ミス研

 部室の壁の天井に近い位置に設置されたスピーカーから完全下校時刻を知らせる校内放送から流れ始めた。放送委員の女生徒の帰宅を促す耳にすかっり馴染んだフレーズを聞きながら、俺は長机上の筆記用具と手帳を片付けて帰り支度をする。


「えっ、もう帰るんですか」

 郁子香がびっくりしたように声をあげるが、そのことのほうが俺には驚きだった。部室でやらなければならない用事などないのだから、ここに留まる理由なんてない。彼女はそうではないのだろうか。


「もうちょっと部室で暗号考えてくのか?」

「いえそういうつもりでは……。考えても解けないというのが私の推理ですから」

「なら帰ろうや。部室閉めたいし」


 そう口にしてから、せっつくような言い方になったのを反省する。これでは閉め出すようではないか。残るのならば職員室に部室の鍵を返しておいてと頼めば、どうするのかは彼女の判断に任せられた。

 郁子香は逡巡する様子を見せたが、やがて開きっぱなしになっていたノートを閉じ荷物をまとめはじめた。準備が整ったところで消灯して部室を出る。


「寒ぃな」

 戸締りをしながらつぶやく。まだ暖房をつけるほどではないとはいえ部室は冷えていたが、それでも俺たち二人の人体が放つ熱で室内が温められていたのだといまさらながらに実感する。廊下は、特別教室棟の日当たりの悪さと、その長さゆえの空間としての広さが影響し、夜の気配が漂い出していた。窓の外もすでに暗い。


「先輩はまだ暗号解読諦めずにがんばるんですか」

「時間あったら家でもやってみるつもりだが」

 廊下から渡り廊下に入ると音がいっそう反響するように感じられた。放課後のしじまに、リノリウムを歩く上履きの音と二人の声が余韻を引きずりながら溶けていく。


「ということは解けると考えてるんですよね。解ける説の先輩、いまは解けない説の私。はたして正しいのはどちらか」

「正解は犯人のみぞ知るってところか」


 第一棟に入ると、まだ教室に居残っている生徒のしゃべり声がどこからともなく遠く聞こえたが、他の生徒とはすれ違わなかった。そのまま階段を下る。


「なんかこういうの小説みたいですね。推理合戦というか。ほら、よくあるじゃないですか。登場人物がサロンなんかに集まってあーでもないこーでもないって議論するの」

 上機嫌に郁子香が語っていたものの、そこで職員室についたので俺は一言断り鍵を戻しに行く。キーボックスの所定のフックにひっかけて廊下に出てふたたび二人揃って歩きはじめる。


「推理合戦ねぇ。そりゃミステリ読みが謎についてしゃべればそうした趣になってくるだろ」

「こういうの楽しいですよね。大学のミステリ研究会とかだと毎日のように議論していたりするんでしょうね」

 小説のシーンを思い描き実在するサークルに理想を重ねるように、郁子香は無邪気に目を輝かせた。


 ミステリ研究会と言われ俺が真っ先に思い浮かべたのは京都大学の推理小説研究会だった。新本格期に多くの作家を輩出してその名を馳せてからはミス研と言えば京大というイメージが浸透している。そう言えば第一回カクヨムWeb小説コンテストミステリー部門大賞受賞作の『うさぎ強盗には死んでもらう』の作者さんもプロフィールに京都大学推理小説研究会所属と書いていた。カクヨムのプロフィール欄で京大ミス研の名を出している人は他にもいたように思う。ミステリ界隈では通りがよい名前であるという自覚があるからこそ自身の特徴として明かしたのだろうし、事実、俺はそれに反応して彼らを記憶している。


 ミス研の実像までは知らないが、それでも出身作家の著作におけるサークル描写やネットで漏れ聞こえる話などから活動内容はある程度予測がついた。

「批評会とか犯人当てとかやってるみたいだよな」

「いいですね。ミス研って憧れちゃいます。そういう環境がうらやましいです」

「むっちゃん好きそうだよな」

「好きですよ。だって楽しいじゃないですか」


 昇降口に着いたが、下駄箱は学年、クラス順で並んでいるので一旦別れる。俺たちの他にもちらほらと生徒はいたが、その数は案外少ない。屋外で活動する運動部員は靴を履きかえてから部活へ向かうし、屋内で活動する運動部であってもだいたいの部員は授業終わりに体育館や武道場に靴を運んでいるようで、この時間に昇降口を利用するのは文化部くらいだ。


 校舎を出たところで合流し、グラウンド脇の自転車置き場へと向かう。

「推理し合うってのは確かに楽しいかもしれないけど、議論になるのはなぁ」

「論破されるのが悔しい?」

 発言内容とは裏腹に小ばかにした雰囲気ではなく、気軽な問いかけといった声色だったので「そうかもな」と同意できた。

「そういうところって性格が出ますね。たぶん先輩は直観が先にあってそこに導くための理屈を組み立てるタイプなんですよ。だから創作に向いてます」


 創作に適しているというのがいまいちピンとこなかったが、直観先行というのはそうかもしれない。情報を整理してロジックを積み上げていくのは俺の苦手のするところで、そうした作業を避ければ自ずと直観とひらめきに依存する思考法になる。しかし、ひらめきは行き詰まりを解消する突破口となってくれるかもしれないが、それ自身が目を曇らせる色眼鏡となってしまう場合もあるのだ。アイデアを活用しようとするあまり偏った視点から手がかりをふるいにかけ、都合のよいものだけを選り分けてしまうことになる。他の可能性が考慮から抜け落ちてしまう。

 だから、ロジックが甘くなるのだ。多角的な考察をしていないので、別解の存在を許してしまう。


 自転車に乗り校門から続く坂を下って線路と国道渡る間、俺はそんな益体もない思考に耽っていた。

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