キリさんの左手[6]
「シャイなひとだったんだね、すごく」
たえちゃんは柔らかな声で言った。
大学の屋上でフェンスに寄りかかり、都心のビル郡を眺めながら、学生生協で買った鯛焼きをふたりでかじっていた。
12月にしては暖かい陽気で、うっかり日焼けしそうなほど陽差しの強い日だった。
「シャイ……か」
たえちゃんの言葉を、口の中で転がしてみる。
今更ながらキリさんとの一連を聞いてほしくなって、共通の空き時間に屋上に付き合ってもらっていた。
キリさんとの出会いから説明するにはどうしても岩槻教授の受賞パーティーに招待されたことから話さなくてはならず、それでもたえちゃんは「ふうん、衣織は特別気に入られてる感じだもんね」と受け流してくれて、ほっとした。
担当教授との不倫についてだけは、いくら親友のたえちゃんにも打ち明けるのは
たえちゃんは愚鈍なひとではないので、もし何か察していてもわたしに問いただすようなことはしないだろうけれど。
「男のひとでもさ、相手の気持ちがほぼほぼ100%確実になるまで好きって言わないタイプのひともいるよね。
肩までの髪の毛をゆるくまとめたたえちゃんが、陽射しに目を細める。
子どもを宿し、その命にさよならするまで、ほんのひとときだけ「お母さん」だったたえちゃん。
「好きだったのかな、わたしのこと」
鯛焼きの最後のひと口を
「好きなんだと思うよ、話を聞く限りは。押しの弱いひとなんだろうね」
「うーん……」
「でもそんなにきれいな男のひとなんて、あたしも一度拝んでみたいな」
ジャワティーのPETボトルをもてあそびながら、たえちゃんはまたふんわりと笑った。
あのLINEのやりとりの翌朝、電源を入れ直すと、キリさんから短い返信が届いていた。
「わかりました。悲しいけど、俺はきっと何者にもなれないんだろうな。
いろいろありがとう。
キリ」
ありがとう。それはきっと、さよならと同義だった。
事実、あれからキリさんからの連絡はない。
わたしも潔く、フォローの言葉を送ったりはしなかった。
教授にしても、キリさんにしても、関係を終わらせるのがLINEというのがいかにも現代人らしくて、なんだかひどく
それにしてもキリさんがわたしの胸を通り過ぎた時間は本当にあっというますぎて、その痕跡と言えば電話の発信履歴とLINEのトーク画面くらいだ。
──いや、デートの先々で少しずつ写真も撮ったはず。
そう思い至り、ほとんど見返していなかったフォトフォルダをスクロールしていると、最初のデートの浜離宮で撮った一枚が目に飛びこんできた。
御茶屋で和菓子を写そうとしたとき、撮りやすいようにわたしの菓子皿を動かしてくれたキリさんの左手が写りこんでいた。
その繊細そうな指先を見つめていると、品川駅近くでよろめいたわたしを支えようとしてくれたときや、猫カフェでわたしの右手の怪我を確かめたときに触れた左手を思いだした。
最後に握手した右手よりも、何気なく触れたあの左手がなぜかよりせつなく思いだされて、わたしの胸を苦しく締めつけた。
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