第3話

 エチレンという化学物質をご存知ですか。私はそれを生物の授業で学びました。果実を熟させる植物ホルモンなのだそうです。林檎はとくに強くこのホルモンを放出し、熟した林檎と他の果物を一緒に置いておくと、エチレンのせいでその果物も熟してしまうのだそうです。

 おとなびた鳳仙さんの不思議な魅力は、わたしの脳へ甘く沁みてゆき、わたしは明らかに今まで知らなかった感覚を覚え、今まで気づきもしなかった事柄について思い巡らすようになりました。

 わたしはしばしば、第二礼法室で鳳仙さんが花を活けるのを見ました。それはわたしにとって幻想(ファンタジア)のような時間でした。もしも引き換えに、水泳部のわたしが泳いでいるところも見てみたい、と鳳仙さんに言われたらどうしようか、などと考えてみもしたのですが、勿論鳳仙さんはそんなそぶりの一つも見せませんでした。要するに彼女はわたしに対して何らの関心も払っていなかったのです。しかし、わたしは相変わらず、教室でも鳳仙さんを眺めていました。そうして気づいたことには、しばしば鳳仙さんは、優等生の誉れ高いペアである山吹さんと錦木さんを目で追っていました。どうして。彼女の意図は分かりません。いいえ、すぐに胸をよぎり、そして慌てて打ち消したのは、鳳仙さんが二人のどちらかに特別な関心を持ち、そしてもう一方に特別な対抗心を持っているのではないかということ。わたしが鳳仙さんを目で追っていることも、こんな風に、誰かに感づかれてしまうものなのでしょうか。それは必ずしもわたしに関心を向けている人にではなく、むしろ人間模様に好奇の目を光らせている人たちに。


 はたから見た山吹さんと錦木さんはとても素敵なペアでした。話すことは勉強のことから社会情勢のこと、日常の些細なことで、他人の悪口や芸能人のゴシップなどは決して口にしません。どちらも名家の生まれで、同じ華道部に所属している、撫子のようでいながらリーダーシップをもつ山吹さん、清潔感のある容姿と細やかな優しさで人気の高い錦木さん。憧れ、羨望。彼女たちにそうした感情を抱く同級生や下級生はきっと少なくないでしょう。事実、全校集会の折などに学級委員の二人がスピーチをしたあとなどは、下級生たちが束になってわたしたちの教室まで二人を覗きに来ることがありました。

 わたしは鳳仙さんと、彼女たちのような、誰もが認める似合いの友人同士になりたいのでしょうか? ……いいえ。わたしは彼女たちのように目立つ優等生やお嬢様ではありませんし、人を取りまとめていくような性質も持っていません。どちらかといえば目立たずに過ごしていたいと思っているのです。鳳仙さんも、彼女たちのような、正統的なほうにつく資質は持っていないように見えます。鳳仙さんの持ち物は高級品ばかりで、容姿も優雅で美しいのですが、明朗さや快活さ、勤勉さや求心力といった美徳は、彼女の対極にあるように思われます。ですからわたしたちは、山吹さんと錦木さんのような、円満で理想的な友人同士には―……。

――いいえ、いいえ。そんな言葉でわたしは何を誤魔化そうとしているのでしょう。わたしはどうしても、あけすけにはなれません。感情をすぐに言葉に出す、母や、妹や、何人かの級友たちの様には。

――そうです、それ以上に。そんな事とは関係なく。

 わたしが鳳仙さんに求めているものは友人関係ではないのです。友人関係などではないのです!



 鳳仙さんのことを、わたしは少しずつ知っていきました。鳳仙さんは北欧のハード・ロックを好みました。彼女の家は六本木にありました。彼女は伊太利のブランドの洋服や化粧品を愛用していました。夜や休みの日はライブに行ったり、踊りに行ったりするのだそうです。

 畢竟、わたしが友人たちに掛ける心の割合は減っていました。相変わらず、休み時間や休日は彼女たちといることが多かったのですが、注意力も散漫になっており、油断すると、意識を中空に漂わせたまま気のない返事をしてしまうのでした。丁度このころ、わたしや友人が気に入っている、あるポピュラー・バンドの新作アルバムが出ることになっていました。とりわけわたしはそれを何カ月も前から楽しみにしていたのですが、それを知っていた友人の美香が発売日にそのアルバムを買い、自分が聴く前に私に貸してくれたのです。その次は友人の晴菜が借りることになっていました。ずっと待ち望んでいたものでしたし、美香のやさしさも感じましたが、正直なところそれは、数か月前に予期したほど、嬉しくは思えませんでした。わたしはお礼を言ってそれを借りたまま、すぐにコピーして晴菜に渡そうと思っていたのですが、どういうわけか聴く気も起きず、そのままにしてしまいました。翌日になって気まずく思い出し、詫びるのですが、また帰宅すると後回しにして忘れてしまう、ということを意図せず一週間くらい繰り返しました。そうこうするうちに、温厚な美香が、携帯電話の画面越しに、わたしの行動は少々だらしがないということを、言いにくそうに言ってきたので、辛うじて残ったわたしの理性が友人が去るかもしれないことを警告し、ようやくわたしを引き戻しました。そのバンドは女性ボーカルと男性のギタリストとベーシストで編成されており、アルバムは、「君」という男性と「僕」という女性の恋物語や、時に友情や勇気や季節の美しさを歌った、明快な歌で満ちていました。わたしは一度だけ通してそれらを聴き、おざなりな感想を、作り笑顔を貼り付けて言うと、本心から何度も謝りながらやっと晴菜に渡しました。数か月前のわたしは、わたしの意志を無視し、透明度を失ったプラスティックの皮になって、友人たちをはじいてはパリパリと剥がれていきました。




「今日ね、妹が、小学生なんだけど、朝なかなか起きなくて、お母さんと喧嘩してて……」

 鳳仙さんとの間の空気を埋めるかのように、元来口下手なわたしは、とりとめもなく自分の家族のことを話していました。礼法室の窓の外はもう暗くなっていました。鳳仙さんは擬古的な装飾の施された桃花心木(マホガニー)製の椅子に座り、活けられた花を眺めながら、長い髪をくるくると指に巻きつけ、またほどいていました。

「桜枝さんは、何人家族なの?」

 不意に、鳳仙さんが聞きました。

「四人。妹がひとりいるの」

「妹さん、何て名前?」

 鳳仙さんは静かに微笑みました。

「夢美」

「望美に、夢美か……。いいね、姉妹で似てる名前って。……仲いいのね、きっと」

 彼女がはじめてわたしの名を呼んでくれたことが嬉しくて、わたしは頬が火照るのを感じました。いいえ私は、私は決して恋などしていません。決して。

「鳳仙さんは? 兄弟いるの?」

「……母親と二人暮らし。父親がたまに来るわ。一年に何回か。……昔は避けてたけど、今は一日くらいはいい顔してやってる……資金源だし」

 ぽつりぽつりと言うと、鳳仙さんは、顔を髪で隠すようにを伏せながら、手首の傷をなぞり、皮を爪でむしって捨てました。躊躇い傷なのでしょうか。彼女の腕や足には不自然に傷跡が多すぎることにわたしは気づいていました。陰りを帯びた言葉に驚き、わたしは笑顔をたたみました。そっとうかがう鳳仙さんの横顔。少し不機嫌そうに突き出された下唇。

「……なのよ。母親が秘書をしている政治家。それがわたしの父親。でもあの人には、別に奥さんも子供もいるわ」

 鳳仙さんの言葉を、わたしは聞き取れませんでした。聞きなれない言葉でした。

「え、なに、なんて言ったの?」

「私生児。私生児よ。……母はしょっちゅう恋人を換えていて、色んな男が私の家に来るのがすごく厭で……」

 鳳仙さんは小さな子に教えるように繰り返しました。わたしは返す言葉を持ちませんでした。なんということを軽々しく聞いてしまったのだろうか、と。胸が詰まりました。その言葉が、人の口から出るのを聞いたのは初めてでした。

 けれどこんな秘密をわたしに打ち明けてくれたことは、わたしにとって熱い幸福でもありました。そして今なら聞ける気がしましたし、今問うべきである気がしました。彼女があの夜に何をしようとしていたのかを。わたしは幾度となくあの日、あの雨の日に鳳仙さんがどこかへ急ぐ情景を思い返していました。しかしそれは美しい鳳仙さんの姿を心の目で眺めることに終始しており、その文脈については見当がつかなかったのです。

「ねえ、鳳仙さん、わたし、……気になっていることがあるんだけど」

 そう口火を切るまでに、たっぷり三分はかかったでしょうか。

「どうしたの?」

「鳳仙さん、S駅の辺りによく行く?」

 鳳仙さんは少しの間黙ってわたしを見つめます。

「行くわよ。どうして?」

「前、見かけたの。夜に。妹を塾に迎えに行くときに。違う制服を着て……」

 その言葉がまるで咎めるように受け取られたらどうしようか、とわたしは気をもんでいました。

 鳳仙さんはふっと息を吐きました。そして、わたしではなくどこか遠くを見つめながら言いました。

「見られてたのね」

「ごめん……」

 わたしはもう、後悔していました。やらない後悔よりやった後悔、なんて、あんなのはきっと嘘でしょう。やらないほうがいいことだって、世の中にはたくさんあるはずです。

「いいわ、気にしないで。私の不注意だから」

 鳳仙さんの言葉は予期しないもので、不注意として切り捨てられたわたしは拒絶されたように感じました。

「私、そうね、適当な制服を着て時々、夜、駅に行くの。待ち合わせのために。アプリで約束して、何回かやり取りをして、よさそうな人だと。実際見て、嫌だったら帰っちゃうこともあるけど。向こうも大体心得てるから、慣れてる人でいい人だと言うなりにくれるときもあって。気にいると何回か会うこともあるの……わかる?」

 鳳仙さんが伝えようとしている内容は、なんとか理解できました。けれど彼女がなぜそんなことをするのかは咄嗟に諒解できなかったのです。

「どうして……」

 口を突いて出ました。言うまでもなく彼女はお金に困っているわけではないでしょう。

「別に、特に理由はないけど」

「でも……」

 この期に及んでもまだ甘ったれた偽善から彼女に逆らうとしていたわたしは、鳳仙さんの容赦ない追い打ちを受けました。

「わからないでしょうね、望美には」

 こんなに悲しく自分の名が呼ばれるなんて。

「わからないでしょう。誰も居ない家に、たった一人で。毎日毎日帰って、死なないくらいに適当なものを食べて、テレビに話しかけたりして。泣いても喚いても叫んでもひとりぼっちで。誰も、誰も私のことを一番に思ってくれる人なんかいない。ずっとこうよ。それならまだいいけれど、親と知らない汚い男がいたりして。馴れ馴れしく話しかけてきたりして、こっちは出て行けって蹴りつけてやりたいのに」

 ああ。整った容姿、伊太利製のハンカチ、携帯音楽プレイヤー、名門と評される私立学校の制服。鮮やかな花々。それでも。それでも。

「アプリに登録すれば一瞬で山ほどメッセージが来るのよ。びっくりするくらいに。そっから良さそうなのを選んで、大体は一回会ったらおしまい。長くて三回くらい。それでいいの。だってどんどんしつこくなって気持ち悪くなるし。お金? お金なんかおまけよ。男なんて馬鹿なんだって、ほんと、みんな馬鹿ばっかりって。そうやって笑うだけで私、なんか、嬉しいっていうか……何ていうか……一人で家にいるよりはマシ。クラスメイトとか見てるよりマシ」

 暗い窓を見つめて表情を隠した彼女の無機質な美しさが、沢山の罅を秘めたガラス細工のそれに見え、わたしはかける言葉を知りませんでした。縹色の悲しみの網がわたしを覆い、静かな音を立てました。




 わたしは、自らの家族や家庭について思いを巡らせながら帰宅しました。善意の棘も、鳳仙さんの拒絶も、無知なわたしを苛んでいました。機械のように宿題や予習を済ませると、わたしは夢美を迎えに行きました。騒々しい大通りでいつものように鳳仙さんを探してしまいましたが、彼女は見当たりませんでした。チェーンの居酒屋、スナック、カラオケ店がひしめき合いながら色とりどりの看板をライトアップさせ、うんざりするほどたくさんの人、若者やビジネスマンや客引きが、めいめい思い思いの方向に歩いています。ああ、この街のどこかで、彼女が、身を、それ以上に心をすり減らしているなんて、わたしにはにわかに受け入れがたいのです。

「望美!」

 ぼんやりしていると、夢美が走ってきました。わかりやすい子で、機嫌の悪い時は一言も口をきかずに携帯電話で友達とメッセージをやり取りしたり、ゲームをしたりしていますが、今日は何か話したいことがあるのでしょう。

「お疲れ、夢美」

「うん。あのね、今日、面白かったんだよ。緊張をほぐすおまじないっていうのを加島先生が教えてくれたんだけど、こうやって左手を伸ばして、右手で左手の薬指を握って、深呼吸するの」

 夢美は実際に手を伸ばしながら教えてくれました。加島先生はわたしも算数と理科を教わっていた先生でした。確かにそんなおまじないを教わったような気がします。

「でも、試験会場でみんながこんな恰好をやってたら、すぐ加島先生の生徒が見つかるねって、大笑いだった」

 あははは、と、夢美は屈託なく笑いました。その声は、むろんわたしに似ているのですが、……いやに長いことわたしの耳に残りました。

 帰宅してから、夢美とわたしは焼きそばを作りました。夢美はわがままを言うこともありますが、料理や洗濯は一緒に楽しみながらやってくれています。わたしより社交的ですし、積極的な子だと思います。わたしたちの焼きそばは、キャベツやニンジン、ピーマンを切って炒め、そばをフライパンに加え、ソースをまぶして出来上がりです。食事代はいつも母がくれます。それでわたしたちはファストフード店に行って、ふっくらしたハンバーガーや塩味の濃いピザを食べることもありますが、スーパーマーケットで材料を買って自分たちで作った方が安く上がるのと、身体によさそうなので、時間のある時は料理をします。夢美もわたしも料理はなかなか好きでした。

 わたしたちは焼きそばを食べながらテレビドラマを見ました。わたしたちが欠かさず見ているコメディで、新入社員の女性が変わり者の上司や同僚たちに振り回されるという、女性向け漫画が原作となったドラマです。モデル出身の若手俳優が初の主役ということで、夢美は彼を応援してその服装や仕草に感心したり、相手役であるヒロインとの恋模様に興奮したりしながら、そうしたシーンの度に見て見て! と、私をつつくのです。

 ドラマが終わると、母が帰ってくる前に、と、夢美は自室に戻って勉強を始めました。尤も実際は友達とメッセージを送りあったり、ゲームをしたりインターネットで他愛もない記事でも見たりしているのかもしれませんが、分かりません。わたしはそのままリビングに留まり、予習をしていました。

 暫くすると玄関の鍵を開ける音がしました。

「ただいま」

 母は大きな肩掛けバッグと、布の手提げ袋をリビングに置きました。ハイネックの薄手のセーターにスラックス姿でした。仕事場ではすぐに白衣に着替えるので、更衣が楽な服装がいいと言って、いつもこんな簡素な出で立ちをしています。反面、化粧は――ファンデーションにチーク、眉とマスカラと口紅は少なくとも――しっかりとしています。気合いが入るのだそうです。母のはっきりした顔立ちは夢美に似ています。わたしは小さな目と小作りな顔で、顔立ちは父に似ています。けれど長身は母譲りでした。

「おかえり。夢美と焼きそばを作ったよ」

「ありがと、すぐ食べるね」

 母はそういうと洗面所に、コンタクトレンズを外しに行きました。わたしは台所で焼きそばを温めておきました。

 看護師である母は、仕事場でのことをたくさん話し続けます。患者さんのことや、同僚のことなど。母の話にはたくさんの同僚の看護師さんが登場するので、誰が誰だか、いつも分からなくなってしまいます。

 母は焼きそばを食べながらテレビをつけました。ゴルフの試合の中継をやっているのです。父と母はスポーツ中継が大好きで、母は今も働いているであろう父のために、携帯電話のメッセージで実況中継を送りつづけていました。昔は休日に父と母がスポーツ中継を一緒に見ていましたが、私が中学に上がり、高校に上がるころには父はいよいよ多忙になり、家でのんびりしていることが少なくなっていました。

「夢美はどう? ちゃんと勉強してる?」

 母が尋ねました。

「うん、部屋で勉強してる。最近やる気出てるみたいなんだ。友達の愚痴より、塾で習った内容をよく話すようになったし」

 これは本当でした。友達とうまくいっているのかもしれません。夢美が心地よくすごしているとしたら、それはわたしの希望になります。

「ドラマ見てなかった? あたしが帰ってくる前」

「ううん」

 母は声音を低めて鋭く言いましたが、わたしは首を振りました。

「そう。……ならいいけど。なら明日は行けるわね」

 明日は土曜でした。明日は激務の父も母も、珍しく休みが揃うことになっていました。それで、わたしの学校と夢美の塾がひけたあと、家族で、新しい冷蔵庫を見に行くことになっているのです。行きつけの、九階建ての電気屋さんの傍には大きなショッピングモールがありますから、わたしたちは本を見たり、文房具を見たり、バッグや洋服を見たりして、それからレストランで夕食をとることになるのだと思います。


 ……鳳仙さんは? 鳳仙さんはどんな週末を過ごすのでしょう。「父の家族」、「母の恋人たち」。そうした人影と共存しなければならない彼女は、どんな思いで週末を過ごすのでしょうか。わたしは、小学生のように、彼女をわたしの家に呼んで一緒に食事や宿題を楽しむことを思いつきましたが、すぐにその考えは打ち消されました。まるで自分の生活を見せびらかしているみたい。それに鳳仙さんとわたしはやはり、気の置けない友人同士には程遠かったのです。

 鳳仙さんはどんなふうに、男の人たちに接するというのでしょう。未だわたしには、信じられません、考えられません。わたしたちが住む、この箱庭のような学園の中で、そんなことをする生徒がいたなんて。そんなことは、どこか遠い世界のことだと思っていたのに。けれどそれは、少なくとも鳳仙さんの行動は、わたしが思っていたような即物的な欲望とか、浅はかさや汚らわしさとはかけ離れたところにある、なにか自らを痛めつけることで別の痛みをそらそうとするような、砕けるガラスの悲鳴のように思えました。

 わたしは、幼いのでしょうか。わたしたちはみな、幸福で満ち足りていて、家族に愛されていて、無垢で、未経験で、戯曲や詩の中の恋愛を夢みていて、歴史や外国語や科学についていくばくかのことを知っていて、恐れ知らずで、オプティミストで、人の和を大切にする、そんな少女たちだと思っていたのです。わたしたちの学校では、在学中は真面目で友好的な生徒であり、卒業したらよい大学に行き、能力を発揮する職業につき、同様に社会的地位の高い配偶者をもち、子どもを産み、社会貢献することが美徳とされているように感じられます。なぜならそんな卒業生ばかりがしばしば招かれて、大講堂で講演をするからです。そんな講演の後には決まって感想を書き、まとめて演者に送ることになっているのですが、わたしはいつも何を書いたらいいのか途方に暮れてしまうのです。それは今までは、わたしが何に対しても強い感情をもつことができなかったためですが、きっと、これからは……。



 翌日、わたしたちは地下鉄でI駅まで行き、家電屋とショッピングモールを見て回りました。母は、よくテレビでコマーシャルをやっている、引き出し型の冷凍室が大きいものがいいと言い、父はとくに希望がなかったようで、新しい冷蔵庫は直ぐに決まり、配送業者がそれを配達してくれることになりました。それからわたしたちは任務を終えたくつろいだ気分で、新しいコンピューターや周辺機器、ソフトウェアを見たり、ゲーム機を見たり、冷やかし半分にマッサージチェアを見たり、ダイエット器具を見たりしました。

 ショッピングモールでは、いつも、父、母と妹とわたし、といった風に別行動になることが多いのですが、この日は四人一緒に店を見て回りました。妹が可愛らしい柄のマスキング・テープ――コラージュに使ったり、ノートや手紙に貼って飾ったりすることが出来ます――を幾つか手に取り、限られたお小遣いの中でどれを買うべきか悩んでいると、父がそれら全部を、勉強のご褒美だと言って買っていました。わたしは前々から買おうと思っていたフリクション・ペン――摩擦すると消えるペンです――を買ってもらいました。母は少し驚いたようですが、にこにこしながら見ていました。それからわたしたちは上品な洋食屋に行き、ピザやタコのサラダや、タリアータや、フリットやティラミスをお腹一杯に食べました。父と母はグラスワインを飲み、上機嫌でした。

 

 その夜夢美は一生懸命勉強していました。時々わからないところをわたしに訊きにきました。その内容はわたしからすると少し初歩的ではないかと思うこともありましたが、少なくとも、テストの点は上がっていました。なにより夢美が素直にわたしに勉強を訊くほどに、彼女の心が和やかになっていることがわたしには嬉しかったのです。夢美が以前の張り詰めた、追いつめられたような苛立ちを見せることは減っていました。わたしはそんな夢美の頑張りを褒め続けました。勉強の合間にわたしは友達と携帯電話(スマート・フォン)でメッセージのやり取りをしていました。

“今日家族で新しい冷蔵庫見に行った。今の調子悪くて”

“壊れたの? 大丈夫?”

“まだ平気。うるさいけど。来週新しいのが来る”

“うちは昔お風呂が壊れちゃって、お風呂屋さん通いしてたよ。冬だったから寒かった!”

 美香や晴菜はすぐに、可愛い絵入りで返信をくれました。絵とはいっても、出来合いのものです。メッセージのやり取りのために夥しい絵が供給されており、わたしたちはそれを無料や安価で自由に使えるので、返信に困ったときはちょっとおどけた絵を送ればよいのです。

 わたしから友人たちに話題の提供をすることはあまりないことでした。ですので、こうした何気ない日常を共有するところで、友人たちに対するここのところの、もう隠し様がないかもしれない不義理を挽回したいという思いがあったのです。

 クマが耳をふさぐ絵、ウサギが凍えている絵。ネコが怠けている絵。絵は会話の間に続々と積み重なっていきました。



 この頃教室では、一分間スピーチというものが行われていました。担任の先生が思いついたのでしょうか、こういうものが教育的に良いと俄かに言われたのでしょうか。他のクラスでは行われていませんでした。生徒たちは最近読んだ本や目をとめたニュースについて話しました。将来の夢や大切な思い出について語る人もいました。わたしは水泳部について話しました。鳳仙さんは女流作家の小説を紹介しました。そして山吹さんが、正義論について語りました。それは他の生徒とはすこし違うもので、他の人のスピーチのような個人的な体験や好みの紹介というよりは、社会への批判に主軸がおかれており、きっぱりとしていて、印象に残ったのです。人に問われたとき彼女は、将来は弁護士になりたいと言っていました。彼女のお父さんは医者でしたので、わたしたちはそこに彼女の強い意志、あらがいとさえ言えそうな意志を感じました。親が医者であろうとなかろうと、医師になろうとする生徒はとても多くいました。

 そうして山吹さんの強さ、彼女らしい芯の通った、堂々としたスピーチに感嘆しながら、わたしは気づいてしまったのです。鳳仙さんの目は山吹さんを追っていました。山吹さんの一挙手一投足も、唇の動きも、紡がれる言葉も。山吹さんが錦木さんと一緒にいることも。鳳仙さんはじっと、感じていました。それはもしかしたらわたしが鳳仙さんを追いかけてしまうのと同じ感覚なのかもしれない。そう思い当たると急に、肺を貫かれたように、呼吸ができなくなりました。顔の見えない男性たちはおろか、わたしは鳳仙さんにとって一番近い級友でさえないようでした。山吹さん。そのはっきりした意志、落ち着いた思慮深さ、人をまとめる人望。彼女はわたしとは何もかもが正反対で、真似るにはあまりに遠い存在でした。




「男の人といるとき、何を考えているの。何を感じているの」

 自分でもびっくりするほどの熱情に押し流されるように、言葉がわたしの口をついて出ました。平素ならそんな質問をすることは出来なかったでしょう。わたしは顔のない男性たちや山吹さんといった、わたしよりも鳳仙さんの心や体の近くにいるように見える存在をほどいていきたかったのです。そうでなければいてもたってもいられなかったのです。

「鏡を見ているわ。自分の身体を見てるの」

 ああ彼女は彼女を金で恣にしていると思い込む男性に、なにか自懲するように身体を投げ出すのでしょうか。

「なかなか紳士的ですごい額をくれる人もいるし、結構見た目のいい男もいるし、アイドルにしてあげようか、なんていう人もいるわ。けど……」

 鳳仙さんが見も知らぬ男性を褒めた時、わたしは居たたまれなくなりました。鳳仙さんは見えない深い傷の数々を確かめるように自分の左袖をじっと見ていました。

「鳳仙さん、お願い、もうやめて……お願い、もうやめて。わたし、わたしは鳳仙さんのこと、大切に思っているから。鳳仙さんは、ひとりじゃないから……」

 鳳仙さんは長いこと黙ったまま、くるくると髪を弄んでいました。すべての勇気を費やしたわたしは、額が汗ばむのを感じながら、彼女が何を答えるのかを待っていました。

「山吹さんね、多分」

 山吹さん。山吹円佳さんでしょうか。意外な人の名が突然出てきたので、わたしは少し拍子抜けして、しかし話がどう続くのかと鳳仙さんの口元を見つめました。

「あのひと実のお父さんと寝てるのよ。多分もう何年も」

 わたしは息をのみました。あまりにも予想から外れたことを、鳳仙さんが口にしたために。

「わかるの、あの人を見ていていれば、処女じゃないなってわかる。相手はお父さんよ。あのひと、お母さんのことママって呼ぶでしょう。でもお父さんのこと、お医者さんのお父さんのこと、どうしても話さなきゃいけない時は、父親、って呼ぶの。その時、その時だけ、チの音が詰まったようになって……他のときはなんともないのに。あの人頭痛に悩んでて、それから、自分の腕を強くつまむ癖があるでしょ。あの人は理性的な人だから巧妙に隠している積りでいるけど、時々しくじるの。無理もないわね、自分の家の中に敵がいるんだもの。どんなに強い人でも、逃げ場がないわ。お母さんは知ってて知らないふりをしているの。見ないふりをしているの。私の母親が、私が何しても知らないふりをするみたいに」

 わたしは言葉を失いました。俄かには信じられない話です。山吹さんが、あるいは山吹さんの幻が、鳳仙さんの言葉の中でもがいていました。嗚呼。あの優等生の山吹さん。人格もまろやかで家柄もよく、品のよい、山吹さん。彼女の身にどうしてそんなことが起こるでしょうか。山吹さんにはそんなそぶりもありませんでした。少なくとも、今までわたしには感じられませんでした。そうでなくても、この穏やかな学園(エデン)の周囲に、どうしてそんなことが、起こり得るのでしょうか。ああ、まだわたしはそんな子供めいたことを。でも、それでも、なぜそんなことを鳳仙さんは知っているのでしょうか。どうして鳳仙さんはそんなことを、そんなことを、わたしに言ってしまったのでしょうか。或いはこれはすべて鳳仙さんの空想なのでしょうか。でも、だとしたら、鳳仙さんはどうしてこんなに克明に、まるで見てきたかのように、山吹さんのことを描き出すことが出来るのでしょうか。いいえ、わたしたちの経験していることは皆いくばくか、わたしたち自身の空想なのかもしれません。

「円佳が錦木さんといるとあたし、憎らしくてたまらなくなるわ。錦木さん、どうしてあなたが円佳の一番近くにいられるの、って。錦木さんは下級生からの親愛をほしいままにしているのよ。知っているでしょう、あの人のやり口。人のすごく細かいところまで見ていて、ちょっとしたすきに親切にするの。それで大体、優等生に優しくされてたって言うんでみんな嵌っちゃうのよ。あの人同級生にも人気あるけど、先生にも、下級生にも、人気あるもの」

 錦木さんや山吹さんの人気が高いのは知っていましたが、わたしはそこに作為的なものを感じたことはありませんでした。錦木さんの親切といえば、風邪をひいたときにのど飴を貰ったことがあったくらいです。たしかにそんなことをする人は他にあまりいませんでしたが、ただ錦木さんは誰にでも親切な人なのだろうと思ったくらいでした。

「あの人が円佳といるのは、家柄も成績も良くて人望のある円佳が自分に相応しいと思っているから。円佳が抱えてる苦しみなんか分かろうとしてない。学校から帰る時、駅のホームで二人が並んでいると、私、逆側のホームから、仲良さそうにお喋りする二人を見ながら、いつもナイフを振りかざすわ。何度も、何度も、何度も。錦木さんが、真っ赤になって、転がり落ちるまで。頭痛がするくらいに。円佳の、頭痛が、わたしに」

 わたしは著しく混乱し、何を返す事も出来ませんでした。恋い慕うものについて話さずにはいられない気持ちをわたしは知っていました。鳳仙さんの眉根には悩ましい錯乱者(オフェリア)の妖気が満ちていました。わたしは鳳仙さんから目を離すことが出来ません。鳳仙さんの河に落ち、溺れ、激流に抗うことが出来ません。

 思えば鳳仙さんがわたしにクラスメイトの話をしたのは、山吹さんのことくらいでした。わたしが鳳仙さんに憂いや翳りを感じるように、鳳仙さんもまた山吹さんを見つめながらその苦悶を感じとったのでしょうか。或いは山吹さんの苦悶を感じて彼女を見つめるようになったのでしょうか。そうして、わたしは山吹さんにはなれないのでしょうか。




 これまでわたしは、わたしの鳳仙さんに対する想いを気取られることに対し無自覚でした。しかし他人の様子に敏感な人はいるもので、そうした人は時折好意よりも、その逆のものを育てていることがあるようです。

 倫理の授業が終わり、美術室へと移動するところで、ある生徒……長谷川さんがあたりをはばかるようにしながら、わたしの袖を引きました。わたしは長谷川さんとそう仲がいい訳ではなかったので、おやと思いました。長谷川悠子さんは比較的流行を取り入れた身なりをしていましたが、華やかなグループに明確に属しているわけではなく、その次点のようなグループに属していました。アルバイトや男女交際よりも、芸能人に夢中になるグループです。わたしは彼女の人格をよくは知らないのですが、彼女はしばしば自分の脚の太さがどうだとか、食事のカロリーがどうとかいう事を口にし、自らが細身であることを必要医女に強調しているようなところが目につきました。

 級友たちにとって痩身であることは、どうも実際以上に美徳であるようにみなされているようでした。わたしは長身の割に痩せているので、それをことさら褒められることがしばしばありましたが、肩ががっしりしていますし、胸や腰に曲線がありませんし、まず顔が美人ではありませんから、容姿がいいとは思っていません。細ければよいという風潮が私にはよく分からずにいます。鳳仙さんはすらりとしているのですが、胸は私よりよほど膨らんでいますし、もの憂げな振る舞いも大人びていて、それらが相俟って彼女を魅力的に見せていました。

「桜枝さんって最近鳳仙さんと仲いい?」

 長谷川さんが唇の片端を上げて言いました。眼鏡の奥の細い目がわたしを睨むように光っていました。

「え、そうかな?」

 わたしはつい、すり抜けるように応答してしまいましたが、それは意外で、かつ、核心をついた質問で、声が少し上ずっていました。その中には隠し切れない嬉しさも滲んでいたのでしょう。実際はわたしは鳳仙さんの心のなかに入れてもいないのに。

「うん、放課後一緒にいるのとかちょくちょく見かけたんだよね。でも気を付けた方がいいよ。鳳仙さんってあんまりいい噂聞かないし」

 長谷川さんはもったいぶるように言いました。気のまわる情報通のつもりでいるのでしょうか。わたしは珍しく、胸の中を素手でこじ開けられたように苛立っていました。


 それからあと、わたしのことを望美、とか、望美ちゃん、とか呼んでいた人の一部が、わたしをあからさまに名字で呼ぶようになりました。人によっては、わたしと会話をしているときはわたしを名で呼び、他の誰か、具体的には華やかなグループに属する人たちの前で私に呼び掛けるときは姓で呼ぶ、といった風に、素早く呼び名を切り替えることがありました。これといって変な噂が、直接わたしの耳に入ってくることはなかったのですが、それだけに何が起きているか分からず、不気味でした。鳳仙さんにはどんな噂が流れていて、わたしのことはどう言われているのでしょうか。一緒に街に繰り出しているとか? それとも、同性愛? 放課後話をする以外のことは、何もしていないのに?

 長谷川さんの言葉や、教室の空気が変わったことは、それでも、決してわたしの足も心も、鳳仙さんから遠ざけはしませんでした。例えばチョコレートやアイスクリームの味を覚えた子供に虫歯の害をいくら説いたところで、子供は菓子が目に映ればそれに手を伸ばすことを止められないでしょう。やがてその小さな針が、後にわたしの家にまで届いたときにも、わたしの心は変わらなかったのですから。




 教室でじわりと広がった波紋が家庭の安穏にも及んだかのようにそれは訪れました。いいえ、私が安穏だと思っていただけで、家庭ははじめから、そのままに存在していただけなのでしょう。

 妹が容姿の点でも性格の点でもあからさまに母に似ているので、母に似ていないわたしは父親似なのかなと思っていましたが、父は物心ついたころから仕事に忙しく、特にわたしが中学に入ったころは殆ど平日に見かけることはないほどで、まともに会話をする機会は限られていました。ですから、分かっている積もりでいて、わたしは父についてはっきりと分かっていないことが多かったのかもしれません。そうでなくても、父は母のように、饒舌な性質(たち)ではありませんした。一緒に遊んでくれた記憶、例えば山登りに連れて行ってくれたことなどをポツリポツリと覚えてはいるのですが、父は仕事の話も子供の頃の話もしませんし、人生や人間関係についてだとか、何に困っているとか何が嬉しかったとか、そういう事さえ、ここのところ父と話したことがありませんでした。辛うじて進路や成績については、母がせっつくので、父はわたしたちを褒めたり叱ったりしますが、実際のところ父がわたしたちをどう思っているのか、よくわからないのです。ただわたし自身、母や妹のようなまっすぐな感情表現が得意ではありませんから、父もきっとそんな風で、きっと私たちを大切に思っているのだろうと信じていました。母は、父がわたしたちに対してや、家計をどうするとか家電の買い替えをどうするとか、帰省するとかしないとか、そういう事に対して父が関心を示していないように見えることについて、ここのところいつもぷりぷりしていました。わたしはその諍いを、母の短気のせいだと思っていました。


 その日は、暦上は休日でしたが父は仕事に行き、夢美は塾に行く日でした。わたしは、のんびりと予習をしたりテレビを見たり、漫画でも買いに行ったりしようと思っていました。母がいてくれたので、昼食は母が作ってくれるかなと少し期待したのですが、母は夢美が家を出るや否や、待ち構えたように、自室で寝転んでいるわたしのところにやってきました。笑みの欠片もない真剣な面持ちで仁王立ちになっていました。

「望美、ちょっといい」

 その声はひくい打楽器のような震えをはらんでいました。ただならぬ気配を感じてわたしは飛び起きると、少しでも開放感のある居間へと行きました。喉が渇いていたところだったので、それにかこつけて、冷蔵庫から紙パックのオレンジジュースを出し、グラスに注ぎました。そしてソファに掛けてあったフリースのひざ掛けを手に取りました。

「ねえ望美、見て頂戴」

 母は自分の携帯電話を示して言いました。そのカバーは、以前夢美とわたしが母の誕生日に、ラインストーンの飾りを貼り付けて贈ったものでした。わたしがその液晶画面を見ると、父の携帯電話から転送されたメッセージが、いくつも保存されていました。すなわち父と、知らない女性の親密なやり取りが、いくつも母の手元にありました。会う、可愛い、愛してる、そんな、父に似つかわしくないような単語が、赤いハートマークと共に飛虫の様にわたしの手足に纏いつき、わたしは思わず身体を丸めました。父はわたしたち姉妹に対してさえ、可愛いなどと言ったことがあったでしょうか。

「ゆるせない」

 母は震える低い声で、止め処なく喋り続けていました。それは悲しみよりも屈辱による震えに聞こえました。相手の女性が同じ会社の事務員だとか、年齢がどうとか、容姿がどうとかいうことを。母は既に、父と彼女の間の夥しいメッセージをコピーし、相手の女性の情報を相当掴んでいるようでした。

 母は父に問い詰めたのだろうか、両親は離別するのだろうか。自分たち姉妹はどうなるのだろうか。ぼんやりとそんなことが頭に浮かびましたが、それらは思考に発展することなく澱のように滞留していました。今までの生活が変わることなど考えられませんでした。今までの生活に強い執着があるというわけでもなく、ただわたしの未経験ゆえに、変容を具体的に想像することが出来ず、差し迫った問題として捉えられなかったのでした。

「許せない。こんな不細工な女のどこがいいのかしら」

 それから母は、女性の魅力は容姿に重きを置かれるような趣旨のことをいい、自分の魅力について説いていました。奇妙な光景だと感じながら、黙ってわたしは座っていました。

 自分を美人だと思い込んでいる、どんな些細な外出にも化粧を欠かさないプライドの高い母。けれど今の母は化粧をしておらず、油粘土のような顔色で、その声は地鳴りのような響きを持っていました。興奮して何度も頭を振っていましたが、長い髪に白髪……白髪染めの剥げた白髪が混ざっているのが見えました。

「お母さんね、同じことしてやろうと思うの」

 わたしは肯定も否定もせずに座っていました。何も考えることができなかったのです。目の前で起きていることをこの時正しく認識できていたかさえ、定かではありません。ただただ、流れる光景をテレビ画面の他人事みたいに眺めていました。



 一体何が起きているのか。この出来事を咀嚼するまでにはずいぶん時間がかかりました。わたしは何日も何日も繰り返し、このやり取りと、生理的な嫌悪感を呼びおこす父のメールと、母の震え声と、振り乱された白髪を思い返しました。


「男なんて馬鹿なんだって……」

 

 鳳仙さんの言葉が頭に蘇り、それから離れなくなりました。わたしのことを自慢の娘だと言ったり、入学式に喜んで写真を取りたがったり、家族の誕生日にはいつもレストランに行ったり、夢美の成績を気にかけたり、それから家や生活を維持したり、……それは父にとって、すでに干からびた義務のようなものなんでしょうか。それとも、それとこれとは別で、父は家族とは別に外の女性を愛することができるのでしょうか。いつだったか、夢美とわたしが父に母との結婚の経緯を訊いた時、父は母がどうしても結婚したいと言ったからしたのだといい、一方で母は父がどうしてもと言ったから結婚したのだといいました。その時わたしはそれを父母の照れ隠しか、恋愛ごとから子どもたちを遠ざけようとする行動だと思っていたのですが、実際のところ父と母は何か愛情以外の動機で結婚したのではないかとにわかに疑われました。それでいて、ハートマークが飛び散るような父のメッセージは、色恋沙汰から遠いと思われた父の生々しい面を見せつけられるようで、吐き気に近い嫌悪感をよぶものでした。実際わたしは体をよじるようにして不快感をやり過ごさずにはいられないような夜を送りました。


 それからしばらくわたしは、家庭の様子に気を張っていました。とくに夢美がこのことを知ると受験どころではなくなりそうでしたし、そうでなくても夢美がこの事実を知るのは耐えがたいことでした。父と母は、夢美の前で激しい喧嘩をすることはありませんでしたが、父は母と接触することを避けているように見えました。母は気まぐれに父の衣類を洗濯しなかったり、食事を作らなかったりしました。居間にあるカレンダーやホワイトボードに、母から父にあてた罵倒の殴り書きがあったり、夢美がいないときは二人が大声で言い争ったりすることもありました。普段の喧嘩なら半日や一日で収束するのですが、この時ばかりはこんな状態が半月ばかり続いていました。わたしはそれを避けて自室にこもってばかりいました。わたしよりよっぽど他者の機微に敏感な夢美は不穏な家庭の雰囲気に気づいて、何が起きているのか、あけすけな言葉でわたしに訊いたり両親に訊いたりしました。父はなんでもないから気にしないでいい、母さんは誤解しているんだといい、母は父がひどい人間であるから、と言い、それからいかに父でなく自分がわたしたち姉妹を愛しているかということを強調していました。夢美はさまざまに諍いの原因を推量しましたが、ありがたいことにその中に正しい推量は含まれていませんでした。もしそのことに夢美が気づいたら、呆れるほどに不器用なわたしはきっと嘘をつき通せないでしょう。そうして夢美がその可能性を挙げなかったことによって、わたしは安堵と痛ましさを覚えました。もしかしたら夢美はそのことを考えついていて、けれど恐れていたのかもしれないのですが。

 やがて母のクローゼットに新しい牛革のバッグとアンゴラのコートが現れ、事態はやや冷えてきたかに見えました。

 父は、母に言われたのでしょう、わたしたちをまたショッピングモールへ連れ出しました。夢美は流行りの小学生向けブランドの、テラコッタ色のキュロットを買ってもらってご機嫌でした。わたしは何かを買ってあげようという父の、或いは父に何かを買わせようという母の提案を断ることで、この事態を拒絶する意思表示をしようと試みました。

 然し両親は何らかの折り合いをつけたのか、彼らにとってそれは大したことではなかったのか、家庭は「いつも通り」の様相を見せ始めました。夢美はよくある夫婦げんかが少し長引いたのだろうと、終わってしまえば気にとめていないようでした。ですが、わたしの中で、家族という他者や結婚という制度に対していままで無条件に抱いていた信頼は不可逆的に破れたままになりました。


 しばらく経ったころ、わたしがひとり居間で勉強をしていると、入浴中の母の携帯電話が鳴りました。すぐに鳴りやむだろうと放っておいたのですが、あまりにも長くまた頻繁に鳴りつづけるので、少し苛立ちながら母の携帯電話を手に取りました。わたしはそこに、父でない人の名を見ました。そしてどこか既視感のある、赤やピンクの絵柄で彩られた、年甲斐もない文を見ました。母と見知らぬ男との間には、夥しい量の生々しいメッセージが飛び交っていました。メッセージを遡っていくと、二人が軽薄なインターネット上のサービスで出会ったことが見て取れました。それが始まったのはどうやら、母がわたしに、父の携帯電話から転送されたメッセージを見せたころだったようでした。おまけに、当初は母宛てに山のような男性からメッセージが来ており、そのうちの何人もと母はやり取りをしていました。ふたたび鳳仙さんの言葉がよぎりました。鳳仙さんは冷たい鎖に絡め取られた蝶のようでしたが、母はそうではなく、路傍の溶けかけた飴が、自らなかば腐った蜜を振りまいて蝿や蟻を群がらせて悦に入っているように感じられました。父とちがい自分は子を愛しているなどとぬけぬけと言った母の、脂の浮いた化粧。過剰な口紅の歪んだ笑顔。母を信じられないとして、一体誰を信じればいのでしょう。人の言葉を信じられないとしたら。

 わたしはこのとき確信しました。生涯、いかなる他人とも、一対一の(モノガマスな)契約を結べないほどに、わたしが割れてしまったことを。



 仕事のこと、親戚関係のこと、友人のこと、近所の人のこと、何でも話す母です。

 母が夢美の目を盗んで、わたしに、浮き浮きしながら「道彦さん」という「友達」について話し始めるまで、時間はかかりませんでした。「道彦さん」はどこかの小学校の校長先生でした。「道彦さん」には妻と三人の子供がいました。「道彦さん」はK地方の出身でした。「道彦さん」は背が低く母より一回り年上でした。「道彦さん」は真面目で、気の強い奥さんに虐げられ、不憫なのだそうです。

 ご冗談を。真面目な人が、妻子を持ちながら、他の女性、それも夫と娘のある女性と熱いメッセージを交わすでしょうか? 校長先生というのは、子供たちを教え育て、正しい道を説く存在ではないのでしょうか。


 見も知らぬ他人がわたしの視界に物質で以て侵食してきたとき、窓に雪のちらつく季節がはじまっていました。テーブルの上には、赤地にトナカイやクリスマスツリーやおどけたサンタクロースが描かれた包みが二つ。

「くれたのよ、望美と、夢美に。ママの友達が。ちょっと早いけれど、クリスマスプレゼントだって」

 母は幸福そうに言いました。送り主はいい人だ、と言わんばかりでした。夢美は現金にも、待ちきれないといった体で包みを開け、現れたブランド品の、肌触りの良いチェック柄のマフラーを首に巻いて喜んでいました。明日から学校につけていくんだ、とまで言っていました。

 わたしは激しい憤怒を感じました。二本、色違いでそろえられたカシミヤのマフラーは、ブランド名を挙げよと言われれば、誰でも口に出すような、要するにもっとも人口に膾炙したブランドのものでした。それは成金趣味で、蓮っ葉でしかありません。そんなものでわたしが喜ぶと思われたことに、わたしはまた憤りました。血管が破裂しそうなほどに。その安直さがとても厭らしい。なんて厚かましい。……わたしたちはあなたの娘ではないのです、お友達でもないのです。いったい何の権利があって、あなたはわたしたちに、こんな高価なプレゼントをするのですか。

 わたしは一人になった後、そのマフラーで、きつく己の首を絞めてみました。涙が出てきたのは、窒息しかけたせいでしょうか。こんなものを身につけて出歩く気にはなれませんでした。と言って、夢美にあげる気にもなりません。寧ろ夢美の首からもマフラーをはぎ取り、二本とも焼き尽くしてしまいたいほどでした。わたしはこの時、炎を持っていました。見も知らぬ他人を焦がすほどの憎悪を覚えたのは、この時が初めてでした。


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