試行錯誤

 ノートの、九つの赤字が並んだページを俺は再度検分してみたが、やはりなんの変哲もないただの紙だった。このページ自体に仕掛けはなさそうだ。指で表面をなぞってみてもつるりとしている。フロッタージュのように鉛筆等でこすれば字が浮き彫りになる微細な凹凸があるわけではない。フリクションペンで書いた文字を消した場合やあぶり出しであったとしても痕跡は残る。透かせば何か見つかるかもしれないと、頭上に掲げて蛍光灯にかざしてみたが、染みやペン跡らしきものは発見できなかった。どうやら赤マジックの文字自体はミスリードで本命が別にあるわけでもなさそうだ。


 こうなるとまっとうに暗号を解読しなければならない。郁子香にできたのだから、嗜好を同じくするミステリ読みの俺にできないわけがない、そう奮い立ってみたがすぐに挫けそうになる。


 まず思い当たるのはアナグラムだ。九文字の順番を組み替えるとするとなると、重複するがないので9!9の階乗通り、実にその数362880ものパターンがあることになる。そこから意味を成すものを発見するとなると至難の業だ。

 字面を眺めて直観に頼ろうにも、任意のいくつかの文字からできる単語でさえ考えつけない。一個単語ができればそれをとっかかりとできそうなのに、最初のひとつすらひらめけないという体たらく。


 この種の問題は苦手だった。読書中もノート片手に疑問点を書き出したりタイムテーブルを製表したりしている郁子香と違い、俺はそんなマメではない。捜査のシーンでアリバイの証言があっても、いずれ探偵役がまとめてくれるだろうと情報を頭のなかで検討することなく流し読みしてしまう。作者を信頼していると言えば聞こえがいいが、ページをめくる手を止めて考察するのが面倒なだけだ。自分がトリック頼りの話ばかり執筆しているのも、そうした気質に起因しているのかもしれない。


 正攻法で暗号を解くというのは、俺が不得手とする煩わしい作業をこそ要求される。『黄金虫』の換字式暗号からして英語において最も使用頻度の高いeを起点として、どの文字がどの文字に対応するのか順番に埋めて行く骨の折れるプロセスを要する。五十音やアルファベットの表を用い文字をずらす手法にしても、どちらの方向に何文字シフトするのかを突き止めるためには、適宜当てはめながら検証しなければならない。俺向きではなかった。


 これは頭を切り替えるしかない。

 九つの文字は、サイズを小さくすれば一行に収めることもできたはずだ。マジックが太いので字が潰れるというのなら、ノートを九〇度回転させればよいではないか。罫線を無視しているわけだからノートの方向を変えたところで問題は生じないだろう。だというのに、透明なマス目があるかのように、きっちりと字間行間字幅を揃え3×3の体裁で書かれている。


 これは何かを企図したせいではないだろうか。

 九つの正方形のマスを三段三列で設えてできた大きな正方形を思い描き、俺はそこからテンキーを連想する。たしかに赤字はテンキーの配列と酷似しているが、さて、ここからどうしたものか。それぞれのひらがなに数字を振って行きそこから……。


 九つの文字、正方形。

 魔方陣か、とすぐに俺は思い当たった。しかも、3×3のマスに一から九の数字を一度ずつ入れてできる魔方陣は上下左右反転を除けば一種類しかない。これで間違いないと胸中で快哉を叫ぶ。


 赤文字の暗号をテンキーになぞらえるとこうなる。

 

 ぬ へ ら   7 8 9

 む ほ と → 4 5 6

 み あ ん   1 2 3

     (横書き表示ver.)

 


 ら と ん   9 6 3

 へ ほ あ → 8 5 2

 ぬ む み   7 4 1

     (縦書き表示ver.)


 九マスの魔方陣は

 

 4 3 8

 9 5 1

 2 7 6

     (横書き表示ver.)


 8 1 6

 3 5 7

 4 9 2

     (縦書き表示ver.)

 

 となって縦横ななめどこを足しても十五になる。

 そして、この数字に合わせてひらがなを入れ替えると

 

 む ん へ

 ら ほ み

 あ ぬ と

     (横書き表示ver.)


 へ み と

 ん ほ ぬ

 む ら あ

     (縦書き表示ver.)

 

 となって「むんへらほみあぬと」となる。

 あれ? おかしい。まったくもってダメじゃないか。意味がてんでわからない。縦書きとして読んでみても「へみとんほぬむらあ」で意味不明もいいとこだ。反転させるのかと左右反転でやると「へんむみほらとぬあ」で上下反転では「あぬとらほみむんへ」上下左右反転では「とぬあみほらんへむ」でどれも謎の文字列のままだった。


 我ながら魔方陣というのは良い発想だった。九文字だと一通りしかないのだからこれこそが正解だと確信していただけに、徒労感がひどい。


 気を取り直し、ではテンキーの数字ぶんだけ文字をずらすのかと次の案に移る。の次はでループすると仮定し、後ろシフトならばと試行してみるが、三文字やったところで「ほゆい……」となって文章にはなりそうにないのでボツにする。同様に、前シフトも「たなほへの……」の五文字で打ち切った。


 テンキーのアイデアは間違いか。見栄えを意識してこのスタイルになっているだけで、その並び方に含意はないのかもしれない。


 これは案外、ごくごく一般的な暗号なのかもしれない。パソコンのキーボードの文字の割り当てを利用してひらがな⇔アルファベットに置換する、俗にみかか変換と呼称されるものをやってみようとするが、肝心のキーボードが手元にない。


 しかし慌てるなかれ、スマートフォンの登場だ。

 ブレザーの内ポケットから取り出して指紋認証でロックを解除し、ブラウザから「みかか変換」で検索する。俗称の所以を解説するページやキーボードの画像あたりが表示されると予想していたが、ありがたいことに変換ツールがヒットした。ネットってすごい。誰だか知らないけどありがとうございます。


 さっそく文字を入力してボタンを押すと、あっという間に結果が出力される。


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 文字化けじみた文字列が俺を落胆させる。なんだよこれは、ローマ字ですらない部分が大半じゃないか。「ぬへらむほとみあん」をローマ字にしてから試してみても、「みなくいすちもなくらからもにちみ」で文にはならない。

 もしかして、二重三重のプロセスが必要なタイプの暗号なのだろうか。「みなくいすちもなくらからもにちみ」のアナグラムだとか、ポケベル入力方式で数字に置き換え、そこから何等かの手段によってひらがなにするとか。


 もうお手上げだ、めんどくさすぎる。俺には適性がなかった。幾度となく間違っても挫けることなく、地道に手順を踏んでいける不屈の精神を有したものでなければこんなものは無理だ。

 そう諦めかけたところで、ふと思い当たるものがあった。二重の変換が必要というのならばアレがあるではないか。

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