キリさんの左手[3]

「はは、くすぐったい、ちょっと」

 猫たちに囲まれて、キリさんは完全にリラックスして寝そべっていた。

 長毛種の猫がキリさんの首あたりにふさふさの尻尾をすりつけるたび、わたしの聞いたことのない笑い声を立てる。その足元にもトラ猫がちょこんと乗っている。

 池袋にある猫カフェ。

 次のデートはお互い一度も行ったことのない場所にしよう、というキリさんの提案から実現した。


 キリさんは動物が好きで、山梨県の実家でも犬と猫とハムスターを飼っているのだそうだ。

「今はひとり暮らしだからね、帰り時間もまちまちだし、さすがに無理だけど」

 そう言いながら、キリさんは胸に乗っかっている毛並の豊かな猫の背を撫でつけた。

 わたしは人並みに猫が好きだけれど、猫の種類に詳しくはない。グレーの短毛種で引き締まった体つきの猫がロシアンブルーだということがぎりぎりわかるくらいだ。

 あとは三毛猫やペルシャ猫、シャム猫など、子どもでもわかる程度の有名どころしか知らない。

 わたしの緊張が猫たちにも伝わるのか、わたしはびっくりするほど猫にモテなかった。

 かわいいな、と思った白い猫にそっと触れようとしたら、シャッ! と指先を引っかいて逃げた。それでだいぶ心が折れてしまった。

 友人たちから聞かされていた猫カフェのイメージと、ずいぶん違う。

 わたしはふてくされて、飲み放題になっている小さな缶に入ったジュースをちびちび飲みながらキリさんの横に腰を下ろしていた。果汁10%で、人工甘味料の味が強い。

「いいですね、キリさん。猫、全然来てくれませんよ、わたしのとこ」

「全力でリラックスすればいいんだよ。丸腰だってことがわかれば猫たちも警戒を解くよ」

 猫カフェが初めてとは思えないほど、キリさんは猫たちの扱いに慣れていた。

 カーペットの上に四肢を投げだしたキリさんに、猫たちが次々と寄ってくる。

 室内には、同じように寝そべって猫のベッドと化しているおじさんや、膝の上に猫を乗せたままぼうっとコーヒーを飲んでいる妙齢の女性。みんな、どこかどろりとした空気をまとっている。やっぱりわたしのイメージと違う。


 キリさんのつやつやの髪の毛がカーペットの上に散らばっている。

 毎日、トリートメントしているのかな。そう思うと複雑な気分になった。

 今日は、今日こそは、キリさんとの関係をはっきりさせたい。──わたしたち、恋人になるの? それとも。

 キリさんの気持ち以前に自分の気持ちがわからないのは、キリさんを純粋に男性として意識していいのかどうかがどうしても判然としないからだ。

 どうしてこのひとは、こんなに美しいんだろう。

 無邪気に寝そべっているだけでもオーラがあるし、グレーのパーカーにジーンズという今日の格好では、後ろから見たら完全に女性だ。

「……あれ?」

 キリさんが急にわたしに意識を向けた。

「どうしたのここ? 引っかかれた?」

 わたしの指先の小さな傷に気づいたらしく、身を起こす。キリさんの胸に乗っていた猫がすとんと床に飛び降りた。

「あ、はい、さっきちょっと」

 血が出ているわけではないので、大げさにしたくなかった。店員に聞かれないように声を潜めて答えると、キリさんもその意図を察して小さな声で「大丈夫?」と訊いてくれる。

 そのままわたしの右手を左手でそっと持ち上げ、顔を近づけてきた。

 ひえっ。

 鼓動が早くなり、耳に血がのぼるのを、わたしは悟られるまいとした。

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