日陰のネイビーブルー

@yama1000

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暗闇に連続した電子音が鳴った。

音は徐々に大きくなっていき、人の大声に近しい音量となっていく。

それは5秒くらい続き、途端に鳴り止んだ。

オレンジ色の微光が暗闇に馴染む。

長方形のディスプレイにはAM5:00の文字が浮かんでいた。

渡瀬昇は長いため息を吐くと、まだ暖かさが強く残る布団から這い出て、部屋の電気を付けた。

立ち上がった途端、ふいに寒気を感じる。

3Kとはいっても断熱性の乏しい古官舎であることをしみじみと思った。

遮光カーテンを開けると、激しい軋み音のする台所を抜け、風呂場へ向かう。

シャワーを浴びつつ、一昨日の警察署での挨拶回りを思い出していた。


挨拶回りの目的は署長を含めた関係者への挨拶とロッカーへの荷物移動だった。

特に、警察署における研修の面倒を見てくれる指導担当と呼ばれる人間への挨拶は欠かせないものである。

しかし、訪問当時、自分の指導担当は休みで挨拶することができなかった。

警察学校にいたとき、自分の指導担当の噂を聞いた。

卒業間近、配置警察署が発表され、自分の配置が県内随一の検挙数である淀美警察署であることを聞いたときは、不安や心配よりも、同期に比べ多くの経験ができる喜びを感じていた。

その上、同期の間では多忙な警察署に配置される巡査はある程度の実力があるという噂話で持ちきりだったことから、学校生活の節目としては最高の瞬間だった。

だが、その喜びとは裏腹に卒業式前日の夜、渡瀬は担任教官である岡田に教官室に呼び出された。

「渡瀬。親父さんは元気か。」

「はい。まだ現場を離れるつもりはないと言っておりました。」

渡瀬の父昭雄はまだ現役で、県本部捜査二課で係長をしている。

岡田とは所轄の刑事課で一緒で、岡田を指導する立場にあったらしいが、家族に仕事のことを一切話さないため、詳しい事情は知らなかった。

「だいぶ世話になったからなあ、渡瀬係長には。」

「父にも私から言っておきますね。」

「いやいや、いいんだ。こちらとしては恩を返すことができた。補習科にも必ず帰ってこいよ。」

警察学校は入校区分が大卒と高卒で分かれており、大卒であった渡瀬は6ヶ月間の初任科短期過程を終えた後に県内各警察署において3ヶ月間の現場研修を行う。

その後、初任補習科としてまた2ヶ月間入校し、卒業後はまた、警察署における4ヶ月間の実践実習が待っている。

大卒は計15ヶ月の教育過程を終えることでようやく一人前として扱われることになっていた。

「分かってます。必ず帰ってきて、岡田教官の指導を受けるつもりです。」

「まぁ、指導ばかりじゃ困るんだけどな。」

岡田はそう笑うと、たまには嬉しいニュースも聞かせてくれよと言いつつ、マグカップのコーヒーをすすった。

「ところで、お前。自分の指導担当は知ってるか。」

「分かりません。どういった方なのでしょうか。」

「深川の槌屋巡査部長だ。分かるか?」

淀美警察署に知り合いのいる同期から名前だけは聞いていた。

お前の担当もしかして槌屋部長になるかも知れないぞ、同期はそう言うと知り合いがいかに槌屋部長に虐められたのかを嬉々として語った。

深川交番は本当にきついから3ヶ月踏ん張れよと他人事のように言っていたのをよく覚えている。

「名前だけは存じ上げております。」

「ああ、じゃあどういった人なのかも分かるか?」

「厳しい方であるとは聞いてます。」

渡瀬がそう言うと、岡田は眉をひそめ、小さくため息をついた。

6ヶ月の厳しい学校生活の中で、担任教官の心配顔を初めてみた瞬間でもあった。

「はっきり言うと新人にはきつい方だ。まあ、現場は厳しくて当然だ、だけどなあ。」

語尾を伸ばした言い方に、渡瀬はいっそうの不安を覚え始めていた。

「とにかく何があっても腐るな。何があっても。ただお前は間違いなく同期の中で一番苦労する。それを経験とも言うが。」

そう言うとこれ以上は言えんといわんばかりにノートパソコンを開き始めた。

仕方なく渡瀬は頑張りますと言った後に教官室の出口へと向かった。

出る直前、岡田の腐るなよという一言がもう一度聞こえた。


6時半過ぎに家を出た。

数台しか停められていない駐輪場で真新しいピンクナンバーのスクーターはやけに目立っている。

座席に跨りながら、両足の間にビジネスバッグを挟み込むと、スロットルを回して官舎前の道路へ出た。

官舎は市内の端部にあり、県内山間部への入り口付近に建てられている。

近くに商業店舗はなく、買い物にもいちいちスクーターで行かねばならない。

唯一ある施設は刑務所ぐらいで、立地条件の悪さから官舎に人がいない理由が良く分かった。

15分程走り、淀美市街地に入った。

淀美市は某県県庁所在地に位置し、太平洋に面した県内随一の観光地である。

市街地は淀美駅前を中心として広がり、某県では駅前への商業施設誘致を進めている。

最近では古くからある繁華街に加え、市内に大型の商業施設も建設され、既存建造物の建て替えも頻繁に行われている。

その点、県内の中でも最も人の動いている地域であり、駅前に位置する淀美警察署は他の警察署に比べ、圧倒的な差をつけた検挙率を誇っている。

新気鋭の建築デザイナーが考えた真新しい丸い駅舎の前に、昭和の古いコンクリ壁の角ばった建物が対照的に映る。

風雨に晒されひび割れのひどいコンクリ壁の陰湿さを、その頂上に掲げられた真新しい日章旗が県内警察の砦としての重厚感にすり替えているように思えた。


駅前のコンビニに一旦スクーターを停め、エナジードリンクを購入する。

膨らんだリュックサックを座席に置きながら、改めて自分の指導担当のことが気になった。

昔から自分は緊張しやすいタチだ。

だが、警察学校で訓練をしてきてそれは克服したはずだった。

警察学校で辞めていく同期を見て、自分はそうならないと固く誓った。

そして卒業し、今日から一線に出る。

大丈夫。親父もやれたんだから。耐えられる。

エナジードリンクが体内に染み込んでいく気がした。

しかし、気がかりは消せず、緊張で眠れなかった責任が少しばかり軽くなっただけだった。


警察署近くの駐輪場にスクーターを停めると署内のロッカーに向かった。

ロッカー室には誰もおらず自分一人だった。

高窓から朝日が差し込み、隅々に道具が置かれてある様は、高校の部室を思い出させた。

細長いロッカーを開けると、クリーニング屋のビニールに包まれた制服が並ぶ。

そのうちの一つを扉に掛け、制服に階級章をつけようと思ったその時、ふと手から滑り落ちてしまった。

階級章とともに装着用の小さい白ボタンが二つ床に転がる。

幸い、ボタンは円を描いて近くに停止した。

パチンコ玉くらいの大きさしかないこのボタンでも、仮に紛失すれば報告しなければならない。

「おい!何をやっとんじゃおらあ!」

警察学校入校当初このボタンを紛失した人間がおり、教官は連帯責任として渡瀬たちを激しく怒鳴り散らした。

普通の組織なら責任は本人にしか問われない。

しかし、警察学校では連帯責任として、どんな失態でも同期全員が責任を問われた。

その事態は夜9時ごろに報告され、そこから消灯前の10時半まで探し尽くした。

いかに本気で探すかが求められ、自分の責任だと思わないだらだらとした態度の人間は容赦なく怒鳴り散らされる。

見つかるまで寝るんじゃねえぞとカタギの人間ではない表情で立つ教官を見て、無くした本人はこの世の終わりを迎えたかのような表情をしていた。

日中の訓練で疲れ果てた同期を動かしている責任を感じ、目に涙を浮かべ、ごめんほんとうにごめんと震えた声で呟き、草むらを搔きわける。

大学時代スポーツマンだった彼の大きな体も、背が曲がり、一回り小さくなったように感じた。

警察学校に入校しその生活に慣れるまでは指導として、毎日のように怒鳴り散らされる。

いかに体育会系に慣れた人間でも、その生活の変わりようには精神が疲弊していくのを感じずにはいられなくなった。

結局10時半となり、全員の前で見つからなかったことを報告した。

あいかわらずの表情を見せた教官が予備を渡し、重いボディブローのような声で二度となくすなと本人に忠告した。

「今までの中でも最低の期だ。前代未聞だよ。」

こういった出来事が続いた渡瀬たちはその烙印を押された。

しかし、次第に紛失した場合は、秘密裏に同期間で伝達し、報告する前にこっそりと捜索し、ことなきを得る秘密の伝達網のようなものが発達した。

落し物を発見すれば、自動的に誰かに確保され、秘密裏に誰のものかを探る癖がついたのだった。

今思えば教官の思うツボだったのかもしれない。

意識せず互いに助け合うということは警察官として不可欠な要素であり、それを教えるためにわざと厳しくしていたのだろうか。

卒業間近になってもその答えは出なかったが、その頃には教官と冗談を言い合えるような上下関係となっており、良き上司としての表情がその答えなのかも知れないと感じた。


階級章のボタンを拾い上げ、しっかりと装着する。

気づかず紛失しているものがないかふと気になり、確認したくなったが昨日さんざんやったことをもう一度やるのもどうかと思い、ロッカーの扉を閉めた。

7時になったら下に降りて作業をしようと思い、スマートフォンを見た。

時刻は7時だったが、別に出勤時間が指定されているわけではないと思い、7時半前でもいいかなとロッカーの前に座り込んだ。

適当なニュースサイトを見て暇を潰していると入口の扉を開く音がした。

上下に蛍光色の防寒スーツを見にまとい、大柄ではあるが人懐っこい表情をした丸坊主の男が入ってきた。

挨拶しようと思い片膝立ちの姿勢になったが、すぐに同期の木原であることに気づき座り直した。




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