雨あがる

 まぶたを開いて目にしたのは木目調のクロスだった。仰臥して天井を見上げているのだと認識しても、その見慣れない模様が俺を困惑させる。しかし、それも意識が完全に覚醒するまでのつかの間のことで、すぐに自分の置かれた状況を思い出す。

 雨宿りに訪れた一軒家、その二階の一室で、急な睡魔に襲われベッドで休んでいたのだった。


 どれほど眠っていたのだろうか。あれほど凄まじかった眠気は綺麗さっぱりと消えていた。しかし、倦怠感が依然としてあり、頭を動かすとこめかみを締めつけるような鈍い痛みが走る。喉の渇きもあった。それでも悪寒や火照り、関節痛といった発熱の兆候はなく、少なくとも体調の悪化は免れたようだ。体力もいくらか回復していたが、その割に満足感がなく寝起きのすがすがしさからは程遠い。

 時間を知ろうとスマートフォンに手を伸ばしたところで疑問が脳裏をよぎる。なぜ天井のクロスが見えたのか。室内灯を落としてから家主は部屋を出て行った記憶があったし、実際、シーリングライトは光を宿してはいない。だというのに、室内は闇に没することもなく適度な明度を保っている。


 上半身を起こして光源はどこかと周囲を視線を彷徨わせる。その俺の目に飛びこんできたのは、うっすらと明るくなった窓の外だった。走行する車のライトが一時的に室内を照らしたという雰囲気ではない。そもそも、この部屋は道路には面しておらず、壁のむこうにあるのは鬱蒼とした雑木林ではないか。

 ロック画面の時計によれば、あれから数時間が経過していた。夜が更けて野外は真っ暗になっているはずで、これは山のほうで何らかの人工的な光が焚かれているのだろう、そう一瞬納得しかけた。


 しかし、スマートフォンの液晶に映った数字に引っかかりを覚えた。再度、画面を眺めて合点がいく。違和感があったのは時刻ではなかった。十二時間表示のデジタル時計、その下に一回り小さなフォントで並んだ文字、それが指し示す事実に愕然とする。

 日付が変わっていた。数時間の仮眠どころの話ではく、ゆうに十二時間を超えて惰眠をむさぼっていた計算になる。俺が知らぬうちに夜が明けていた。日が登っている時刻ならこの室内の光量にも納得がいく。夕方から朝まで寝腐っていたら、過睡眠による頭痛が生じるのも当然だろう。


 怠い身体を引きずるようにしてベッドを抜けだしてカーテンをめくる。雨はあがり、鈍色の雲の切れ間から白んだ空がのぞいていた。東の空こそ雲に覆われて太陽は拝めなかったが、風上にあたる西のほうでは雲がまばらになっている。切れ切れに散った白い雲が雨雲を押し流していくのは、色こそ正反対だが羊の群れを追い立てる牧羊犬のようだった。

 ふたたび天候が崩れる可能性は低いだろう。もはや見ず知らずの他人の家に留まっている理由はなかった。一晩中寝ていて夕飯を逃してしまったが、俺のぶんを取り置きしてあったら申し訳ないので、それを朝食として頂くくらいはしても構わないだろう。お昼代わりの軽食から何も胃に入れていないため空腹だった。


 食後にすぐにでも発てるよう支度を整えて部屋を出よう。が、リュックが見当たらない。入室したときに壁際の床に直置きしたはずなのに、その場所からなくなっている。スマートフォンを取り出したのを最後に触っていないはずだ。念のためクローゼットを開いてみても、やはり昨日と変わらず空っぽだった。

 手も足もない鞄が勝手に移動するわけもなく、自分で動かした覚えがないなら他の人の手によると推測できた。ドアには内側からかけられる鍵があったが、家主が出て行った時点で俺はベッドに横になっていてそのまま入眠してしまった。閉めていない。不用心にも、誰でも自由に出入りできる状態だった。


 侵入者によって持ち出された可能性は排除できない。しかし、動機がわからない。リュックは使い古しだし、購入したゲームがあるくらいで盗まれるほどの価値はなかった。高校生の懐などたかが知れている。財布に大金が入っているようなことはないし、そもそも現金が目的なら中身だけ抜けば足りる。リュックごと持ち去らずともよい。

 もしかしたら家主が気を利かせて洗濯をしてくれたのだろうか。汚れたのは衣類ばかりではなく、リュックもまた自転車の前かごのなかで雨に打たれていた。一緒に洗ってしまおうという発想になるのはそれほど不自然でもないだろう。だが、そう仮定すると今度は内容物が俺のもとに残っていないのが問題となる。洗濯するためには、財布やゲームを取り出してリュックを空にしなくてはならない。その作業も洗濯機ところで行ったのか。


 どちらにせよ家主には一度会わなければならなかった。私服を受け取って着替えなければお暇もできないし、さすがにガウン一枚ではかなり肌寒い。

 スマートフォンを手に部屋を出る。ドアの開閉音が、しんと張り詰めた早朝の冷たい空気を揺らす。狭い通路に反響するかのようなその音はやたら大きく感じられた。あれから客人たちはどうしたのだろう。二階のどの部屋からも物音が聞こえなかった。この静けさが、まだ誰も起床していないせいなのだろうか。眼前の向かいの部屋のドアごしに、耳をそばだて人の気配を探ってみるも、空室なのかどうか判断がつかなかった。


 家主の背を追ってあの寝室へと通されただけの俺は、一階のどこにどんな部屋があるのか把握していなかった。とりあえず階段を下りて往路の逆順を辿って進んでいく。応接室まで戻って来て、ドアを開けてなかを覗いてみたが既にもぬけの殻となっていた。客人がここにいたのを目撃してから半日以上経っているのだから、当然といえば当然だ。飲食のあと綺麗に片付けられている。彼らがテーブルを囲んで騒いでいたときの華やいだ雰囲気を知っているだけに、無人となった室内は彩りを欠いて見えた。調度のひとつひとつがあるべきところに粛然と収まっているのが、照明の落ちた撮影スタジオのセットのようで、寂寞とした印象が強まる。


 外からはときおり小鳥がさえずりが聞こえたが、一階の廊下もまた二階同様の朝のひそやかさな空気が満ちていた。玄関のほうまで出てやっと奥に人気を感じる。

 反対側の廊下を抜けてスライドドアをくぐった先はリビングダイニングだった。キッチンカウンーむこうに家主の後ろ姿を見つけ「おはようございます」と声をかける。

 俺の挨拶にワンテンポ遅れるようにして緩慢な動作で振り返った家主は、どこか眠たげだった。昨晩と同じ服装なのを見るに徹夜でもしたのかもしれない。


「おはようございます。具合のほうはいかがですか」

「はい、おかげさまで」

 頭痛は治まっていなかったが、体調不良を訴えねばならないほど苛烈な痛みでもなかった。寝過ぎの偏頭痛ならば動いていれば自然と快復するだろう。


「食事のほうはどうされます?」

 昨晩はカレーを振る舞ったらしく、余りがまだ鍋にあるという。温めてもらいながら話をしよう、この家のことや消失したリュックなど問いたいことは色々とあった。

 コンロに火を入れた家主は、そのままシンクのほうへと足を向けた。洗った葉野菜をキッチンばさみでカットして器に盛りつけ、ときおり鍋をおたまでかき混ぜつつ、細切りにしたベーコンをフライパンで炒めていく。


 話しかけるタイミングを完全に逸し、サラダなら調理も終わるだろうとリビングで待つことにする。そこで俺は、ソファーの上にマイリュックがあるのを発見する。すぐ横には俺の私服が丁寧に畳んであった。反射的にリュックのファスナーを開いてなかを確認してみるも異常は見受けられなかった。財布もゲームのパッケージも元あった箇所にちゃんとある。残金も減っていない。


 リュックは目立った汚れは付着しておらず綺麗だったが、それが洗濯したことによるものかは定かではない。もともと雨で濡れただけで、泥のようなひどい汚れがはなかった。表面をタオルで拭ったので、雨滴の痕がシミになる恐れもなかった。自然に乾燥しただけかもしれない。においを嗅いでみると洗剤の香りがしたが、これも消臭剤を吹きかけたからかもしれない。

 リュックの状態は洗濯したかどうかの判断材料とはならなかった。しかし、洗うためでもなければ部屋から運び出す必然性は薄いように思われる。避けておいたものを乾燥後に戻しておいてくれたのだろうと結論づける。


 家主が配膳を始めたので、六人掛けテーブルの席のひとつ、リビング側の真ん中の椅子に座った。対面にもうひとりぶん食器が並べられていた。家主も一緒に朝食を摂るつもりらしい。


 これは質問をする千載一遇のチャンスではないか。

 だが、いまさらこの奇妙な家の謎を解明して何になる。昨日は、不可解さを抱いたからこそ俺は家主に詳細を訊ねようとした。宿泊へと舵を切るためには憂慮を払拭する必要があった。だが、睡魔に襲われたためそれ実行されることはなく、そして何事もなく一夜が経った。過剰な心配だったのだ。仕掛けのある館などフィクションの産物で、多少間取りがおかしかろうとそれで身に危険が及ぶはずもないではないか。


 ミステリ読みの性分としてそこに謎があれば検分したくなる。気にならないといえば嘘になるが、他人の家のこととなれば、どうしたってプライベートな領域に踏みこまなければならない。しかし、そこまでして知らなければいけないものだろうか。

 客人について説明しながらも家人はこの家については語ろうとしなかった。ならば、穿鑿などすべきではないのでは、そう俺は思い直しつつあった。リュックがなくなっていなくて安堵したせいもあったかもしれない。


 雨をやり過ごしたのだから、あとは帰路につけばよい。目的を果たしたいまとなっては、一時的に身を寄せただけの他人の家の間取りなど些細な問題だった。

 結局、ほとんど会話らしい会話もないまま食事を終える。

「何から何までありがとうございました」

 これだけお世話になったのだから後日菓子折り持参でお礼に来たほうがよいかもしれない。

 もう引き止められはしなかった。移動した自転車は裏手に停めてあるので勝手口から出たほうが近いと案内してもらった。

「それでは気をつけて」

 戸口に立った家主に頭を下げ、セメント敷きの地面を自転車を押し、壁伝いにぐるりと家を半周して前庭へと。


 ミニバンがなくなっていた。

 ネット上の仲間だという客人たちは、宿泊するかに思えたが夜のうちに去った。

 謎めいた一軒家での雨宿りは予定外の体調不良に見舞われながらも無事に終わった。

 この家は何だったのだろうか。その疑問がまた首をもたげ、道路に出たところで振り返る。

 そこに家など建っていなかった、などということもなく、この地に似つかわしくない瀟洒な家屋が雑木林を背に佇んでいた。

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