コンゲーム
郁子香は、驚愕に目を見開き呼吸を忘れたかのように硬直していた。心配になった俺が手をのばし指先が肩先に触れたところで、彼女は復活した。
「バカじゃないの」
何かを追い出すかのように頭を振って息を吐き、郁子香は言葉を絞り出した。自分の口にした台詞が浸透し、それでやっと本調子に戻ったのか彼女は矢継ぎ早に発言する。
「ほんと、バカじゃないんですか。仮に、仮にですよ、先輩の言っていることが正しいのだとして、自分でバラしたら意味がないじゃないですか。目的が達成できてません。暗号を解いて敬われたいのなら、偽の犯人が要るでしょう。先輩が取るべき態度は、偽の犯人によって書かれた暗号を解きそして犯人を暴くというものです。しかも、そうしたとしても、私が偽の犯人に接触すれば、彼か彼女かはわかりませんがその人物が犯人ではないとバレてしまいます。口止めするんですか? 共犯として巻きこむんですか?」
ちょっと待っくれ、そんなにまくし立てられても頭が追いつかない。そう口を挟みたかったが彼女は止まらない。
「それに、私が先輩に知らせる前に、
一気にまくしたてていた郁子香だったが、そこで不意に言葉を途切れさせ「ところで」と話を転換させる。
これから本題なのだなと俺は察する。
「暗号は、本当にわかったんですか?」
「いや」首を振りお手上げのポーズをする。「まったく。全部ウソだし」
暗号を解けると犯人は知っていたという郁子香の指摘は奇しくも俺の胸をえぐった『二銭銅貨』の逆と彼女が称したアイデアは俺が小説に使おうとしてできなかったボツネタだったからだ。送る側と受け取る側、その両者が暗号解読のプロセスをどうやって共有していたのかという問題を上手く処理することができず、結局そのままお蔵入りとした。
偶然にもまたしても俺は自分の小説の不備を指摘されてしまった。むろんボツにしたのだから小説にはなっていないが、解決できずに葬り去るはめになった俺の無能さを言い表されたような心地になった。
だから、俺にミステリセンスがないわけではないと証明したくなった。郁子香に対抗することもできるのだと反抗心を燃やし、嘘をついてまで彼女をやりこめようとした。
結果、このざまである。
驚かせることはできたのかもしれないが、それ以上でも以下でもなかった。意表をつくだけなら突拍子もないことを言うだけでよいが、欺こうとするのならば、嘘としての説得力を持たせなければならない。矛盾がなく一切合切が説明でき相手を納得させられてこその詐術だ。俺にはそれができなかった。
こうもあっさりと反論されてしまうと自分の能力の低さを認めるしかなく、素直に郁子香に訊ねることができた。
「それでむっちゃんは解けたの?」
降参しました、負けです、さっさと解決編に入ってくださいとタオルを投げたつもりだった。郁子香の解説を大人しく傾聴するつもりだった。
しかし郁子香は「いえ」と否定する。
「え? 解けてないの。じゃあなんでそんなに余裕なんだよ」
「情報が足りなければどうするのか? 決まっているじゃないですか、捜査するか、待つか。不足している情報を集めるのですよ。焦ったところで状況は好転しません。焦りは禁物です。どんと構えていればいいんですよ」
「いや、でも。待ってたってどうにもならないだろう」
「暗号はメッセージなんですよ。伝わっていないと知ったら犯人が接触して来ますよきっと」
「犯人は、暗号を解けると確信していたんじゃなかったのかよ。二人は鍵を共有しているんじゃなかったのか」
「それは犯人がそう思っているという話です。犯人がそう考えたからといって実際にそうだとは限りませんよ。勘違いや思いこみだってあります。私が解き方を知っていると信じていた犯人が、メッセージを暗号化してノートに書いた。それはそれで、なぜそんな考えに至ったかって問題がありますけど、そこは情報が足りませんからね。誰が書いたのか判明すればまだ推理のしようもあるんですけど」
「なんというか、あれだな。コンゲームめいてきた。相手が知っているという事実を知っているというだけでもそうだが、そこからまた一捻りあるってのがな」
コンゲーム、原義としては信用詐欺を指す単語だが、俺はもう少し拡張された意味合いで言った。騙し合いだとか心理戦といったところだろうか。
郁子香は暗号が解けなかったと主張しているがそれは犯人に対するポーズという可能性もありそうだ。暗号は解けたが、そこから犯人を特定することができなかった。そこで、解読できなかったふりをして犯人をおびき出そうという作戦ではないか。犯人としては伝わるはずだったメッセージが伝わっていないのだから、再度接触せざるを得ない。そこを取り押さえるか、はたまた新たな手掛かりを掴むか。
「コンゲーム、いいですね。暗号というのはコンゲームと相性がいいんですよ」
「戦時の暗号でも、解析して偽情報流したりとかあるし、暗号と言えばスパイ、スパイと言えばコンゲームってくらいだもんな」
ふと見下ろした長机には、スマートフォンが出しっぱなしになっていた。点字表の検索で使用して片付けるのを忘れていた。念のため再度ロックを解除してから意識的にロックをかけて制服の内ポケットに入れる。携帯端末は個人情報の塊だから用心するに越したことはない。
郁子香のほうを向き直ると話したくて仕方ないといった表情をしていたので俺は先を促した。
「ダイイングメッセージだってコンゲームのようなところがあるんですよ」
「暗号ものの代表かもしれんけど、そこに駆け引きなんかあるか」
「ありますよ。たとえば、先輩が私に刺殺されたとします」
「物騒だな」
赤い九文字の暗号から連想した光景が脳裏に蘇る。
「先輩は致命傷を受けて虫の息ですが、まだかろうじて生き長らえています。いまにも命の灯は消えようとしています。今から追いすがって犯人に反撃することは叶いません、ならばせめてもと、死力を尽くして犯人の名前を血文字で記します」
「そこまで俺はアホじゃないわ。何かの拍子に犯人が戻って来たら消されるだろ。明らかに自分の名前を書いてあるんだから」
「ですよねー。そこで暗号の登場です」
「身体で隠すとかのほうがまだ確実だろうが、話が進まんだろうしまぁいいわ」
「しかし、告発しようという先輩の努力もむなしく現場に戻って来た犯人は暗号を発見します。さてそこでどういった反応をすべきでしょうか」
「そりゃ消すだろ。血でなにか書かれていたら怪しいわ」
「その通りですね。けれど、先輩と違って聡明な犯人はこれを利用できるのではないかと気づきます」
この仮定の話では被害者は俺で、犯人は郁子香だ。自画自賛も甚だしいなと内心でつっこみを入れつつもそんなことはおくびにも出さず、「改竄か」と合いの手を入れて話の流れを理解したと示す。
「そう改竄です。意味のないものにするのもいいでしょう。けれど犯人は暗号が自分を指していることに思い至り、そしてそれを逆手に取ります。偽の犯人を示すように書き換え、自分は容疑から逃れようと企みます」
「ありがちだな」
「ありがちですね。だからこそ、現場で刺された先輩はそうなる未来を予見していました。だから、改竄を想定して暗号を書きます」
「ん? どういうことだ。二つ用意して片一方を囮にし本命は見つかりにくいところに書くとか、改竄によって本当のメッセージが浮かびあがるとかか」
「残念、ハズレ。それでもいいんですけど、今回は違います。書き足されても大丈夫なようにするんです。口紅や絵具で暗号を書き、指先に自分の血を擦りつけ、いかにも血文字を書いたように偽装。そうと知らず得意になった犯人は暗号を解いてその法則に則り偽の犯人を指すように修正を加えます。血によって」
もはや犯人と被害者が俺たちふたりという仮定はどこかへ行ってしまったが、本筋ではないようなので指摘する気分にはならなかった。
「なるほど。それが捜査によって露見すると。犯人と被害者のどちらが上手を行っているかという騙し合いだな。まさにコンゲーム」
「でしょう」
得意げに郁子香が胸を張る。
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