ウソと心
郁子香の言葉から真意に思い至った俺だったが、それでも確認をせずにはいられなかった。
「あのさ、出題編の名前のことはともかく。あれは暗号ではなかったんだよな」
「そうですよ」
「いちおう訊いておくけど、オリジナルがあって改変したということも――」
「ありません」
どこか別に暗号があって俺がノートの赤字に頭を悩ませている裏で、彼女と犯人の攻防が行われていた線もなさそうだ。第三者の介在はなく、偽の暗号を巡って繰り広げられていたのは俺と郁子香の駆け引きだった。
思えば、修学旅行の振替休日が明けたその日に暗号が出現するというのからして、ターゲットとなっていたのは俺だと示しているようなものではないか。このトリックの発案がいつだったのかは不明だが、俺が修学旅行へ行ってしまったことにより実行が先送りされたのではないだろうか。そして、俺の登校に合わせて計画を進めた。
「あの文字にはまったく意味がなかった、と」
「全然ってことはないですよ。検索しやすいようにしましたから」
自慢のアイデアだとでもいうように郁子香が胸をはった。パイプ椅子に座った俺に対して彼女はまだ立ったままだったので、長机ごしの目の前でそんなポーズをされると胸を見せびらかされているように感じてしまう。ブレザーを押し上げるふくらみは強い主張をしているのではないが、それでもそのまま見つめているのが憚られ視線をはずす。
「検索しやすいようにというのは?」
「ネットから特定の一ページを表示さけるためにはどのような言葉で検索すればいいか」
「引用符使って長文で」
「それだと書くのも検索するのも大変じゃないですか。『黄金虫』ではないですけど使用頻度を利用するんですよ。頻度の低い文字を組み合わせればノイズをできるだけ排除して検索をすることができます。といっても、そればかりだと見透かされそうなので、ある程度頻度が高い文字も混ぜましたが」
国語辞典の真ん中に来るのは、しの終盤からすの頭あたりになるといった内容をどこかで読んだことがある。十二文字程度で半分が埋まるということは、前半は一文字あたりの見出し語数が多いということだ。逆に後半は一文字あたりの見出し語数は少ない。暗号の九文字は後半に偏っていた。
あくまで頭文字でみただけだが、それでも頻度の少ないひらがなを中心に構成されているように思えた。ネットで調べたら分布表が出てくるだろうから、郁子香はそれを参考にしたのかもしれない。
「じゃあ、赤マジックなのは? 新しいページに書いてあったのは? わざわざそんなことする必要ないじゃないか。ページが無駄になってる」
「ロジックのために必要じゃないですか」
「ロジックって何の?」
「ノートの切れ端に書いてあったとしたら、それではいたずらや机を間違った可能性が排除できないじゃないですか」
「いや、それでも新しいページに書かなくてもいいだろう。無駄になるだけじゃん。どうせ切り取るのなら最後のページでいいだろう」
「それだと、裏からページを開いただけになって下敷きのロジックができません。時間割と下敷きの組み合わせで害意を排除できるのです。これで余計な人間を巻きこむことがなくなります」
下敷きのロジックを使うため、これだからミステリマニアという人種は。うんざりだと肩を竦めたところで、ふと思い至る。
彼女が家族犯人説を否定した際、流されてしまって熟考しなかったが、冷静になってみればダブルファスナーの位置を記憶しているというのはできすぎだ。鞄の開け閉めという毎日、何度となく繰り返している動作において、たった一度をそう都合良く覚えているだろうか。
郁子香が入浴などで部屋を離れた隙にノートを取り出して暗号を書き込み鞄に戻しておいたとして、そのあるか定かでもない痕跡が彼女の目に留まるとは考えにくい。引っかかりすら覚えずスルーしてしまってもおかしくはない。
では、家族犯人説を排除できなければどうなるか。数Ⅰの授業は六限目、つまりはその日の最後の授業だった。机の上に出されたノートをそのまま片付ければ、下敷きはノートに挟まったままになる。家族によって暗号が書かれたとすると、新しいページが開かれていたのは下敷きのせいだという仮説を潰せなくなる。
家族の犯行であった場合、下敷きのロジックは使えない。だから、無意識裏に郁子香は家族を犯人とする仮説を最初から排除して、狂言を行っていたのではないか。仮説であっても家族を巻きこむのに心理的抵抗もあった
のだろう。
家族ではないというのが最初にあり、理屈はそこから逆算して構築された。だからこそよくよく考えれば無理のあるものになってしまった。
ここでも彼女はミスを犯していた。
しかし、それでも俺は彼女の失態に気づかず目論見通りに動いてしまったわけだ。
「ずっとむっちゃんの手のひらの上で転がされていたのか」
「いくつか予定通りことが運ばなかったので、完全に策略にはまったとは言えませんが、おおむねそうですね」
騙されたことに俺が怒るとはつゆほども考えていない満足げな表情で郁子香は首を振った。
レイはさ、むっちゃんに甘すぎるんだよ。
ふと、そんな言葉が脳裏をよぎる。いつだったろうか、郁子香の姉である桃花が言っていた。
あの子は興が乗ると周りが見えなくなって変なことも平気で言っちゃうし。レイがそれでも聞いてくれるって甘えがあるから調子にも乗る。どこかで釘を刺しておかないと、いつかとんでもない失敗をするんじゃないかって心配なんだ。
最初はぼやくような口調だったが、後半につれてを本気で心配する声になって行き、最後にはこう付け加えた。
レイの言うことだったら聞くと思うからさ。
カクヨムに小説を書いていることを隠したい、そんなこちらの気持ちを度外視して俺を手玉に取った郁子香。
いまこそお灸をすえるときなのではなかい。
いや、もしかしたら遅すぎたのかもしれない。彼女に好きな作品を貶されるのを恐れて他の部員は部室に寄りつかなくなってしまった。語り合える仲間を失い、残されたのは俺だけとなってしまったではないか。そうなる前にどこかで俺が食い止めておくべきだったのだ。自分が好きなミステリの話であるからと調子を合わせて、彼女を窘めもせず談笑していた俺もまた空気の読めないミステリ読みだ。わかっていながら何もしてこなかったのだから余計に性質が悪い。
俺は長机に手をついて勢いよく立ち上がり、郁子香を見下ろして言い放つ。
「ふざけるな!」
なにが操りだよ。人をなんだと思っているんだ。神にでもなったつもりか。神のごとき振る舞い、まるで探偵じゃないか。それで事件が解決できるならまだしも、事件を引き起こしてるなら詮無いわ。後期クイーン問題の第二の問題じゃないか。
というようなことを言おうとしてできなかったのは、俺もまた脱線してミステリ談義に走りそうになったからではない。
怒鳴りつける俺の声に郁子香は身体をびくりと震わせた。呆けたような顔で面喰っていたのも束の間、形良く整えられた眉が歪み、額にしわが刻まれ、目元が熱を帯びたように赤くなる。
あ、やばい。と思ったときにはもう遅かった。
何かを堪えるように引き結んでいた口から息がこぼれ、それが引き金となった。
「だって、だってレイ兄が……」
駄々っ子みたいなセリフを口にする郁子香の目は潤み、目頭に溜まっていった涙は、言葉の途切れ息を吸ったのを合図にするかのようにこぼれ、鼻梁から頬へと伝っていく。それでもう、ダメだった。こらえきれずに、ついにはしゃくりあげてしまう。
言葉がひこっみ怒る気もなくなった俺は、困惑しながらも懐かしく思う。小さいころの郁子香は、ちょっとしたことでよく泣いていたものだ。
「レイ兄が……小説読ませてくれないから」少し噎せたが、涙も言葉も止まらない。「書いてるってわかってるのに、読ませてくれないなんて」
ひどい、と顔を伏せてハンカチを目元に押し当てる。
こういうとき、昔の俺は、郁子香の言葉に耳を傾け優しい言葉を投げかけたりしていた。ときにはお菓子やなんかで気を紛らわせたこともあった。言い方は悪いが、物で釣ったわけだ。
彼女の興味を引いて気を逸らすものなど持ち合わせていただろうか。
気慰みになるのであればどんなものであっても構わない。
なにかなかっただろうか。
なにか……
そうだ、あれがあったではないかと思い当たろる。
俺は自分のリュックを開いて中から包装紙でラッピングされた包みを取り出した。ずっと渡せないまま通学鞄のなかに入れたままになっていたものだ。
郁子香の頭を撫でると、「ん」まだ少し鼻にかかったような声を漏らして、しばらくそのまま頭をなでられていた彼女だったが、やがて顔を上げた。
手渡された小さな包みを両手に持ち「あの、これは?」と郁子香は首を傾げた。
「遅くなったけど、修学旅行のお土産」
「開けてもいいですか」
まだ目は赤いし頬にも朱が差していたが、それでもだいぶ落ち着きを取り戻したと見え、声はいつものトーンに戻っていた。
どうぞと首肯した俺に促されてシールをはがし丁寧にラッピンを解いていった。中身は手帳だ。
「ありがとうございます」
「ほら、むっちゃん本読んでるときにメモしたりするだろ。ノート使ってるけど手帳のほうがいいかと思って」
こうして面と向かって渡したのが妙に照れ臭い気がして、気恥ずかしさを誤魔化すように説明を加える。
「お揃いですね」
郁子香がそうつぶやいて口元を緩ませる。
そうだ、俺もネタ帳として同じものを買っていた。暗号を解こうとして点字を打ったときにも使用したのでそれを目にして記憶していたのだろう。
いまさら返してくれとも言えず「まぁな」と返しておく。
「あの……もう怒ってません?」
すっかり回復していたと思っていたが、まだ郁子香は気にしていたようで、おもねるような媚びを孕んだ、しかしどこかぎこちない声音で訊ねる。
「大丈夫だよ」
ほっと一息吐いた郁子香は大切そうに手帳を胸に抱き、それから言う。
「天才というのは二種類あると思うのです」
いきなりなんの話だ、そうツッコミを入れたくなる。しかし、それでもそうして話しているとやっと本調子に戻ったのだなと安心できた。
俺は続きを促す。
「ひとつは、常人には思い至らないような発想の飛躍をするタイプ。そして、もう一つは途轍もなく頭の回転が早いタイプ」
「後のほうは、それって天才なのか。どちらかというと秀才に分類されるような」
「それがそうでもないのですよ。ロジックを積み重ねて着実に思考を進めていても、それが超スピードであった場合、前者と区別することはできません。だから、彼らもまた天才として認識されるのです」
「わからんでもない」
「前者を小説のなかで再現しようとするなら、書き手もまた同様の発想をできなければなりません。しかし後者であればそうではありませ。なぜなら、思考自体は特殊なわけではないからです。時間さえかければ同じ軌跡を辿ることはできます」
「もしかして、名探偵の作り方の話か?」
「そうです。ロジックの積み上げです。先輩はもっとミステリを書くのに時間をかけるべきなのですよ」
「そこは反省してる」
「もし、もしですよ。先輩がひとりでできないというのなら私も手伝いますよ」
「二人で組んで書くのか」
「いいですね。エラリー・クイーンも二人組だったわけですし。どうです。言うなれば平成のクイーンですね」
「いや、それもういるから」
今度こそツッコミを入れずにはいられなかった。
だいたいもう平成も終わろうとしているのだ。
平成最後の年、それは俺にとっての高校最後の年でもあった。
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