電車の中は涼しい。
84
薬用シャンプー
ガタンゴトン、ガタン、ゴトン。
不規則な音が私たちを揺らしている。
移りゆく景色を眺めているともうすぐ到着する、というアナウンスが鳴った。
「ねぇ、次降りるよ」
隣で寝ていた友人に声をかける。分かってはいたが起きる気配はない。またか、と呆れつつ肩を揺する。
すると彼女は大きなあくびをひとつ付いて、「もう次なの?」と眠たげな声を出した。
「あーあ、冷房のついたこの快適空間で一生を過ごしたい。学校行きたくない」
さっきよりはゆっくりと移りゆく景色を、私と眺めながら彼女はそう続けた。
「学校行ったら冷房ついてるし、今日は外風吹いてるから」
「行くまでが苦なんだってばぁ」
はいはい、と適当な相槌を打つ。
「ほら、降りるよ」
炭酸のガスの圧力で変形してしまわぬように設計されているロケットのような空のペットボトルを、ぶんぶんと振り回す彼女と共に電車を降りた。
「やっぱ暑いねぇ」
思わず声が漏れた。「ほら、言ったじゃん」なんていう言葉を投げつけられたので私は苦笑いをすることにした。
「ねーえ、ジュース奢ってよ」
「なんでよ。もう飲みきったの?」
「飲みきってなかったら振り回したりなんかしてないって。ねぇ私もなんか奢るからぁ」
「私に奢るくらいなら自分で買いなよ」
「今日お金持ってない」
「……早く学校行くよ」
最初から奢らせるつもりだったのかよ。拗ねる彼女を横目に、ゆっくりと通学路を歩く。
ビュンと大きな風がひと吹き。
髪がなびき、大好きな香りがする。
「あれ、シャンプー変えた?」
辺りが静まったころ、ボサボサになった髪の毛を手ぐしで直しながらそう聞く友人。
ああ、うん、変えた。なんていう私の声はいつもより小さくなっていたに違いない。
「どこのやつ?嗅いだことない匂い」
「安かったから買った薬用のシャンプーだよ。どこのかは忘れた」
「ふーん。なんか、らしいね」
思ってもいなかった言葉の返しに少し動揺してしまう。
「らしいって……私らしいってこと?」
そう聞き返すと「そうそう。匂いもだけど、甘い匂い選ばないところとかも」といって私の一歩先を歩いていく。
私らしい、か。
女子に人気なシャンプーとかではなく、ただ安かったからなんて言って買った薬用のシャンプー。
ぎゅっと髪を握り、顔に近づけてみる。
ああ、彼と同じ香りがする。
大好きな彼氏を抱きしめている時と同じ、あの香り。
本当はこのシャンプーが彼が使っているものと同じものなことを知っていた。
知っていて同じものにしたなんてやっぱり恥ずかしいから、自分にも誰にでも安かったから買ったと嘘をついた。
どんな香水よりも好きな香り。
この香りは会えなくても寂しくないようにと私を支えてくれた。
だけどある時は、遠く離れた場所にいる彼を思い出させることもある。
シャンプーなんかで気持ちが変わるだなんて馬鹿みたいだなぁ。でもきっと、それも私は好きで楽しんでいるんだと思う。
会いたい、なんていうありきたりな言葉は夏の晴天に吸い込まれてしまって……
「どうしたの、急に黙っちゃって」
聞きなれた声に意識を戻すと、俯く私を心配そうな顔で覗き込んでいる彼女がいた。
「あ、ううん。なんでもない」
「へぇ?」
私の返答に、不思議そうな声を発して通学路を歩いていく。
「……私らしいかぁ」
思い出したかのように小さく上に言葉を投げてみる。
彼らしい、彼のもの、なんて思っていた薬用のシャンプーの香り。
それが私らしい、だなんて。
彼に近づいたように感じて少しだけ嬉しくなった。
「ねーえ、体調悪い?」
もう手が届かないほど前にいる彼女が大きな声でこちらを呼ぶ。
「……ジュース奢ってあげる」
大きく息を吸い込み、負けないくらい大きな声でそう言った私をこれはまた不思議そうな顔で見つめてくる。
「でも、自販機まで競走して勝ったらね」
よーいドンの合図もなく、私は走り出す。友人の影なんてあっという間に抜いていって、その影は「あ、ずるいよ」なんて言って私を追いかけてくる。
風が吹く、いいや、走っている私が風なのかもしれない。一緒に流れる大好きな香りは今もその風を包んでいる。
やっぱりシャンプー一つで、言葉一つで、気持ちが変わってしまうなんて馬鹿だと思う。
でもそれが心地良い。彼のことを考える時間がとても幸せなものに感じるのだ。
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