暗号鍵

 ブラウザから点字表を検索してスマートフォンの画面に表示させる。ネタ帳――小説のアイデアを書き留める用につい先日購入したばかりの手帳、それから筆記用具をリュックから取り出して、一文字ずつ点字にしていく。


 できあがったのがこれだ。

 

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     (横書き表示ver.)


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     (縦書き表示ver.)

 

 点字というのは2×3の六マスに凸面を打つことによって文字を表記する方法だ。点を打つというのはオンオフのオンであるからして、ゼロイチ信号によっても表現できる。つまり点字はコードに変換できる。


「なにをやってるんです」

 郁子香の声に顔をあげると、彼女は文庫本を手にしていた。俺が奮闘している間、やけに静かだと思ったら読書をしていたらしい。余裕綽々じゃないか。


「暗号解読だよ」

「解けました?」

 そう言いながら文庫にピンクの栞をはさんで閉じると、長机の上の手帳をのぞきこんでできた。彼女に見やすいよう手帳を回転させようとしたが、郁子香の反応のほうが早かった。


「『二銭銅貨』の逆ですか」

 ちらりと見ただけで郁子香はそれに思い当たったようだ。

「とりあえず点字にしたとこだな」


「それで、そこからどうするんです? ボーコードですか? アスキー? JISコード?」

「どれが正解かはやってみないことには」

「他にもモールス信号という可能性もありますよ。しかも、モールス信号は英語と日本語があります。それにツーとトンどちらを点にするかという問題も」

 総当たりするのを想像しただけでげんなりして俺は顔を歪める。


「レイ兄」

 俺の表情がよほど酷かったのか、郁子香は慰めるような、あるいは甘えるような優しげな声で俺を呼んだ。


 俺の背中を追いかけ「レイにぃ、レイにぃ」と舌足らずに繰り返していた幼少期の姿が想起されたが、同時にその声音は現在の彼女にはどこかそぐわないように感じられた。


 成長して体格こそ変化したが、それでもまだ彼女は中学生と見紛うほどに小柄だ。容姿には幼さが残っていて、そこには若さよりも未熟さが滲んでいる。だから、幼児めいた媚びを孕んだ声はむしろそのルックスとマッチしている。

 精神的にも成長し年相応の振る舞いを身に着けてはいても、ときおり暴走し性格の根っ子は変わっていないのだと実感し、ちょとした仕草や口調に昔の面影を重ねるたりもする。


 本来ならば、甘い声に違和感など抱くはずはながったがそれでも、俺は、郁子香らしくないと思った。


 そんな感想がなぜ湧いてきたのか深く考える間もなく、郁子香は次の言葉を口にする。

「考えるところが違うんです」


「どういうことだ?」

?」

「は?」


「だってそうでしょ。暗号というのはメッセージです。メッセージであるのならば伝わらなければいけません。そして、メッセージを送った相手とは私に他なりません。よって、私が暗号を解けると犯人は知っていた、確信していたことになります」


 そうだ。相手が理解できない暗号はただの記号でしかない。解読されるという自信があるからこそ、暗号にできるのではないか。そして、そのためには暗号鍵が、解読のプロセスが両者に共有されていなければならない。


 暗号というのは鍵がついた箱のようなものだ。箱が送られてきても鍵がなければ、中身を入手することは叶わない。相手が鍵を持っているのかも不明なのに、鍵のかかった箱を送って物品のやり取りをするわけがない。合鍵を持っていると把握しているからこそ、箱を送れるのだ。


 郁子香の言っていることは間違っていない。しかし、俺は、ミステリ読みとしての矜持から、前提を覆し論理のアクロバットを決めたくなった。

「本当にそうだろうか」と疑問を投げかける。


「どこかおかしなところありましたか」

「前提というのは疑ってみるべきだ」俺は嘯く。「本当にこれはむっちゃんに向けて書かれたものなのだろうか」

「それは間違いないでしょう。だって、私のノートじゃないですか」


「たしかに、そうだ。けど俺は今、こうしてこの暗号を目にしている」

「それは先輩が小説のネタが欲しいと言ってたから……」


「確かにそうだな。たいした日常の謎だよ、ありがとう。けど、考えてみなよ。俺がネタを渇望していること、むっちゃんがそれを把握していること、その両方を知っている人間ならば、むっちゃんが俺にノートを見せると想像するのはそんな難しいことじゃない」

「暗号は先輩に宛てられたものだったと」


「その可能性だってあるだろ。むっちゃん、俺が小説書いてることかネタ探してること誰かに言った?」

「言うわけないじゃないですか」


「俺も言ってない。二人だけの秘密だな」

「そうですね」

 郁子香は小さく笑いを漏らしたが、すぐに目を伏せて表情を引き締めて俺を見返してきた。


 視線が交差したタイミングで俺は言う。

「なら犯人は俺かむっちゃんだ」

「ちょと待って下さい。なんでそういう話になるんですか! そもそもですね、そんなに回りくどいことしてどうなるというんです」


「決まってるじゃないか。暗号を解くんだよ」

「私がですか?」

「いや違う」

 俺は言葉を一端切り、もったいぶるようにしてゆっくりと立ち上がった。俺を見上げる郁子香の瞳をじっと覗きこむ。


「俺が暗号を解く」

 郁子香は目を反らさなかった。しかし、数度の瞬きで、茶色い虹彩にかかった影が揺れ、その透き通った瞳に動揺が映されるのを俺は見逃さなかった。 


「俺によって解読されること、それこそが犯人の目的だ」

 郁子香にとって予想外の言葉だったのだろう。しかし、俺が断言したことが、逆に彼女に火をつけてしまったようだ。思考の揺れに言葉を詰まらせていたのは、ほんの一瞬だけだった。


「それでどんな利益があるというんですか。犯人か先輩なわけがありません。自分で解くために先輩が私のノートに書くなんてバカなことしないでしょう。犯行現場を押さえられるリスクだってあるじゃないですか。なぜ自分のノートじゃないんです。それを私に見せれば十分でしょう。自作自演を疑われるのを避けるために、わざわざ私のノートに書いたんですか? だいだいですね、あの赤文字を見たとき、何も事情を知らないというふうだったじゃないですか。あれは全部演技だったとでもいうんですか。違いますよね。それなら、先輩の説にのっとると私が犯人です。けど、先輩が暗号を解いたとして私に何のメリットがあるんです」


「自分で解くためにむっちゃんのノートを使うのはバカなことか。たしかにそうかもな」語りながら自分でも可笑しくなってちょっと笑ってしまう。「……でも俺はそれをやったんだよ」


「だから、なんのためにですか」

「それはもちろん、むっちゃんの感心させるためだよ。複雑な暗号を解けば敬意のまなざしをむけられ、気を引くことができるじゃないか」


 郁子香が絶句する。

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