キリさんの左手[5]
その日、あの後でキリさんと話したことは、あまりよく覚えていない。
プエラリア・ミリフィカ。
その単語を彼の口から聞いたことが、この恋に踏み込めない決定打となってしまった。
猫カフェを出てサンシャインタワーの展望室に上り、寒いねと言い合いながら眺望を楽しんだときも、キリさんの予約してくれた多国籍居酒屋でお酒と食事をいただいたときも、わたしはテンションが落ちてしまったことを悟られぬよう、必要以上にはしゃいでみせた。薄っぺらい笑みを顔面に貼りつけて。
まるで、気乗りしないセックスで演技をするときと同じ心境だった。
デートの終わり、池袋駅の東口改札前で別れるとき、キリさんはわたしに握手を求めてきた。
抱きしめるでもキスをするでもなく、好きだと言うでもなく。
彼の冷たい指先を握り返しながら、「今日はありがとうございました」と頭を下げた。
何か言いたげな表情のキリさんを残して、黄色い電車に飛びこむように乗った。
早くひとりになって、頭の中を整理したかった。
ベッドに潜りこもうとしていると、消灯したばかりの部屋でiPhoneの画面が光った。
キリさんからのLINEだった。
「衣織ちゃん
今日はありがとう。楽しかったね。
展望台はちょっと寒かったから、衣織ちゃんが風邪を引いていないか心配です。
指先もちゃんと手当てしてね。
よかったらまた年内にデートしてほしいです。
できればクリスマスとか(笑)
キリ」
羽毛布団に潜りこみ、暗闇の中で光る液晶を見つめていると、悲しみが湧き上がってきた。
今日はキリさんに、教授との関係が終わったことを報告したかったのに。キリさんのおかげで、他に目を向けることができたお礼も言いたかったのに。
そして、わたしたちの今後を明らかにする言葉をキリさんから聞きたかったのに。
「(笑)」って、何なの。
どうしていつまでも、はっきり好意を告げてくれないの。
もう、疲れた──。
涙をこぼす代わりに、わたしは指先を液晶の上に滑らせた。
「キリさん、今日もありがとうございました。またご馳走になってしまい、すみません。いろいろ楽しかったです。
キリさんのことは異性とは思えないけど、素敵なひとだなあとお会いするたびに思います。
またぜひ遊んでいただけると嬉しいです。
本宮」
LINEのトークの吹き出しに小さな小さな「既読」の文字が表示されるのを、わたしは息を詰めて待った。
1分と経たずにその二文字は現れた。
彼は電話をくれるだろうか、それとも──。
横たわったまま、わたしはひたすら待った。
はたして、20分ほど後にキリさんの言葉がLINEで届いた。
「遅くにごめん。ちょっと考えてしまったんだけど、『異性とは思えないけど』って何? なんだかすごくショック。
俺は見た目はこういう風だけど、異性愛者だって言ったよね? デートを重ねて、期待しちゃった俺はバカかな?
それとも今日、変なこと話し過ぎちゃったかな? 衣織ちゃんといるとリラックスして気持ちよくなっちゃうもんだから、ついつい自分語りが過ぎちゃったかな。
俺は、衣織ちゃんともっと何でも話せる仲になりたいって思っただけなんだけど、もしかして
キリさんの発したたくさんの「?」を見つめているうちに、今度こそ苦い涙が頬を伝って枕に沁みこんでいった。
暗闇の中で、わたしはしばらくLINEのトーク画面を見つめ続けた。
やがて、どろりとした眠気が思考や感情をシャットアウトしようとするかのように訪れた。
「わたしキリさんのこと、キリさんという人間として好きですよ。それ以上でも以下でもありません。
そのことを言いたかったんです。
おやすみなさい」
それだけを返信し、既読になるのも確認せずに、わたしはiPhoneの電源を落として眠りの世界へ逃げこんだ。
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