望月家

 望月郁子香むべかの住まう隣家と我が家の敷地を隔てているのは木塀調のフェンスだ。風邪通しのためか各横板の間には隙間があったが、スリット幅が狭いため目隠しとしての役割をしっかりと果たしている。うちの縁側からお隣を覗うことはできない。だが、あくまでもそれは地上からであって、二階からはその限りではない。身の丈ほどのフェンスを眼下に見下ろす位置にある俺の部屋の窓からは隣家が一望できた。

 だから、庭がどうなっているのか把握していはずだった。

 郁子香を訪ねてきた俺は、玄関アプローチの飛び石で足を止め右手を眺める。そこには庭があった。自室のカーテンを開き、幾度となく目にした光景だ。どんな有様かなど判りきっていたことではないか。


 しかし、俯瞰して理解していたつもりになっていただけだった。久しぶりに隣家の敷地に足を踏みいれ、その殺風景さを目の当たりにして俺は痛感した。

 楓おばさんが生きていたころはこうではなかった。レンガブロックの花壇はもちろん、棚にディスプレイされた鉢植えにプランターと、色とりどりの季節の花が庭を綾なしていた。しかし、いまは花壇は土がむき出しとなり、フラワースタンドも片付けられている。


 そしてなにより、緑のアーチがなくなっていた。匍匐するトキワアケビの枝を、ビニルハウスの骨組みのようなパイプに這わせて平棚仕立てとしたものだ。葡萄棚や藤棚のように、葉叢が屋根となって日光を遮り、影を濡れ縁に落とす。夏の暑い日など、小さいころの俺たちはそこで涼んでスイカを食べたりしたものだ。その思い出の木が支柱ごとなくなっていた。

 病気にかかったのか、世話できないからか。雑草が花壇を覆い尽くしていることはないし、芝も短く刈り揃えられていて最低限の手入れはされている。だが、河原の菜の花が咲き誇っている時期にも関わらず苗ひとつ植えられていないのを見るに、植物の管理までは手が回らないなのだろう。トキワアケビもそれで伐られてしまったらしい。当時のままなのは柿の木くらいだった。


 楓おばさんのガーデニング趣味によって飾りたてられていたのは庭だけではなかった。呼び鈴を鳴らすことなくドアを開いて玄関へと入った俺はまた思い知らされる。平日の日中、おじさんは仕事に出ていて家にいるのは郁子香ひとりらしい。直接部屋まで上がって来てと事前にLINEで言われていた。

 最後にこの家の敷居を跨いだのは、楓おばさんの葬儀のときだった。そのときのことはあまり覚えていない。親に連れられ制服を着て焼香に行ったはずだが、自分がどうやってそこへ辿り着きそしてどうやって帰ったのかも記憶が曖昧だ。唯一印象に残っているのは座敷の様子だった。鯨幕はなかったが、それでも献花や回り灯籠によって装飾された間には、所狭しと座布団が敷かれ黒服の参列者が正座していた。二間続きの座敷は、小さなころの俺たちが身体を動かすには格好の場所で、雨の日などに暇を持てあまして暴れ回り畳が傷むと怒られたものだ。そんな馴染みの遊び場が、俺の知らない空間へと変貌していた。


 あの日、この家は俺にとって異質な場所だった。だからと隣家としてしてイメージされるのは楓おさばんのいたころの、思い出のなかのものだ。

 ドアを開けた瞬間、その家が、その家庭が醸し出す特有のにおい、そこに俺はわずかに違和感を抱く。玄関に設置された下駄箱におのずと視線が行く。胸丈ほどのその扉つきの下駄箱の上には花瓶があった。生花やドライフラワーと様々な花が生けられてきた花瓶は、しかし空だ。


 いつだってこの家は、花に彩られていた。それはとりもなおさず楓おばさんの気配で、その欠落が否が応でも彼女の不在を俺に意識させる。もう郁子香の母はいない、その事実が身にしみる。郁子香とは学校で顔を合わせ、昔と変わらずに接することができるようになった。それでも交流が部活の範囲に留まっていたのは、どこかでこうなると悟っていたせいではないか。楓おばさんが亡くなったとはっきりと思い知らされるのを恐れていた。郁子香が立ち直ろうとしているのに、身内でもない俺が受け入れられずにいてどうするのか。


 廊下の空気が暗く淀んでいるように錯覚してしまうのは気持ちが塞いでいるせいだ。鬱屈を振り払うようにして俺は廊下を進んで階段を上がる。一階にあるのは、リビング、ダイニング、応接間、座敷、そして夫婦の寝室――今はおじさんの寝室で、子供の部屋は二階にあった。

 二階の面積の半分ほどを占める一番大きな部屋は物置で、実質的には二階にあるのは二間だ。階段を上がってそのままどんつきが物置、階段を囲むようなコ型の回廊の右手が郁子香の部屋だ。反対にあるのは書斎で、パソコンや書架などはそちらにあったはずだ。


 ドアをノックするとすぐに返事があった。

 部屋着だろうか、ワンピースタイプの裾の長いジップアップパーカーを着た郁子香にクッションを勧められて俺はそこに腰を落ち着けた。郁子香がキャスター付きの椅子に座り、ちょうど座面の高さと俺の目線が合ってしまう。下にホットパンツを履いてはいたが、それでもそのまま正面を向いているのは居たたまれなく、なんとはなしに室内を観察する。


 さすがに小学校のころとは内装が変化していた。まず本棚が増えている。当時は書斎にあったおじさんの本を借りて読むのがメインで自室にはカラーボックスがひとつあるだけだったはずだ。それが天井まである本棚が増えている。文庫サイズが多くて全部は埋まっていないが、それでもかなりの量だ。

 カーテンやベッドのシーツ、フロアマットはシックな色合いで統一してあり、あまり女の子っぽくはないかもしれない。小学校のころのパステルカラーの色調をしっているだけになおさらそう感じられた。しかし、学習机は昔と変わらないし、ベッドもシーツこそ違うが以前と同じものが使用されている。スタンドライトやサイドチェストといった調度に加え、小物のなかにも、本棚のコマドリのぬいぐるみなんかの目にしたことのあるものがある。全体としては変化しつつも、そこかしこにかつての面影が垣間見える。本棚のラインナップよりも、そうした昔と同じものあることが、やはりここは郁子香の部屋なのだなと俺を安堵させる。


「ずいぶんと久しぶりだよね、レイにぃがうちに来るの」

 どこか恨みがましげな郁子香に「そうだっけ」と俺はとぼけてみせる。

「そうですよ。それでどうしたんですか。珍しくうちに来るなんて何か用があったんでしょう」

 彼女に促され、俺は奇妙な家について話し始める。

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