古い疵がうずいた。急いで代金を払うと俺は雪子を追って店の外に出た。

「いやぁ、放してよ。」

 いきなり、俺の耳に雪子の甲高い悲鳴が飛び込んできた。見ると地味なスーツ姿の男達に取り囲まれている。中の一人に肩口を押さえられて雪子はもがいていた。誘拐か? いや、そのわりには男達は雪子を宥めすかそうとしているように見える。雪子を押さえている男が「お嬢様」と言った。

事情はよくわからないが、この男達に連れて行かれたら雪子の願いは終わってしまうのだろう。だが、まだ終わりにしたくないとそのきゃしゃな体が叫んでいるような気がした。

 ─たかが子供の頃に食べた料理になぜそこまで必死になる? 気が付くと俺の体は勝手に動いていた。体格を活かして男達の輪の中に割り入ると雪子の手をつかむ。男の一人を突き倒して俺は輪の外に飛び出した。

「来い」

 雪子の手を強引に引っ張って走り出す。勝手知ったる路地裏だ。連中を撒くのは造作もない。スポーツが苦手なのか、かなり苦しそうにあえぎながら雪子もなんとかついてきた。

「ありがとう……、って言えば良いのかな」

 のどをぜいぜい言わせながら雪子が声をしぼり出す。華奢な肩が激しく上下していた。

「礼などいらん。まだ用が残っていることに気付いただけだ。試しもせずに断ってすまなかった。やるだけ、やらせてくれないか」

 雪子の肩の動きが止まった。驚いたように目を見開いて俺を見上げてくる。

「そんな目で見るな」

 バツが悪くなって俺は目をそらせた。

「引き受けてくれるの? あんな無茶なお願いだったのに……」

「巧くいくかはわからんがな」

 目じりに涙をためて雪子は何度もうなずく。

「いずれにせよ今日はもう遅い。明日仕切り直させてくれ」

「あの……。わたし泊まるところがないんだけど……」

 言いだしそうな予感はしていた。

「ホテルを探せ。ホテル代くらいは料金から割り引いてやる」

 何か言いたそうに訴えかけてくる目。やがてしょんぼりとうつむいて、すぼめられた小さな肩。その仕草のいちいちがこずえと重なって俺は顔をしかめた。

「軽々しく男の部屋に泊まろうとするな」

 八つ当たり気味の捨て台詞を吐くと、明日の待ち合わせ場所だけ告げて俺は逃げるようにその場を離れた。


 翌朝、待ち合わせのファミレスに入ると雪子は先に来ていた。あえて夕べどうしたかは聞かない。

「そのモーニングセットは俺に寄越せ。お前はコーヒーだけだ」

「ええっ、どうして?」

「お前にはできるだけ腹を空かしておいてもらわないといけないんだ」

 俺はプランを話した。まずは雪子から味の聞き取りをする。必要なら実際に料理をオーダーして味や香りを確かめさせる。待ち合わせを喫茶店ではなくファミレスにしたのはそのためだ。その後、聞き取りの結果を元に似た味の料理を出す店を数店選び実際に試食させる。その上で記憶の中の味との違いを探りながら的を絞っていく─。なんとも頼りない方法だがやみくもに手探りするよりはマシだ。

「始めるぞ。まず、ブラウン系のスープは味のバランスが命だ。特に酸味、辛味、甘味が重要になる……」

 俺は代表的な食材や調味料のリストを見せながら雪子の記憶を吟味した。子供の頃の頼りない記憶だ。答える雪子の表情も織り込みながら彼女の受け答えを評価した。香り、食感、その店の土地柄と得意料理─。聞き取りは二時間以上に及んだが雪子は音を上げることなくついてきた。吟味した結果を読み返しながら俺は試食する店を選び始めた。


「もう……、しばらくビーフシチューは見たくない!」

 道端に座り込みながら雪子が言う。

「だから全部食うなと言っただろうが」

「だって……。一所懸命作ってくれた人に悪いし」

 俺の制止も聞かず雪子はどの店でも完食した。その結果、今は道にへたり込んでいる。

「これからどうするの?」

 その行儀の悪い格好のまま雪子が見上げてくる。

「さっき食べた料理とお前の記憶の中の味との違いを探ってレシピを組み立てる。明日の昼には準備ができるから聞き取りが終わればお前はホテルに戻れ」

「あの、……。夕べどこのホテルでも断られたの。保護者がいないとダメだって」

 家出か自殺志願とでも思われたらしい。

「しかたないから朝までファミレスにいた」

 早めに来てたんじゃなかったのか……。俺は自然に眉間にしわが寄るのを感じた。

「来い。泊めてやる」

 雪子は戸惑ったような顔をした。

「泊めてやるだけだ。別に変な意味じゃない。夕べのことは俺も悪かった。考えが足りなかった。だからこれは、その……びだ」

 そう言うと納得した顔になってついてくる。十以上も年下の娘をどうこうする気は俺にはないが少しは警戒しても良いんじゃないか? その世間ずれしていない素直さを俺は危ぶんだ。そして、そんな心配をしている自分に驚いた。出会った頃に比べて俺の雪子に対する印象はだいぶ変わってきていた。

 俺は予定を変更して俺のマンションで聞き取りをすることにした。まあ、その方が効率も良い。

「さっき行った店の中で一番味が似ていた店と、一番違うと思った店を挙げてくれ」

 店のレシピは雪子がシチューを食べている間に皿に触れて確認済みだ。雪子が挙げた店のレシピを比較して調味料を加減していく。必要に応じて実際に調味料を出して来て味や香りを雪子に確かめさせる。雪子はその料理人の年恰好や店の他の料理もよく覚えていたので彼が身に着けていたであろう知識や技術を加味していく。雪子の記憶は鮮明で思った以上に的が絞りこめて来た。かなり近い味が出せそうだ。俺はさっそく仕込みに入った。

「ねえ、キヨマサは恋人とかいないの?」

「いきなり呼び捨てか。だいたい……」

 ソフリットを炒める手を止めて振り返ると目の前に背伸びをしている雪子の顔があった。雪子は「きゃっ」と叫んで慌てて体を引く。

「い、いきなり振り返らないでよ」

 顔を真っ赤に火照ほてらせて雪子はそっぽを向く。このちょっとエキセントリックな娘の少女らしい素の顔を初めて見た気がした。


 仕込みの合間にまかないを作って二人で食べた。誰かとテーブルを囲むのは梢と別れて以来だ。懐かしい空気に身をゆだねながらこういうのも悪くないと俺はしみじみ思った。

 夕飯を済ませると俺は仕込みを再開した。ふと雪子が静かなのに気づいて振り返るとソファに体を丸めて眠っていた。夕べは眠れていないのだから無理もない。雪子をベッドに運んで俺はソファで眠った。

 ─料理は翌日の昼に出来上がった。

「期待してもらって良いと思う」

そう言って俺は雪子をテーブルにつかせて彼女の前に皿を置いた。

雪子がさじを口に運ぶ。口に含んだ瞬間、彼女は軽く目を見張り、それから小首を傾げた。確かめるように二口目、三口目と口に運ぶ。やがて匙の動きが速くなり皿に戻す手ももどかしげに匙はひたすら皿と口を往復する。またたく間に皿は空になった。

「美味しい。昨日食べたどの店のより美味しかったよ」

 匙を皿に置いて雪子はため息をつくようにそう言った。

「あのビーフシチューにもよく似てる。ここまで再現してもらえたら嬉しいよ」

 謝礼の封筒を取り出しながら雪子は言った。

「そっくりという所まではいかなかったか」

 なんとなく手を出しかねて俺は封筒を見下ろしながら言った。

「ううん。曖昧あいまいな記憶だけどそっくりって言っても良いレベル。ただ、ほんの少しわたしの心の隅っこでなんか違うって首を傾げる自分がいるみたいなそんな感じ。それは、わたしの気持ちの問題だからしかたないよ」

 俺は封筒をポケットに収めた。まあこの条件ではこれが限界だろう。

「帰るところはあるんだろう」

 雪子は三日なら待てると言っていた。言い換えれば三日を過ぎれば待てなくなる用件があるということだ。雪子は曖昧な表情のままうなずいた。

 駅への道が分からないというから送ってやることにした。駅の掲示板に貼られたポスターを見て雪子は歓声を上げながら駆け寄った。

「海かぁ。いいなあ……。ねえ、これから海を見に行かない? ね、行こうよ」

 俺の返事も聞かずに雪子は券売機に硬貨を入れ始める。まるで娘におでかけをねだられている父親みたいだ─。俺は苦笑しながら頷いた。どうやら少し情が移ったらしい。

「ねぇ、あれだけ腕が良いのにどうして料理人にならなかったの?」

 海に向かう電車の中で雪子が聞いてきた。

「絶対繁盛するよ。もったいない」

「まあ─、いろいろあったんだ」

 俺は言葉を濁した。それにはあまり触れられたくない。


 海に着くと雪子は黙って砂浜を歩き、波打ち際で立ち止まって水平線を見つめていた。

「海に来るのは十年前に父さんに連れて来てもらって以来」

 磯の香を満喫するように雪子は大きく息を吸った。

「あの時は雪が降っていてね。綺麗だった。今日も雪が降ってたら良かったのに」

「この街ではまだ無理だな。来月になったら初雪が降るだろう。良かったらまた連れて来てやるぞ」

 お互いできそうもない約束を俺は口にした。雪子は黙ったまま口の端だけで笑った。

「ありがとね。わがままに付き合ってくれて」

 雪子は何か言いよどむように言葉を切った。が、すぐに思い切りをつけるように振り返って俺を真っ直ぐ見上げて来た。

「わたしの父さんね、洋食屋をやっていたの。父さんの料理はどれも美味しかったけど、ビーフシチューは別格だった」

 雪子は砂浜をまた歩き出しながら父親の思い出話を聞かせてくれた。夜明け前、トイレに立つと、真っ暗な家の中で厨房の明かりだけがぽつんとついていて驚いたこと。そっと覗くと仕込みに余念のない寡黙な背中があって胸をなでおろしながらなぜか泣きたいような切ない気分になったこと。夜、店を閉めて火を落とした厨房で鍋やフライパンを一つ一つ丁寧に洗う後ろ姿が大好きだったこと。お客とおしゃべりするのが大好きでいつも笑っていたこと。一人一人の客の嗜好や性格をよく覚えていて、出す相手によって必ず料理にひと手間かけていたこと─どうやら雪子の親父さんは理想的な料理人だったらしい。

「店は繁盛していたからなかなか遊びには連れて行ってもらえなかったけど、それでもわたしは父さんの働いている背中が好きだった。わたしも大きくなったら父さんと一緒に厨房に立ってお店を手伝いたいと思ってた」

 雪子は俺に背を向けて遠い海岸線を見つめていた。

「……十年前に店が火事になって父さん、亡くなったの。わたしは叔父さんに引き取ってもらって大事に育ててもらったから口が裂けても言えなかったけどずっと父さんが恋しかった。あのシチューをもう一度食べたかった。ネットでキヨマサの噂を見つけて、この人なら父さんの料理を再現してくれるかもって思った。で、あとさき考えずに飛び出して来ちゃった」

 雪子はまた俺に背を向けて砂浜を歩き出す。

「お店が火事で燃えちゃったから父さんの形見はこれだけ」

 雪子はポケットを探った。振り返った彼女の手の平に乗っている物を見て俺は目をいた。古ぼけた計量スプーンだ。

「叔父さんにも内緒だけどいつも持ち歩いているの」

「こんな物を持っているならなぜ早く言わなかった」

 俺の剣幕に雪子はきょとんとしている。あ、いかん。俺の異能のことを知らない雪子には俺が何を興奮しているかわかるはずがない。

「俺が料理を再現できるのは天性の味覚のおかげなんかじゃないんだ─」

 俺は異能のことを打ち明けて計量スプーンを借りた。それを握ると脳裏にビーフシチューの記憶が立ち上がって来る。

 ……、俺は雪子の違和感の正体を知った。こいつはちょっと思い付けない隠し味だ。これで原理的には正確に料理を再現できる。だが、一つ問題があった。

「料理を再現するまで、あと三日待ってくれないか」

 俺は雪子に持ちかけた。デミグラスソースが俺の手持ちとは大きく違う。精密に再現するためにはデミグラスソースを一から作らなければならない。材料をそろえるところから始めれば最低二日はかかる作業だ。俺はそう説明した。

「あの……。ええと」

 雪子は逡巡しているようだった。が、結局力なく首を振った。

「やっぱり、明日には戻らないといけないから、残念だけど諦めるよ。さっきのシチューも十分美味しかったし……」

 目尻に涙を浮かべながら唇を噛んでそう言われても説得力がない。……、まただ。なにかを諦めようとするその表情が梢と重なって俺の胸をざわつかせた。何か─何か手はないか? 俺は頭の中で調理の工程を組み立てては崩し、崩してはまた組み立てた。が、調理時間を短縮する手立ては何も思いつけなかった。

「すまん」

 衝動的にそんな言葉が口をついて出た。

 誰に何を謝っているのだろう? 俺自身わからない。俺は雪子にスプーンを返した。


 再び乗り込んだ電車の中、気まずい沈黙を俺は持て余していた。何度も雪子は口を開きかけたが、結局何も言わずじまいだ。

「次で降りなきゃ」

 列車のアナウンスに雪子は立ち上がった。

「本当にお世話になりました」

 雪子は深く体を折ってそう言った。

やめてくれ、世話などできていない。俺はお前の期待に応えられなかった。だから礼など言わないでくれ。俺はそう叫び出したい衝動にかられた。

「仕方がないよ。キヨマサが気に病むことじゃないって」

 俺の気持ちを察したのか取り成すように雪子がそう言った。十以上も下の娘に慰められてりゃ世話はないな。俺は自嘲気味に笑った。

「父さんのレシピは今では時代遅れなんでしょ? それはキヨマサのせいじゃないよ」

 尻すぼみに雪子の声が小さくなった。心なしかその肩が声に合わせてしょんぼりとすぼまったように見えた……。

「ちょっと待て。今なんと言った?」

「何度も言わせないでよ。父さんのレシピは時代遅れだって……」

 その言葉が天啓のように頭を駆け巡った。

「あのスプーンをもう一度貸してくれ」

 俺はスプーンを受け取るともう一度強く握った。このソース、ごく最近どこかで味わった記憶がある。俺は必死で記憶をまさぐった。

ようやく記憶を探り当てた時、気づくと俺は雪子の手を引っ張って次の駅で列車を飛び降りていた。

あの関西弁の親父の店だ。雪子の親父さんのデミグラスはあの親父の店のレシピに酷似していた。俺は急いで親父の店に電話をかけた。

 ─あれから客が戻ってきたとかで親父はすこぶる機嫌が良かった。ツイている。これなら相談を持ち掛け易い。

「一つ頼みがあるんだ。お宅のデミグラスソースを分けてくれないか?」

 電話の向こうで間があった。

「あないな時代遅れのソースをどないしますの?」

 言葉は嫌味だが拒絶されている風でもない。

「あれを必要としている料理があるんだ」

 親父の返事を聞いて俺は電話を切った。そして、雪子に部屋の鍵を渡しながら言った。

「先に部屋に戻っていてくれ。ソースのアテが付いた。予定通り明日、ビーフシチューを再現する」


 三日目─俺が仕上げにかかるのを雪子は物珍しそうにのぞき込んでくる。

「どうして料理人にならなかったかって聞いたよな」

 火の加減を心持ち弱めながら俺は言った。

「なるつもりだった。勉強をして、名の知れたレストランで働き出した。その店で俺は梢って子と出会った─」

 梢の作る料理は優しさに溢れていて人の心を温かくしてくれた。俺は最初彼女の料理に惹かれたように思う。お互い相手の料理の魅力に夢中になって気が付くと愛し合っていた。

 が、その頃不穏なうわさが店に流れた。

 ─加藤は他人のレシピを盗む。

 同僚達のレシピは全て分かってしまう。気を付けてはいたが、無意識のうちに俺の料理は彼らの知識や技術の影響を受けていた。

 食材や調味料の配合が同じというだけならありそうな偶然ですまされるかもしれない。が、火加減、タイミング、ちょっとしたコツに至るまで俺の料理はあまりにも彼らの料理に酷似していた。恐らく同僚達はレシピを盗まれて腹を立てたというより、得体の知れない俺の技能に対して、畏怖を感じたのだと思う。

「気にすることないって、言いたい人には言わせておけば良いよ」

 徐々に職場で孤立する中、梢だけが俺をかばってくれていた。が、不幸な偶然が二つ立て続けに起きた。一つは梢が母から受け継いだ料理の手控えを紛失したこと。もう一つは、俺が不用意に彼女のレシピを真似てしまったこと。皮肉にも彼女へのプロポーズのことを考えていて意識が散漫になっていたのだ。その技法は想像力や味覚で編み出せるものではない。それこそ、その手控えを盗み見ない限り思いつくのは不可能な類のものだった。

「違うよね。……、そうじゃないよね」

 最後まで梢は俺を信じようとしてくれた。が、何も答えない俺を見てやがてしょんぼりと肩を落として泣き出した。

 ─ほどなくして、俺は店を辞めた。


「ばっかじゃないの」

 雪子の言葉は容赦がなかった。

「なんで本当のこと打ち明けなかったのよ」

「異能で盗み見したのは本当だからな。言い訳したくなかった」

 雪子が憐れむような目を向けてくる。

「何も答えてもらえなくて梢さんがどれだけ傷ついたと思ってるの。言い訳は男らしくないなんてつまんないプライド捨てっちまえ。梢さんを傷つけてまで守るようなもんじゃないでしょ。今からでも梢さんに謝って来い」

 俺は自嘲気味に笑った。

「噂で─結婚したと聞いた。いずれにせよもう終わった話だ」

 店を辞めた俺はオリジナルのレシピに固執する料理人稼業にほとほと嫌気が差した。

 レシピ、レシピ、レシピ─そんなに料理を真似られるのが嫌か? 料理は本来、人の空腹を満たし、気持ちを癒すものだ。客にとって誰がその料理を作ったかなどどうでもいい話じゃないか。その料理が旨いならそれを作れる料理人は世界中に大勢いた方が良いじゃないか。料理人がレシピに固執するのは所詮、金づるを逃したくないためとつまらんプライドを守るために過ぎない。そんな卑しくて狭量な思惑のせいで俺は梢を喪った。

 だったら、そんな思惑は俺が壊してやる─。そう考えて俺はレシピをかすめ取っては売りさばく商売を始めた。

『そんなの八つ当たりも良いとこじゃん。キヨマサからレシピを盗られた人はキヨマサに何も悪いことしてないでしょ』

もし、雪子に打ち明けたら、また容赦なく叱られそうだ。そして、雪子の説教は俺には酷く応えるだろう。それは誰よりも俺が身に染みて分かっていることだから。とうの昔に気付いてしまっていることだから。

 ─だから結局俺はもう何も言わなかった。

 俺は無言でレードルを鍋に差し込んで皿にシチューをよそった。

「さあ食べてみてくれ」

 俺は雪子の前に皿を置いた。だが雪子はなかなか匙を取らず湯気の香りをかいでいた。

「父さんのビーフシチューの匂いだ」

 雪子の親父さんは仕上げに八丁味噌を使っていた。洋食の隠し味に醤油や味噌を使うのは珍しくない。が、これも想像力や味覚で探り当てられる類のものではない。

 ようやく雪子は匙ですくって口に含んだ。途端、雪子の肩がぴくんと震えた。低い嗚咽おえつをもらしながら二口、三口、雪子が匙を運ぶ。その度にしゃくりあげる嗚咽が大きくなり、いきなり雪子は俺にしがみついて泣き出した。それきり、雪子はテーブルに戻ろうとせず、いつまでもいつまでも泣き続けていた。

 やがて─三日間の疲れが出たのか雪子は子供のように泣き疲れて眠ってしまった。

 翌朝、ソファーから起きだすと雪子はいなくなっていた。置き手紙一枚遺されてもいなかった。

 ─まあ、あいつらしいか。

 滞っていた雑用をこなし終える頃には日が落ちていた。呑みにでも行くかと支度をしているとインターホンが鳴った。

 ─雪子か?

が、扉の向こうに立っていたのは仕立ての良いスーツを着た中年の男だった。

「加藤清正さんですね」

 男は俺をまっすぐに見つめてそう言った。


 俺はなんでこんな所にいるのだろう。白い壁に囲まれたほの暗い部屋で俺は見知らぬ男と並んで立っていた。俺を迎えに来たその男は聞いたこともない名の病気の話をしている。男に渡された名刺には誰もが知る大企業の社長の肩書が書かれていた。男は─雪子の義父だと名乗った。

「……、死期が近付くとふっと今までの熱も、痛みも嘘のように引いてまるで病気が全快したかのようになるのだそうです。逆に言えばそうなってしまったらもう長くはないとも言える。その小康状態は長くて三日。直後に容体が急変して死に至る」

 男は疲れているのか眼鏡を外して鼻の上を強くもんだ。

「隠していたのですが、雪子はどこかで知ってしまったらしい。今ではネットで何でも検索できてしまいますからね。病院を抜け出したと報せを受けてすぐ探させました。あなたが行き合ったのは私の部下です。すぐに連れ戻すよう指示していたのですがあなたに撒かれてしまった。再び探し当てた時、雪子はあなたに何かを依頼したようだと報告を受けた。それで私は考えを変えました。それがあの子の最期の望みならかなえてやりたいと思った」

 男は俺に雪子は何を依頼したのか尋ねてきた。少しためらったがありのままを話した。

「お嬢さんはあなたに最後まで気を遣っていたようだ。大事に育ててもらったから口が裂けても言えない望みだと言っていた」

 俺達の前には白い無機質なベッドがある。その上に雪子は横たわっていた。眠っているような死に顔を見ていてもまるで現実感が湧いてこない。俺をからかうように口元が笑んでいるようにすら見えた。

『人生長いんだぜ。一日くらいどうってことないって』

 あの大学生の言葉が雪子の心にどれだけ痛く突き刺さったか今はよくわかる。急に海に行こうと言いだしたことも、あのビーフシチューの再現にあそこまでこだわり、望みのない条件だと知りながら一縷いちるの望みを託して俺にすがって来た理由も痛いほどよくわかる。

 ─自分にはもう明日がないと知っていたからだ。

「雪子のポケットにこれが入っていました。あなた宛です」

 俺は白い封筒を受け取った。開けてみると白い便箋と古ぼけた計量スプーンが出てきた。

「あなたには最後まで何も知られない方が良い、だから書置きも残さずに出てきたと雪子は自分に言い聞かせるように話していました。だが、間際になってたまらなくなったらしい。この手紙を見付けて……、私はあなたをここにお連れすることにしたのです」

 ─封筒にも便箋にも雪の結晶のイラストがあしらわれていた。俺は便箋を開いた。震える筆跡の読みづらい文字が並んでいた。

『これを読んでいるということは、もう全部知ってしまったんだよね。ごめんなさい。黙っていて本当にごめんなさい。でもわたしが人生最後に出逢ったのがキヨマサで良かった。これだけは自信を持って言えます。

 自分の病気を知ってから、わたしにとって時間は時計の文字盤の上を過去から未来に進む針のようなものではなくて、最後の一粒が落ちれば止まってしまう砂時計のようなものだと感じるようになりました。いつその時が来るのかわからなくて、怖くて、怯えて、すくんで、何もせずに病院の窓から外をぼんやりとながめて過ごしていました。でも、キヨマサと過ごした三日間は目が回るような慌ただしさだったけど、まだ生きているって、まだ死んでないって実感できました。最後の砂粒がいつ落ちたって構うもんかと心の底から思えました。最後の数粒がどれも輝いていたのはキヨマサのおかげだよ。本当にありがとうございました。』

 ばかやろう。なに悟り切ったような手紙書いてやがるんだ。便箋のあちこちにできた染みを見ていると手の震えが止まらなかった。

『最後に一つだけお願いしても良いかな。いつか料理人になってお店を開いて下さい。陰口言うやつには言わせとけ。キヨマサの料理は美味しいだけじゃない。思い遣りにあふれていて食べる人を幸せな気持ちにしてくれる料理です。人生の最後にこの上なく幸せな気分にしてもらったわたしが言うんだから間違いありません。

で、最後のお願いなんだけど……。

 父さんの料理をキヨマサのお店のメニューに入れてくれませんか。

 わたしの夢はいつか料理人になって父さんの店を再開することでした。でもそれはもうかなわないから』

 その行に特大の染みがぽつんと落ちていた。

『ポテトサラダ、オムライス、ハンバーグ、コロッケ、グラタン。どれもあったかい料理。食べた人が笑顔になるのを小さなわたしはいつも誇らしい気持ちで見ていました。いつかあの料理達がまたたくさんの人を幸せにしてくれたらと願いつつ、父さんのスプーンをキヨマサに託します。気が向いたらで構わないのでわたしの夢を引き取って下さい』

 俺は手の中で強くスプーンを握った。

 ─本当にあったかい料理じゃねぇか。脳裏に浮かぶイメージを味わいながら俺は気が付くと声を上げて泣いていた。

『お世話になりました。長生きしてね

                                   雪子』

 しわになるのもいとわずに俺は便箋を握りしめてひとしきり泣いた。


 病院を出ると白い雪が舞い降りてきた。

 一日遅すぎた初雪を肩に受けながら、俺はやりきれなくなって太い溜息を吐いた。

『ばっかじゃないの。お天気に文句言ってどうすんのよ』

 けらけらと笑う雪子の声が聞こえたような気がした。

 ─そろそろこの稼業も潮時だな。その笑い声を想ううちに、俺はそんなことを考え始めていた。

 しかし、こんな重たい料理の再現を依頼されたのは初めてだ。掌の中のスプーンをポケットにしまいながら俺は考えた。だが、悪い気分じゃない。俺は今、このスプーンと一緒に雪子の想いをポケットに収めたような気がしていた。

                                    fin.

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雪のあしあと @choal0422

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