『五十円玉二十枚の謎』

 農道に抜けたところで郁子香が隣に並んだ。自転車のライトの二つの光が重なり合って行く手を照らした。目の粗いアスファルトの道が、夕闇に浸された田園風景のなかひたすらまっすぐにのびている。集落の灯りが遠く滲むその奥には、地平に横たわる影となって山々の連なりが見えた。空は全体がグラデーションを描いている。昼の残滓じみた明るさが稜線のふちを薄く白ませていたが、高度があがるにつれ沈んだ色となり天頂ともなると青みを帯びた闇となっている。


「一般に多重解決と言われるものには二種類あるんですよ」

 唐突さに戸惑い言葉を探している俺をよそに、郁子香はそのまま言葉を継ぐ。


「真相となる解決が存在するものと、そうでないもの。いくつも推理が登場したとしても、前者においては真相が示されることによって他の推理は棄却されます。ときには全部の推理が否定されることもあります。推理が潰されることによって作中で真相とされるものが強度を増す構造になっています。つまり、何個推理があろうとも、それはたった一つの推理に奉仕しているわけです」


 そのまま受け取れば趣旨を理解するのはそう難しいことではないが、目的が、どこへ向かって話が進んでいるのか見当がつかない。郁子香の言葉の行き先がわからぬまま、ペダルを回し、俺たちは農道の直線を走る。


「けれど、後者はそうではありません。すべての推理は等価です。どれかが否定されることもなければ、肯定もされません。ひとつひとつが独立し一定の説得力を持っているがゆえに、どれもがあり得てどれもがあり得ないわけです。この推理のひとつを作るのが、物語を作るということではないのでしょうか」


 さっきの創作に向いているという会話からつながっていたのかと腑に落ちた。しかし、と疑問が湧く。物語は多重解決の推理のひとつ、可能性のひとつでしかないのだろうか。それは、疑問であったが、仮にも小説を書いている人間である俺の反感の含まれまれた反語としての側面もあった。


「物語は代替可能だと?」

「そういう意味で捉えられますか。そうじゃないんです。推理Aと推理Bは対等でどちらも成立しうるとするなら両案の論拠であるもの、証拠Aと証拠Bは反目しません。どちらも存在し、証拠Aが推理Bを、証拠Bが推理Aを否定するわけではありません。証拠から推理が導かれるわけではなく、推理によって証拠が存在させられているのです」

「メタ的な視点から見たら多重解決に限らず、真相の手がかりとして、推理のために作者によって配置されているのが証拠というもんだろ」


 いささか穿ちすぎかもしれないが、読者は、とりわけミステリ読みは物語世界に浸りながらも頭の片隅ではそうしたことを意識している。この描写にはなんの意味があるのだろうか、と。聞きこみ調査においてなにかの拍子に事件の話から脱線したり、飲食店に入ったらテレビで一見無関係と思えるニュースが報じられていたりしたら、思ってしまうのだ。このシーンは何のためにあるのか、伏線ではないのか、と。明確に思考とならずとも、読み慣れてくれば経験則からそうした文章にはひっかかりを覚えるようになる。


「では、証拠Cが両案で別の意味を持つとしたらどうです。推理によって意味が付与されるのです。推理がなければそこに意味は生じません」

 前者の多重解決であってもそこは同質だし、ならば多重解決でなくとも、一般的な推理における仮説潰し、余詰めでも変わらないではないか。多重解決を二種に分類する意味が、あるいは多重解決を特別視する意味があったのだろうか。郁子香にしては雑だなという感想を抱いた。


「物語を創造するというのは、そういうことなのだと思います。事件があったところでそれだけでは物語にはなりません。そこに背景があってはじめて物語足り得るのです。事件から、いや別に事件ではなくともいいのですけど、なにかしらの事象から、想像力の翼をはためかせその背景を補い、人と人、物と物の隙間を埋める行為こそが物語るということなのではないでしょうか」

「多重解決うんぬんはともかくとして、隙間を埋めるという感覚はわからなくもない」


 アイデアの種と別のアイデアの種が結びついて昇華されたとき、解決編にも似たカタルシスを得られるのは、点と点がつながり線になるからだ。一本の線となった物語を切り分けて点としてプロットに配する。そうして、出来上がったもの読むときと作るときでは点の配置は異なっているかもしれないが、どちらも点が線となる瞬間が存在している。


「推理にはときには想像力も必要なのです。作中の探偵には、物語の作者には導線など与えられていません。答えが用意されている保障などなく、だから想像によって物語らなければなりません。犯人の行動を詳らかにし、動機や人物像にまで迫るのは、ロジックだけでは到達できません。想像力が、それはほとんど妄想力と言えるかもしれませんがなければならないのです」

 物語るという表記を俺は、どこぞの作家よろしく物騙ると変換したくなった。


「だから、先輩は、『五十円玉二十枚の謎』みたいなのは得意だと思いますよ」

「は?」


 急に登場した固有名詞に面喰って素っ頓狂な声を出してしまう。もちろん、それが何であるのかの知識はあるが、この流れでいきなりそれが出てくるわけがわからない。

『クール・キャンデー』や『ぼくのミステリな日常』の作者である若竹七海が大学時代のアルバイト先の書店で体験した話、それが『五十円玉二十枚の謎』だ。毎週土曜日にその書店に立ち寄り、五十円玉二十枚を千円札に両替だけして去っていく男性というのが謎となっている。


「問題となる謎はいくつもあります。なぜ毎週土曜日なのか、なぜその書店なのか、なぜ五十円玉を二十枚なのか、その五十円玉はどこから来たのか、そしてなぜ毎回同じ行動なのか。与えられた情報は限定されています。そのなかで合理的な解釈をつけるのは不可能です。だからこそ謎になったともいえます。説明できないならばどうするか。そうです。合理的な解釈がつく人物やその背景を想像するのです。そうした行動をしてもおかしくないという男性をいかにしてでっちあげるのか、それこそが『五十円玉二十枚の謎』なのです」


 そんなことを郁子香がまくしたてている間、俺はまったく別のことを考えていた。

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