プロローグ
とある冬の日の放課後
重く垂れこめた黒々とした雲に日光を遮られ、思うように気温が上がらず底冷えのする日だった。今にも降り出しそうな空模様とは裏腹に、昼過ぎにちらちらと細雪が舞ったくらいで本降りになることはなかったが、校舎の裏手には先週積もった雪がまだ融けきらず残っており、放課後の特別教室棟は雪の日の静けさに浸されていた。
二月も半ばになり少しずつ日が長くなって来たとは言え、山の陰に建った校舎内は日中から薄暗く、日が傾きはじめるとぐっと明度が下がる。夕闇がわだかまった廊下に、片引き戸の隙間から一筋の光が漏れ出している。
文芸部の部室だ。
奥へと長い部屋の内部を蛍光灯が照らしていた。しかし、光源は蛍光灯ばかりではなく、室内最奥、南に面した窓の下にはカーボンヒーターが置かれ、オレンジに色づいた発熱体が放つ温かな光が、白っぽい人工の明かりに彩りを添えていた。
東の壁際には、第二化学準備室のころから使用されているスチール棚があった。かつての薬品棚を背に、彼はパイプ椅子に腰かけていつものように文庫本を繰っている。足元には壁にもたせかけるようにして通学用のリュックが置いてある。
部屋の中央の長机を挟んで反対側、彼の対面から少しずれた位置のパイプ椅子には彼女が座っている。背もたれに背を預けることなく長机に片肘をつき、手に持ったスマートフォンを所在なさげにいじっている。画面を見つめる視線は、ときおり様子を窺うように、その奥、斜向かいに座った彼へと注がれる。しかし、読書に集中しているのか彼がその眼差しに気づくことはなかった。
ページをめくる音とパイプ椅子が軋む音だけが間欠的に響き、静かに時間は過ぎていく。
どれほど経っただろうか。唐突に彼女がパイプ椅子を鳴らして立ち上がり「あの」と彼に声をかけた。話しかけるタイミングを計っていたが、いい加減焦れてきて奮起し声をかけたという様子だ。
自らの声の大きさに驚き、それで気勢を削がれてしまったのか一言発したきり続きが出てこない。
スピンを挟み文庫本を閉じた彼が顔をあげた。椅子に座った彼が彼女を見上げる格好になる。
見返された彼女は、その視線を受け止めきれずに俯いて、しばらくじっと長机の上を見つめていた。言葉を探すように伸ばした指先が、机のふちをなぞり、そのまま机上のスマートフォンにかかる。
彼女はスマートフォンを掴んでブレザーのポケットに手を突っこんだ。それから、もう一方の手もブレザーのポケットに入れ、中から何かを取り出した。
「これ」
突き出された手には小袋が握られていた。透明な袋の口を鮮やかな赤色のリボンで閉じてラッピングしてある。中に入っているこげ茶色の物体はクッキーだろうか。
「俺に?」
こくりと小さく頷いて彼女は「やっぱりこういうの照れくさい」としみじみといった感じでつぶやいた。
小袋は彼に手渡されることなく、机の上にそっと置かれる。
「そういうことだから!」
彼女は彼の視線から逃れるように振り返り、長机の脚に立てかけてあったリュックを手に取ると、肩を通すこともなくそのまま腕に抱えドアへと向かう。
やばい、こっちに来る。
引き取りに彼女が手をかける前に私は走りだし、咄嗟に階段脇のトイレに駆けこんだ。必要もないのに個室にこもって鍵を下し、自分が目にした光景を思い出す。
なぜ、どうしてこうなってしまったのだろうか。泣きたい気持ちになりながらスカートのポケットに手を入れ、その包みの感触を確かめる。
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