発散

「何のためにリュックは持ち去られたのでしょうか」

 仮説が成立しなければ、振り出しの疑問から再スタートだ。具体的な案を出して検証を重ねる行程は、否定の材料が尽きるまで続くこととなる。積み上げては崩し積み上げては崩しを延々と繰り返す、賽の河原もかくやの作業、想像するだけで辟易してしまいそうになるが、郁子香は涼しい顔だった。


「ここで思い出されるのは、玄関での一幕です。家主の対応は、先輩の身元を探るようなものでした。しかし、家に招き入れてからはそんな素振りもなくなります。突然の来訪を訝しがっていただけなのでしょうか。雨宿りだとわかって不審感はなくなった、もう気に掛ける必要もなくなった、と。だとしても、名前さえ問わないのは不自然でありませんか。それなりに会話もしていながら、結局、お互いに名前さえ知らないままではないですか」

 俺の認識としては家主は家主なのでそれで足りていたが、郁子香の指摘は全くもってその通りではある。雨を凌ぐために家にあげること自体は、成り行きとしてはそれほど妙なものでもない。ただ、歯車が上手くかみ合っていないかのような微妙なズレが細部にある。身元を明かす情報の筆頭の名前を飛ばして、どこからどうやって来たのかを気にする。そして、以後自己紹介もないまま事態が進行する。確かにこれはおかしかった。


「名前を問われなかったのは他にその情報を得る手段があったっためではないでしょうか。訪問時には身元に注意が払われていた、だというのに、初対面の相手に名前を訊ねる至極当たり前の行為がなされていない。その矛盾は、本人に質さずとも明らかにする算段が立ったと仮定すれば解消できます。家に招き入れたことで個人情報を得る術ができ、そういえば名前は何でしたっけ? という当然の疑問が意識から抜け落ちてしまった。では、その手段とは。そうです身分証です。リュックを背負って外出していた以上、財布を持ち歩いていないということはまずないでしょう。そして、財布があれば身分証が入っている可能性は高い。学生証や保険証を盗み見れば住所氏名を把握できます。あるいは先輩が高校生であると認識していなくて、免許証があると踏んでいたかもしれません。病院の診察券、キャッシュカード、美容院などの予約カード、会員カード、そういった類いのカードに名前が印字されているケースも多く、それらのどれかひとつでもあれば個人情報を得るには十分です。なぜ先輩の素性をという疑問はもっともですが、こちらは後回しにして先へと進みます。先輩が寝てくれたのは荷物を漁るまたとないチャンスです。けれど、リュックをわざわざ部屋から出す必要がどこにあるというのです。身分証を確認する程度であれば、その場で数分とかからずに済ませられるではありませんか。物音で先輩を起こしてしまうかもしれない? いいでしょう。寝ている人間のそばで音を立てるのを避けるためリュックごと携行したと。ならば、確認作業を終えた家主が次にすべき行動はどうです。言うまでもなく、目的を果たしたのならばリュックを返しにいかなくてはなりません。隠れて持ち出したのに、一階に放置しては意味がありませんからね。ところが、先輩はリビングでリュックを発見しました」


 またぞろ先ほどの洗濯の説と同様にソファーの上のリュックに辿りつく。いくらでも時間がありながら、部屋には戻されなかったリュック。疑問点はこれに尽きる。

「部屋からリュックを動かした理由は何か、ではないのです。本当に考慮すべき謎は、なぜ一階に置かれたままだったのなのです」


 それから「ちょっと待ってください」と短く言って郁子香は言葉を切った。息を整えるような小休止のあと、おもむろに椅子から立ち上がり「飲み物取って来ます」と。コーヒーでいいですかと訊ねられたので頷いておく。

 ドアを開けたまま出て行った郁子香が、しばらくして帰って来た。湯気を立てたマグカップを両手に握っていたので俺がドアを閉め、その間に二つのカップはサイドチェストの天板に載せられる。宣言通りではあったが、まさか飲み物しか持ってこないとは。お茶請けでもあるかと期待していたので少し、いや、かなりがっかりした。


 元の席に着いた郁子香は「さて」と仕切り直すように言ってコーヒーで口を湿らせた。

「これまでは、リュックを持ち去った犯人が家主であるという前提で推論を進めてきました。それもそうですよね、洗濯ならばそれは家主の仕事ですし、先輩の素性を気にしていたのも彼です。けれど、それらは否定され何のためにという謎は宙ぶらりんとなりました。動機が不明であるのならば、犯行を家主によるものと限定してしまうのは危険です。あの晩、先輩のいた部屋のドアは施錠されていませんでした。誰でも自由に出入りできたわけです。さらには、あの家には他にも客人がいました。早朝にミニバンがなくなっているのを先輩は目にしています。けれど、それだけでは彼らがいつ家を経ったのか特定できません。リュックを持ち出されたのがいつかも定かではありません。つまり、彼らのうちの一人、あるいは複数人によってリュックが持ち出された可能性も消せないのです」


 滑らかに紡がれる郁子香の台詞は、しかし俺を警戒させる。あり得ないものとしてひとつひとつ順調に仮説が潰されていってはいる。だが、その帰結としてリュックを移動させるのは誰にでも可能だったことになってしまった。

 部室でノート片手に読者への挑戦状へと挑む郁子香をしばしば目にしたが、それは裏を返せば、瞬時に犯人を特定するロジックをひらめけないことを意味する。直観に頼らないローラー作戦じみた虱潰しの方法論はそれなりの手間を要するものだ。だが、この一連の郁子香の発言は、俺が奇妙な家の話を終えていくらもせずに開始された。俺の話を聞きながら黙考していたとしても、不足なく推理を詰められるほどの時間的猶予はないはずだ。


 オタクモードの郁子香が、立て板に水で長々と講釈を垂れられるのは、それは持論として以前からあったものだからだ。ある程度時間をかけた考察あってこそのものだ。それ必ずしも言葉によって為されるわけではなく、事前に文章として考えが纏まっているとは限らない。それでも、たとえ言語化されていなかったとしても、思考として蓄積されたものは存在している。間違っても即席ででっちあげられたわけではない。


 こうして推理を語っている彼女の口ぶりは演説じみたものがあった。それでも、収束するどころか発散し、誰にでもできたとなってしまった論理展開に、俺は不安を抱かずにはいられなかった。真相へと向かって前進しているのだろうか。検証する十分な時間はなく、ただ思いつきで話しているだけではないか。そんな疑念に駆られてしまう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る