キリさんの左手[4]
「一応、消毒とかしなくて平気? 店員さんに訊けばきっとあるよ」
ぱっと手を引っこめたわたしに、キリさんはなおも心配そうにたずねた。
「平気ですっ」
緊張のあまり、なんだか怒ったような声になってしまった。
気まずい空気が流れた気がしたけれど、キリさんはまた穏やかな表情で横たわった。待ち構えていたように、さっきの猫がキリさんの胸の上に飛び乗る。
よほど居心地がいいのだろうか。わたしもキリさんのその胸に抱かれる自分を想像してみようとしたけれど、なんだかうまくいかなかった。
キリさんに触れられた指先が、熱い。
「キリさんは──」
わたしのこと、どう思ってますか。そう訊きたかった。気まずい会話の後味は、もっと気まずい会話で打ち消せばいい。
でも、「ん?」と優しく微笑まれると逆に緊張して、続く言葉が出てこない。
「生まれ変わったら何になりたいですか。猫ですか」
無難な話題に軌道修正してしまった。
「そりゃあ、衣織ちゃんみたいなかわいい女の子に生まれ変わりたいよ」
「またまたそんな……」
今日はそんな曖昧な褒め言葉で満足しない。ストレートに胸の内を聞かせてほしい。
キリさんは胸に乗った猫の背をやさしいリズムで撫でている。
「いやでもほんと、きれいに生まれたいよね。女の子はいいな」
「今だってめっちゃきれいじゃないですか! うらやましいですよ」
思わず力がこもった。
「いや、メイクとかヘアケアとかで無理やりきれいに見せてるだけだよ。俺、別に男であることが嫌なわけじゃないんだけどさ、なんで体がこんなにきれいじゃないんだろうって思う。不平等だよね」
キリさんはなおも言葉を重ねる。リラックスした体勢のせいか、ずいぶん
「だから俺、女の子の姿で女の子を愛することが究極の理想なわけ。よくLGBTと間違えられるけど、違うんだ」
「なるほど……」
「まあ、
えっ。
何か聞いてはいけないことを聞いた気がした。心がざらりと撫でられるような違和感。
「それとね、サプリ飲んでる。女性ホルモンみたいな作用のあるやつ。プエラリア・ミリフィカって知ってる?」
「知っ……てます」
その単語の意味が降ってくるまでに、数秒を要した。
プエラリア・ミリフィカ。
数年前に、友達の間で流行ったサプリメントだ。
胸が大きくなるなど女性らしい体つきになる効果があるとかで、わたしも一時期せっせと買って飲んでいた。実は健康に良くないという噂を聞いて、流されやすいわたしはすぐにやめてしまったけれど。
「女性の体の機能がほしいわけじゃないんだけど、表面は限りなく近づきたいんだよね」
「はあ……」
「男性ホルモンの働きを抑えるみたいで、加齢臭対策にもいいみたい」
問わず語りに話すキリさんが、急にとても遠いひとに思えた。
「そうなん…ですか」
「俺もそのせいかさ、なんか微妙に胸が出てきたっぽいんだよね、最近。はは」
わたしの好きなすらりとしたロシアンブルーが、キャットタワーのてっぺんから飛び降りた。
わたしにはそれが、恋の舞台から降りることの象徴のように見えた。
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