キリさんの左手[2]
教授の部屋へは、行かなかった。
ゼミのあと、たえちゃんとあのインドカレー屋で夕食をとり、まっすぐ帰宅した。
エアコンが稼働し、冷えた部屋が温まってきた頃、iPhoneが震え始めた。
ディスプレイに表示される名前をちらりと確認しつつ、わたしは自分のためにうんと濃いコーヒーを淹れた。
キリさんがベルリンで飲んだコーヒーは、このくらい濃かっただろうかと考えながら。
しばらく着信を無視し続けていると、LINEが届いた。
「話をするために会いたいだけなんだけどね」
はっ、と吐き出すように笑ってしまった。
昨日の今日で、どの口が言うのだろう。
教室での、あのシーン。
尊いものを見た、と思った。
たとえ報われなくても。
たとえ誰かへの裏切りでも。
たとえ一瞬でも、沖くんとたえちゃんは、たしかに愛し合っていたことを示した。
わたしも気づきたかった──愛が燃え尽きて、ただの執着になる前に。
マグカップを持ってライティングデスクに移動し、PCを立ち上げて、わたしは卒論の仕上げにかかった。
憂いを晴らし、心おきなくキリさんとのデートに向かうために。
ひたすら指を動かしていると頭の中がどんどんクリアになって、筆が進んだ。
また、iPhoneが振動した。
「書籍化関連のこともだいぶ落ち着いて、ようやく衣織との時間を作ってやれるのに」
やれる、とは何だろう。
この期に及んでまだ、自分だけが与える側だと思っているのだろうか。
すっかり冷めたコーヒーを口に含んで、わたしは返信を打った。
「わたしはもう、わたしの時間を生きています。
お世話になったお礼に最高の卒論を書き上げますので、最後までよろしくお願いいたします」
返信は来なかった。
日々は淡々と過ぎていった。
意外なことに、誰もゼミを休まなかった。たえちゃんも、沖くんも、兼子さんも。
あのビンタの跡が消えてからも、沖くんの頬には小さな青痣が増えていった。
それでも、彼と兼子さんは並んで座って授業を受け続けた。
意地でも、恋人の座を譲らない。兼子さんからは、そんな執念のようなものすら感じた。
教授はわたしと目を合わせることなく、あたかもわたしという学生が存在しないかのように振る舞いながら授業をした。
それでよかった。不義の恋の終わりは、美しくない方がいい。
クリスマスに教授の自宅に集まろうという企画は、何事もなかったかのように進行していた。
どうにでもなれ、と思った。
そしてようやく、キリさんとの三度目のデートの日がやってきた。
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