狐の宿

冷たい雨

 大気が湿り気を帯び、あたりに雨のにおいが漂い始めてからは早かった。雨滴混じりの冷たい風が頬を叩き、粗いアスファルトの灰色にまばらに斑点が散る。やばいと思い、ペダルを回す速度をあげたときには、もう本降りとなっていた。一瞬にして道路は黒く染め上げられ、濡れた路面が、いつの間にか自動点灯していた自転車のライトを照り返す。


 間に合わなかった。本来であればこの時間には帰宅できているはずだった。昼過ぎには天候が崩れると天気予報が告げていたため、開店時刻に合わせて家を経った。しかし、買い物を済ませてすぐに帰路についたというのに、道中でパンクというアクシデントに見舞われた。タイヤに目立った外傷はなくパッチで対応できそうだったが、あいにくと修理キットの持ち合わせはない。自転車を押して歩くには、自宅からも市街地からも距離がある中途半端な地点だった。迎えを頼もうにも、両親は仕事で出払っている。雨雲レーダーを確認するとまだ天気が崩れるまでだいぶ余裕がありそうだったので迷った末来た道を引き返した。その判断が間違っていた。家を目指すべきだったのだ。スーパーに併設された百円均一で修理キットとスプレー式の空気入れを購入し、駐輪所で一通りの作業を終えたころには、暗雲が立ちこめたいまにも降り出しそうな空模様になっていた。寒さでビードが固くなっていたのかチューブの脱着に存外に手こずり大幅に時間をロスしたのが痛かった。


 こんなことであれば修理など後回しにして家まで自転車を押せば良かった。そう後悔しても遅い。雨宿りできる場所など、山べりを走る県道沿いにはなかった。いや、たとえ近場に建物があったとしても、そもそも予報では雨足が弱まるのは夜になってからだと告げていた。とうぶん天気の回復は望めそうもない。


 濡れ鼠になるほかなかったが、それでも被害は最小限に留めたかった。マウンテンパーカのフードをかぶり、下半身をかばうように前傾姿勢になって自転車を漕ぐ。スピードをあげて路側帯の水たまりを通過すると、前輪の泥よけから流れた水がつま先を濡らした。靴はすでに水を吸って重くなっていたが、これはどうしようもなかった。


 問題は前かごの荷物だ。通学にも用いているナイロン製のリュックは、使い古したせいで気休め程度の撥水効果しか残っていない。強い雨に晒されれば浸水は免れないだろう。


 内容物が濡れるのは避けたかった。

 購入したのはゲームだ。とあるライトノベル作家がライターとして参加しているノベルゲームで、ずっと発売日を楽しみにしていたのだ。インディーに毛が生えた程度の規模の小さな会社の開発で、注目度はそれほど高くなかった。一度、延期したせいでビッグタイトルが続けざまに出る時期に発売日が重なってしまったのも良くない。それでも、インターネット上で種々のプロモーションが打たれ、情報が解禁されるにつれ期待値は高まっていった。


 プロモーションの一環として、発売直前にはアミューズメント施設でコラボイベントも開催されていた。しかし、その手の催しは都心部で行われるのが常で、地方在住者が手軽に行けるものではない。カクヨムがらみでもそうだった。ユーザーミティングや『横浜駅SF』のリアル謎解きゲームも関東圏に住んででもいなければ体験できない代物だったではないか。遠征できる金銭的余裕が高校生にあるわけもない。


 行けもしないイベントのレポを読むほどむなしいものはなく、俺はここしばらくネット断ちをしていた。発売日前に購入して感想をあげる、いわゆるフラゲ民にネタバレを食らうリスクも避けられる。


 待ちに待った発売日がやって来たというのに、この雨だ。ROMが濡れて壊れるなんてことになったら目も当てられない。シュリンクによって梱包されてはいるが万が一ということがある。浸水したリュックのなかでどれほど耐えられるのか不安だ。


 俺は必死になってペダルを回す。近くに国道があるため県道の車通りは多くはなかったが、それでもときおりコンテナを積んだトラックなんかに行き会う。大きな車が通ると気圧差でふらつきタイヤが滑りそうになるため、ハンドルをしっかりと握り腕に力をこめなければいけなかった。そしてなにより、その重量のある車体は隣を抜けていく際に大量の水を跳ね上がていくのだ。前かごのリュックを庇うようにいっそう身を乗り出さなければならず、それがさらにバランスを危うくする。


 雨足が弱まる気配はなく、大粒の雨が身体を叩き体温を奪って行く。なんでこんなことに。ダウンロード版で我慢すれば良かった。ウォレットの残高が足りなくてコンビニへ行ってプリペイドカードを購入するくらいなら、市街地まで足をのばしてメディアミックス型の書店でパーッケージを入手にしよう。パッケージ版ならプレイ後に売れるじゃないか。そんなふうに考えた過去の自分を呪いたくなった。


「くそっ」

 泣き言を振り払うように悪態をつき、ふと視線をあげた先、そこに対向車ではない人工の光があった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る