第4話

 季節のうつろいに伴って、わたしたちは白い靴下を黒い長靴下(ストッキング)に履き替えました。そして黒い革靴で、雪やひどい雨が降るときは短いブーツで、瀝青(アスファルト)の路を歩きました。学校には毎日通っていたのに、このころわたしは何をしていたのか、感覚も思考もひどく鈍くなっていました。自分が操り人形になったようで、今ここにいるのだという実感が持てず、ふらふらと生きていました。起きることの全てが無声映画のように、スクリーンを隔てて、時間も空間も遠いところで起きているように感じられました。それでもいったいどうやっていたのか、英語や漢字の小テストを受けたり、数学の予習をしたり、指名されて黒板に答えを書いたり、美術でステンドグラスを作ったり、放課後の水泳部で泳いだりしていました。

 しかしどうしたわけかこの頃、学校でも家でもない場所で、多くは通学の途中で垣間見る、名も知らぬ人たちが営んでいる暮らしの一面に、無性に心惹かれ、同時につんとするような哀しい気持ちになることがありました。

 交差点で信号待ちをしている間、六歳くらいの女の子のワンピースの後ろのリボンを、母親が結び直している仕草。おそらく路上生活者のおじいさんが、日雇いの仕事なのでしょうか、雑誌を売っている様子。社会人らしい中年の女性二人連れが横断歩道を渡ろうとするが、まだ信号の色が青に変わっておらず、慌てて戻り、互いに失敗を笑いながら腕を叩き合う、その親密な様子に。人恋しさとも保護欲とも何とも言えぬ、切々とした感情を抱くのでした。


 学校ではおかしな過ちを随分していたようにも思います。受け答えもぼんやりしていましたし、教科書を忘れたかと思うと翌日には昨年の古い教科書を持って行っていたり、午前の授業が終わったところで家に帰ろうとしたり、曜日を間違えたり、散々でした。友人たちは初め笑い、次に冗談交じりに心配してくれましたが、わたしは彼女たちにこんな複雑な問題を打ち明ける気にはとてもなれませんでした。とにかく気軽な、他愛もない、楽しい話をしていたかったのです。

 部活動においてもわたしは全く腑抜けでした。号令に遅れたり、下級生に混ざって泳いでしまったりといったミスが続き、とうとう顧問の池田先生も怒るというより呆れたように、桜枝、しっかりしなよ、と言うばかりになりました。けれどそれは、そこまでで留まりました。深刻に心配されるには至らなかったのです。ひとは案外と他人に対して鈍いものです。一対他であればなおのこと。先生はきっとわたしが抱えているものに思い及びはしないのでしょう。わたしはそのことに安心してもいました。誰かが手を差し伸べて救ってくれることをうっすらと思い描きながら、けれどわたしは決してそれを本気で望んではいなかったのです。どんな方法を使っても、この現実を拭い捨てることは出来ないのですから。どんなに時間を巻き戻してみても、目に見えないひずみは、いつでもわたしたち家族のどこかに内在していたのでしょう。けれど、これで鳳仙さんに少しでも近づけただろうかと、わたしはそんなことをも心の片隅で思っていました。


 わたしは部活動のない放課後、一人でプールにやってきました。鍵の場所は部員なら誰でも知っています。東棟に入ってすぐ、二つ並んだ小部屋のうち、左側の部屋の中に掛けられています。けれど事故が起きるといけないというので、一人でプールに入ることは許されていませんし、誰もそんなことを、しようとも思っていない筈です。

 それでもその時わたしは何だか一人になりたくて、ここにやってきました。一人になりたいなんて、何だか鳳仙さんみたい。すました気分でシャワーを浴びたのに、誰もいないプールで、たった一人で水着を着、水泳帽を被って立っている自分の存在は、案山子のように滑稽で寂しく感じられました。

 のろのろと、水に入ります。水底にもぐります。青い世界の中、身体が浮かびます。ただただ、まっすぐにクロールを繰り返し、ターンを繰り返し、飽きもせず泳ぎ続けます。ここにはわたししかいません。プールは巨大な一枚の鏡のように、わたしの動きだけを映し、わたしが立てる水音だけを反響させます。色とりどりの花を、葉を美しく仕立てあげて飾ることなど、わたしにはできません。鳳仙さんのような細やかな感性をもたないわたしには、ただこうして、単純な動作をがむしゃらに続けていくことこそが、お似合いなのです。

 部員たちと一分一秒を争うように泳ぐとき、わたしには何を考える余裕もありません。けれどこうしてゆったりと泳いでいると、様々な思いが浮かんできます。母の表情が、級友の言葉が、夢美の声が、鳳仙さんの横顔が、わたしの頭の中によみがえってきます。

 疲労感につつまれながらシャワーを浴びるとき、涙があふれてきました。それは血のようにぬるく、洗い流しても、洗い流しても、あふれてきました。



 鳳仙さんの薄い手が、花材のための水に赤らんでいました。鳳仙さんの指先が姿を変えた鋏を見ながら、わたしはポツリポツリと、誰にも話す事の出来なかった、父と母の行為について話しました。

「どう思う? どうしたらいいのかな」

 わたしは卓(テエブル)に視線を落としました。鳳仙さんに答えを求めていたわけではなく、ただ、やり場のない思いが零れただけでした。きっとわたしは脈略のない話をしていたのでしょう。

 鳳仙さんはひんやりとした目で私を見ていました。鳳仙さんはずっと、ずっと、鳳仙さんのお母さんに対する失望を抱えて生きてきたのでしょう。あるいは初めから、わたしが持っていたような母への思いを持たずに、知らずに育ってきたのかもしれません。わたしが母に母親の役割を、家族への愛を期待していたこと、今までそれらを疑わずにぬくぬくと育ってきたこと、そんな甘さを見透かされているようにも思えました。

 やはり、鳳仙さんはずっと離れたところにいるのです。初めからずっと、そうでした。同じ学校の同じクラスにいながら、わたしの知らないことをたくさん知っている、理解することのできない、触れることのできない存在。それでもどうしてこんなに、わたしは彼女に惹かれてしまうのでしょうか。鳳仙さん……りるかさん、がわたしに振り向いてくれると嬉しくて、何か話しかけてくれると嬉しくて、笑ってくれると嬉しくて。けれど同時に、言いようのない凍てつく痛みに心臓をわしづかみにされるのです。

「……寂しい?」

 不意に鳳仙さんは言いました。けれどそれは、もしかしたら、私に言っているのではなかったのかもしれません。

 小さなため息をつき、彼女は花鋏を置きました。何百年もの間凝ったかなしみのような蒼い玻璃の器に、艶のある琺瑯(エナメル)の六弁花、線状の葉のついた枝、そして花のように赤い、けれど花ではない、大きな葉、雪を模した綿。

 作品を見つめていた鳳仙さんが、ほんのわずかに笑ったように見えました。星に向かって振られた幼児の小さな手のような、さみしい笑いでした。わたしを取り巻く乳色の平穏が崩れ、鳳仙さんに少しだけ近づいたことで、彼女がわたしを受け容れてくれたのではないか、と。思い過ごしかも知れませんが、わたしにはそう見えました。

 鳳仙さんは切り落とした葉や枝を無造作に新聞紙で包んで捨てると、陽の当たらない卓の端に花器を移動させました。礼法室には西日が差していました。透明な窓ガラスの向こうに、欅の木が揺れるのが見えました。冬の冷たい空気が、この石造りの建物に吹き付けていまるのでしょう。

「行く? 一緒に」

「……え?」

 鳳仙さんの横顔は相変わらず彫刻のように無機質に整っていました。

「行きたくなったら言って、いつでも。」

 わたしが彼女から目を離せなかったせいか、鳳仙さんはこちらを振り向くと、じっとわたしの顔を見つめました。もの憂げな目もと、滑らかな頬、ふっくらとした唇。それから。

 ……接吻でした。

 鳳仙さんの唇の甘やかさ、柔らかさ。しっとりとした温もり。間近で閉じた瞼に、重なった睫毛が一層映えて見えました。わたしも目を閉じました。啄むような鳳仙さんの唇の動きが、わたしの唇にじかに伝わってきました。わたしの頬に添えられた鳳仙さんの手は、かじかみそうに冷えていましたが、わたしはそれをすぐに温めてしまいました。

 他人と粘膜を触れ合わせるのは生まれて初めてで、それはあの思い焦がれた鳳仙さんで。恐ろしいほどの快美にわたしは総毛だちました。鼓動がわたしの肉体の最深部から耳へと伝わり、響き渡っていました。未知の感覚に、わたしはいつの間にか鳳仙さんの腕をつかんでいました。もっと、もっと欲しい。この人が。

 いつまでも続けばよいと思った時間は、あっけなく終わりを告げました。鳳仙さんはわたしから身を離すと、何も言わずに立ち上がり、くるりと背を向けて部屋を出ていってしまいました。

 わたしはすぐ彼女を追おうとしました。でも、身体が痺れたように重く、だるく、動くことができませんでした。見捨てられたような寂しさと気恥ずかしさが滞っていました。

 活けられたばかりの花が、完全な美しさを持ってそこにありました。



 その時の出来事を、わたしは何度も思い返しました。その度に、胸がギュッと引き絞られるように痛み、鼓動は早まりました。家にいても、授業中でも、通学途中でも、一度思い返すと、他のことはもう何も考えられませんでした。二段ベッドの上に一人でいるときは、好きなだけ鳳仙さんの画像を見ることさえ出来ました。文化祭で写されたその写真は、光の加減が良くなく、来場者の鞄や足も無粋に映り込んでいましたが、わたしは鳳仙さんの姿ばかりを拡大して何度も何度も眺めていました。父の行動や母の行動や華やかな級友たちの男女交際と、わたしの想いは、わたしにとって不連続でした。決して交わらない、ねじれた線と線でした。彼女を思い返している間、わたしはおおけなくも、大ぶりな赤い宝石を嵌め込まれた王朝時代の宝冠のように熱く充足しました。けれどどんなに求めても、求めても、鳳仙さんの心はどこか遠くにあるのです。わたしに向ける視線も言葉も愛撫も、きっと何らかの気まぐれ、子供の遊びのようなものにしか過ぎないのです。

 鳳仙さんは人魚姫でした。わたしは魚でした。鳳仙さんはわたしを魅惑しましたが、わたしと鳳仙さんの姿はずいぶん異なっていました。水から出られないわたしと違い、鳳仙さんは岩に上がって風を浴びながら街を見やっていました。わたしは鳳仙さんが気まぐれに水に潜るときだけ彼女に会うことができるのですが、船員たちのように、彼女が歌いかけるのを聴くことはできないのです。鳳仙さんに焦がれ、近づこうとすればするほど、わたしは息苦しくなって、ついには――……。



「望美、ちょっと来なさい!」

 大声がしたかと思うと、母が乱暴にドアを開けて部屋に入ってきました。そしてわたしのイヤフォンを外すと、両手で顔を挟んで母の方を向かせました。そんなふうに扱われたのはずいぶん久しぶり、幼いころに叱られた時以来で、そのただ事ではない様子にわたしは面食らいました。

「いま、学校から電話があったのよ。あんた、鳳仙りるかさんって人と変なことしてるんですって?」

 破鐘のような母の声。時が止まりました。

 ああ、クラスの不穏な敵意は……わたしに直接刺さってくることはなかったものの、わたしからすこし離れたところでヒソヒソと渦巻いているのでした。誰か、放課後の礼法室を覗いていた人がいたのでしょうか。それとも単にわたしが鳳仙さんとよく会っていることを大げさに言い立てた人がいるのでしょうか。わたしの態度があからさまに異様だったのでしょうか。長谷川さんか誰かが面白半分に先生に言いつけたのでしょうか。そう言えば、すこし前に、水泳部の友人がわたしのことでからかわれてるのを目にしたことがありました。“桜枝さんと一緒にいて、触られたり襲われたりしないの? 気をつけてね”、と。なんてひどい屈辱……わたしは見境なしに他人を襲うような人間ではありません。わたしは――


「望美、聴いてるの?」

 肩に衝撃が走りました。母の呼気が犬の息のように熱く感じられます。

「だらしないことしないように女子校に入れたのに、男子がないからって女同士で恋愛ごっこなんて、汚らしい。あんたは手がかからないと思っていたのに!」

 耳元で響く母の一言一言が、まるで狙いを定めたかのように、私の神経細胞を一つ一つ不愉快に昂ぶらせていきます。更に腹立たしいことには、わたしは夢美のように素早く的確な反論ができないのです。たった一言、こう言うのが精一杯でした。

「……お母さんだって、よっぽど変なことしてるじゃん」

「なんてこと言うの! ママはお友達と仲良くしているだけよ」

「わたしだって、友達と仲良くしているだけだよ!」 

 そう、わたしと鳳仙さんは恋人同士でもなんでもないのです。もしそうなら……もしそうなら、たったひとつの希望になったかもしれないのに。いいえ、わたしの大切な希望、それは……。



「今日はどうだった? 最近調子いいんじゃない、テストも」

 虚飾のイルミネーションがさんざめく雑踏の中、わたしはなんとか夢美の話し声を聞こうとしていました。

「うん。クラス編成が変わってさ、中谷くんっていう子が来たんだよね。やさしくって頭いいんだよ! テストの時番号順で隣りに座るんだけど、答案見せてくれるの」

 わたしは耳を疑いました。

「ちょっと、夢美、それって……」

「なに?」

「何、じゃないよ! カンニングじゃない! いけないって思わないの?」

「なんで? みんなやってるよ」

「そんなことして、本番の試験のときはどうするの! カンニングして良い点とっても、頭が良くなるわけじゃないんだよ」

「わかってるよ、そんなの」

 夢美は悪びれずわたしに向き直りました。

「わかってないのは望美だよ。勉強したら頭良くなると思ってるんでしょ。そんなの望美とか、もともと頭がいい人だけだよ。中谷くんだってちゃんと勉強してたのにAクラスから落ちてきたんだよ」

 わたしは目眩を覚えました。家族のいさかいから守ろうとしていたこの子は、まっとうな両親も持ち合わせていなかったのでしょうか。

「そんなこと言ったって、カンニングしていいわけないでしょう」

「はぁ? 望美にだけは言われたくないんですけど! 勉強してもアタマ悪い人の気持ちなんかわかんないでしょう? あたしだけしなかったら、あたしだけ点が悪くなるんだよ! そんなのバカみたいじゃん!」

 夢美の声はキンキンと高くなり、今にも掴みかかってきそうです。ここは往来なのに。

「わかった、わかった、悪かったから、とりあえず家に帰ろう」

 わたしはともかく夢美の腕を引きました。夢美は荒々しくそれを振りほどきました。



 玄関を開けると、丁度母も帰宅するところでした。母はデパートの店員さんのように紫色に光るアイシャドーをつけ、アンゴラのコートに、見たこともない華やかなモザイク模様のストールを巻いていました。

「お帰りなさい。望美、ありがとう。夢美、そのマフラーほんとによく似合うわね」

 母は上機嫌でした。夢美は道彦さんとやらがくれたマフラーを巻いていました。わたしは何年か前に家庭科の授業で自分で編んだ毛糸のマフラーを巻いていました。縄編みの飾りがなかなかうまく入れられていて、わたしはそれを気に入っていました。確か、成績も高評価でした。

「ママは疲れちゃったから夕飯いらないわ。二人で食べて頂戴。そうそう、お菓子あげるわね」

 母はそう言って、高級店のチョコレート菓子をわたしたちに差し出しました。わたしは憮然としていましたが、夢美が喜んで受け取りました。わたしがいらない、と吐き捨てたのに、母は軽やかな足取りでソファに掛け、テレビをつけました。

 お腹すいた、ホットケーキを食べたい、と夢美が言います。わたしは先程のことがあって逡巡しましたが、結局制服のまま台所に立ちました。泡だて器で卵を溶き、粉と牛乳と混ぜます。フライパンにサラダ油を温め、生地を流し込んで蓋をします。……早く作らないと。わたしは気が急いていました。気づかずに、いつもより強火で作っていました。結果、ホットケーキの外側は焦げ、中は生になりました。こういう時、母は以前であれば、機嫌がよければ初めからわたしたちの分を作ってくれましたし、機嫌が悪ければ悪意のない嫌味の一つも言ったのですが、もう何も言いません、わたしたちに何の関心もなさそうでした。

「もういいよ、チョコ食べる」

 振り向きもせずに夢美は自室にこもりました。自分で作ろうとは言わないのです。いつものわたしなら、ちょっととがめて別のものを一緒に作るか、何かを買いに行くかしたでしょう。でもわたしにはもう。

「そんなこと言っちゃだめよ、夢美。ねえ聞いて、望美」

 気のない声で夢美をたしなめ、待ち構えたように母が寄ってきました。それから携帯電話を見つめながら父でない人の名を告げ、その人の言葉だとか、仕草だとかについて、何かたわいもないことを話し始めました。はしゃいでいるのです。父は、このことを知っているのでしょうか。

「……まだやってるの」

 愛想笑いをするほど、わたしは忍耐強くはありませんでした。力を込めて言ったつもりが、声は途切れ途切れに破れて出てきました。わたしはこのときもう、くしゃくしゃに丸められ、ゴミ箱に投げ捨てられた紙くずと同様でした。もう一言でも何かを話したら、涙が零れ落ちることが分かっていました。わたしは自室に戻る振りをして、部屋を出たまましばらく廊下に立っていました。ちらとドアのガラス越しに居間の様子をうかがうと、母は既に携帯電話の画面に夢中になっていました。

 わたしはもう一度コートを着、そっと鞄を持つと、音をたてないように鍵を開けて家を出ました。そして、先ほどまでいたS駅に向かいました。



 粉糖(シュクル・グラス)をふるったような聖い雪が、冬の街をあえかに濡らしていました。

 わたしは途方に暮れて駅に立っていました。目的を持ってせわしなく行き来する人の中で、所在なさがまといつきました。携帯電話を手に取ると、家族からは着信もメッセージもきていません。何分か躊躇った後、わたしは初めて、鳳仙さんにメッセージを送りました。

“どこにいる?”

“いまどこ”

 鳳仙さんの短い、淡白な返事がすぐに来ました。

“S駅東口のATMのあたり”

“すぐ行く”

 言葉通り、鳳仙さんは十分ほどで現れました。黒いダッフルコートの裾から、わたしと同じ制服がのぞいていました。わたしと同じ黒いワンピースに、木香薔薇の刺繍が入った白いセーラーカラー、シルクのスカーフの制服です。長靴下(ストッキング)が鳳仙さんの細い足首を強調しています。何か愁いを帯びた秘密をもつ、映画の中の少女女優のように映ります。

「ありがとう、来てくれて……」

 わたしはすっかり驚いていました。わたしが思うほどに鳳仙さんはわたしに対して無関心ではないのかもしれません。

「ううん。大丈夫」

 鳳仙さんの頬は乾いていました。睫毛の化粧に粉雪がかかっていました。

「お腹すいてない?」

 鳳仙さんに連れられて、小麦粉の甘いにおいが流れる店でわたしたちはワッフルを買いました。鳳仙さんはハチミツのワッフル、わたしは夕食がまだだったのでチーズのワッフルを二つにしました。わたしたちは互いのワッフルを一口ずつ交換しました。そうして、風は冷えていましたが、わたしたちはまるで、仲良しの友達同士のように、ですが押し黙ったまま、開いた傘を並べて二人で歩いていました。

 すると見知らぬ長身の男が壁のように立ちはだかりました。憮然として見上げると、その男は、四十歳くらいでしょうか、質の良さそうな長いベージュのコートを着てはいるものの、こちらを無遠慮にジロジロ眺め回すのです。

「ねえ、君たち。可愛いね。どこにいくの? 一緒に遊ばないかな、何か御馳走してあげよう」

 男は土気色の唇を芋虫のように動かして、唾液が掛かりそうなほどの早口で言いました。わたしは怯んでしまいましたが、鳳仙さんはぞくりとするほど、残虐なほど、切り裂くような美しい表情で男を睥睨しました。

「……これだけ出せる?」

 彼女は両手を広げました。男はたじろぎました。が、もう一度わたしたちを見て、……値踏みするように見て、ゆっくり肯きました。男が顔を寄せると、煙草と趣味の悪い香水が混ざったようなひどい臭いがしました。わたしは後ずさりました。これが、……これが鳳仙さんの日常なのでしょうか。

「冗談よ、さようなら」

 鳳仙さんはわたしの手を引いてきびすを返しました。嬉しそうに笑いながら。角を曲がったところで、堪えようもなく、わたしは鳳仙さんに懇願しました。

「もうやめて、鳳仙さん。もうやめて……」

「……どうしたの?」

 鳳仙さんは狼狽するわたしを見て心底驚いたような顔をしました。まるで身体と金銭の交換に対して、何のためらいも持っていないかのように。それが尚更、わたしの心に突き刺さりました。

「だって、だって……。鳳仙さんがもったいない……」

 わたしはほとんど泣きながら、鳳仙さんの冷たい手を取りました。ふたりの手を、わたしの涙の滴がぽたぽたと穿ちました。

「……ありがとう」

 鳳仙さんはそう言って、軟らかな唇でわたしの涙を吸いました。

「行こう、望美」

 そして、躊躇わずに歩いていきました。


 遊園地のお城(シャトー)のようにライトアップされた建物に、鳳仙さんはわたしを誘(いざな)いました。建物の中は、フローリングに洒落たカーペットが敷いてあり、天井にはパステル画のようにカラフルな可愛らしい電灯がついていました。幾つものパネルに様々な部屋の内装が映し出されており、鳳仙さんは慣れた様子でそのうちの一つのボタンを押しました。ここがどういう場所だか、わたしにわからないわけではありません。鳳仙さんにとっては馴染みの場所なのでしょうか。体の中のどこかがまたチクリと痛みました。

 鳳仙さんはわたしを先に部屋に入れました。オートロックのようです。内装は清潔で、寧ろ豪華で広く、わたしを驚かせました。天蓋つきの大きなベッド。優しい間接照明。茶色とクリーム色を基調とした落ち着いたインテリア。デスクやソファやシャワールーム、冷蔵庫までありました。

 促されてコートを脱ぎ、習慣で手を洗っていると、鳳仙さんが冷蔵庫から何か缶の飲み物を出してグラスに注いでいました。それは紅色に透き通っていました。鳳仙さんはベッドに腰掛けて、それを飲みながらわたしに勧めました。その飲み物は甘ったるくべたべたしていました。鼻から頭にふわりと熱い何かが抜けていく、知らない感覚です。もしかしたらその飲み物がジュースではないのかもしれないと思い当たってから、わたしはそれを恐る恐る飲んだり、飲みさしたりしましたが、鳳仙さんは平気でたくさん飲んでいました。頬の辺りと目元が紅潮し、なんともいえない色気が匂い立つようでした。

「望美。望美、おいで」

 鳳仙さんはわたしを抱きしめてくれました。温めるように。わたしたちは寝台に倒れ込みました。今この天井を取り払ったら、嫋やかな星に似た粉雪がわたしたちに降り注ぎ、たったふたりきりの果敢ない夜会(ソワレ)をきらきらと飾ることでしょう。

「忘れられるから。今だけは、何もかも。望美」

「りるか……さん……。……りるか」

 わたしはおずおずと、鳳仙さんの名を呼んでみました。鳳仙さんは拒みもせず、気分を害する様子もなくわたしを見つめています。うるんだ瞳に、上気した肌。アルコールの赤みが唇にのった蠱惑的な笑み。そんな表情の鳳仙さんを見るのは初めてですし、そんな表情の他人を見たことがありません。それは高校生に似つかわしくないものでした。吸い寄せられるように、わたしは鳳仙さんに口づけをしました。

 それは、甘く、甘く、甘く。熱を帯びた蛞蝓(リマス)の侵入。身体の芯がぞくぞくと震え上がりました。わたしは吐息を漏らしました。いいえ、声が。声が漏れました。自分の声ではないようです。誰に教わったわけでもないのに、わたしの中から欲望が零れ落ちていくのを感じます。それは未だ果実というより、青い匂いのする草花の蜜でした。

 鳳仙さんは濡れた唇に張りついた髪を拭いました。淫らな神話上の女神の仕草でした。修道女のようなこのモノトーンの制服がかくも官能的に感じられたことは、未だかつてありませんでした。


 互いのごわごわした制服を、わたしたちは、お菓子(ボンボン)を包む銀紙を剥がすようにひらいていきました。他人に衣服をひらかれるなんて幼児のころ以来で――その時でさえ相手は肉親か医者で――無防備で、無力で、気恥ずかしく、また他人の衣服をひらいてゆくなんて、それはもう、蔓薔薇の森に分け入ってねむり姫を探しながら王子が得た痛みにも似た、昏い秘めやかな、耐えがたい甘みでした。刺繍やレースで飾られた肌着に包まれた鳳仙さんを前にしながら、そんな時なのに、おかしなことに、わたしは自身の子供っぽい地味な肌着を恥じ入りなどしていました。対して恥らわずに毅然と現れた、鳳仙さんの素肌。吸い寄せられるようにわたしはそれを両手で包みました。

 それは快美でありながら不愉快で、後ろめたくて、緊張を強いられるもので、蕩けるように甘く、魅惑的な未知の秘密の香りをもっていました。奥処へと触れ合ってゆく体温。無我夢中で感覚をむさぼり、全神経を張りながら、わたしは小さな魚になって、わたしを押し流す温かな河に身をゆだねていました。かと思うと、そうしていながら何度も、心臓を抉られるような悲嘆に襲われました。何しろわたしが鳳仙さんを求める百分の一も、鳳仙さんはわたしを顧みていないことが、この瞬間にも、彼女の言葉からも、動作からも、如実に示されていたからです。それはもしかしたら、わたしが鳳仙さんに恋しすぎていたせいかもしれませんが、彼女の指や、唇の向こうには、知り得ない匿名の、複数の男性が重なって見えました。彼女のまなざしは、きっと、きっと、錦木円佳さんを見ていました。わたしは試行錯誤しながら、わたしの心から何とか抉り出したちっぽけな、けれどかすかに輝く石を鳳仙さんに差し出すことで、燐寸の火のようなつかの間の幸せを与えられたに過ぎないのでした。




 わたしは猫のように、シーツにくるまって眠っていました。

 鳳仙さんはシャワーを浴びたらしく、大きな鏡台にむかって、化粧水か何かを顔(かんばせ)に塗っていました。半ば濡れた長い髪は、しどけなく、人魚姫のそれのように裸の背中を覆っていました。その髪にもう触れてはいけないことは、よく分かっていました。……ああ、終わってしまった。わたしは寂しさに胸を衝かれ、泣き出しそうになりました。

 心をそらすために携帯電話を見ると、家族からのメッセージや着信がたくさん来ていました。母はわたしの友人たちにも連絡をしたようでした。わたしはいやいやながら現実に向き合い、言い訳を考えはじめました。そして、シャワーを浴び、昨日着ていた制服を着ました。おなかが空いていました。鳳仙さんと朝食を食べることはかなわないでしょう。



 エレベーターで一階に下りると、鳳仙さんはわたしに離れているようにと言い、フロントに向かいました。

「何してたの? お姉ちゃんが二人で……」

 それでも、いぶかる中年女性の声が聞こえていました。わたしは聞こえないそぶりで、体を柱に同化させるようにして立っていました。鳳仙さんがわたしを庇うために遠ざけたのだと思いましたが、もしかしたらそうではなくてただ単に、鳳仙さん自身がフロントの女性にわたしを見られて何か言われるのが嫌だったのかもしれません。


「お金、払うよ」

 通りに出てからわたしは言いました。少しでも鳳仙さんと繋がっている時間を引き延ばしたかったのです。

「平気よ。じゃあね」

 鳳仙さんはきっぱりといらえました。それはそう遠くない過日、わたしが週番で彼女の数学のノートを手渡されたときと同じ、失望と寂しさを感じさせる冷やかさでした。彼女はそのまま去っていきましたが、わたしはしばらくそこを動けませんでした。

 踏み入ってはいけないのでした。たったひと時を共に過ごしただけ。彼女はわたしを必要としているわけではないし、心をゆるしてくれたわけでもないのです。彼女にとってわたしは、行き過ぎていった男性たちと同じなのでしょうか。彼女はいまもこんなに綺麗なのに。そうです、彼女はいつでも。ああ、わたしは、わたしこそ、彼らが決して感じることのできない鳳仙さんの美しさを、こんなにも鋭く、こんなにも確りと感じられているものを!




……時計を見ると九時を回っていました。もう、遅刻です。こんな風に朝を過ごしてしまったことは、当たり前ですが、未だかつてありませんでした。漫画や映画に出てくる高校生たちのように。或いはもしかしたら、いいえ、こんな風に夜や朝を過ごす同じ年頃の人が、きっとどこかにはいるのでしょうが。

 わたしは躊躇いましたが、学校に向かいました。学校に行く途中で気分が悪くなったことを遅刻の理由にしようと思いました。家に対しては、一人で宿泊施設に泊まったことにしようと考えました。


 知らないシャンプーの匂いをさせて、二時間目の歴史の授業の途中から学校に行きました。幾つかの教科書を持ち合わせていませんでしたが、仕方がありません。謝りながら、隣の松崎さんに見せてもらいました。彼女はわたしの体調まで心配してくれました。気が咎めるほどに優しい人です。休み時間になると、晴菜や美香が駆け寄ってきてわたしの心身を案じました。何だかいろいろなものに申し訳ないような気持になりました。

……鳳仙さんも、優しい人でした。わたしはそう思います。よい生徒、よい人、……よい生き方って、一体何なのでしょう。……何なのでしょうね。

 鳳仙さんは学校に来ていませんでした。その日一日、鳳仙さんは来ませんでした。



 わたしは友人たちとおしゃべりに興じたり、予習や宿題をしたり、クラス行事を楽しんだり、周囲の優しさと時間のもたらす力に甘えながら、そうした日常へと回帰していきました。

 それから何度か、わたしは放課後に礼法室に赴きましたが、鳳仙さんが現れることはありませんでした。わたしが礼法室にいることで彼女の行動を制限してしまっているのかもしれない、そう思いながらも、わたしはまるで飢えた犬のように、礼法室に赴くことをやめられませんでした。わたしは彼女を所有しようとしているのではないし、たったひと時優しくされたからといって思い上がろうとしているのでもない。彼女を助けようとか、助けてほしいとか、そんなことを思っていたのでもない、ただ、彼女に惹かれていただけなのに。

 鳳仙さんは二度とわたしを振り向きませんでした。わたしの心に強烈な烙印を押したまま。それでもわたしは彼女を見ることを止められませんでしたし、その度に胸をとどろかすこともやめられませんでした。彼女は不完全にして無二の魅力を放つ十三夜月(ギバウス・ムーン)でした。



 両親はその後、わたしの一晩の失跡に触れないように、そんなことなどなかったことのようにわたしを扱いました。けれど、しばらくして夢美を迎えに行った夜、夢美は生意気にもわたしの家出に対して、見直した、といったようなことを言いました。そうして、わたしの言葉を考え直して、もうカンニングをやめた、とも。大都会の雑踏の中で、わたしは未だに鳳仙さんを探していたというのに。

 この子は、この人は、もうじき受験をすることになるのでしょう。でもそれがうまくいかなくても、それで彼女の人生の何が決まるというのでしょうか。わたしたちが歳を重ねていくことで、今まで見えていなかった色々な道が見えていくこともあるのでしょう。出来うる限りしなやかに生きていこうと、夢美と歩きながら、わたしはそう強く思ったのです――……。


(了)

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