キリさんの左手

キリさんの左手[1]

 翌日は火曜日、ゼミの日だった。


 教室に入るなり岩槻教授はわたしの顔を探すそぶりをし、目が合うと下卑げびた笑みを見せた。

 授業中、教授はわたしたちにちょっとした課題を与えておいて、ぶらぶらと机間きかん巡視じゅんしをしながら何かスマホの操作をした。

 じーん。

 自分のiPhoneが振動した気がした。

 予感があった。

 鞄からそっと取りだし手のひらの中で画面を見ると、やはり教授からのLINEで

「この後、来なさい」

とあった。

 こちらの反応をうかがう教授の視線を感じながら、わたしはiPhoneを鞄の底に落とした。


後松うしろまつさん」

 ゼミが終わり、荷物をまとめていると、沖くんの声がした。

 わたしの隣りに座ったたえちゃんに話しかけている。

「久しぶり」

 たえちゃんは、形のいい顎をすっと上げて沖くんを見た。

 沖くんの隣りには、何も知らないはずの兼子さんが寄り添っている。沖くんとおそろいのビニールバッグを抱えて。

 わたしは緊張のあまり、生唾をごくんと飲みこんだ。


「体調は、もういいの?」

 沖くんはからりとした、それでいていたわりの感じられるトーンで言った。

「うん、平気。諸々もろもろありがとう」

 たえちゃんは穏やかな声で返した。

 兼子さんが疑問の表情を浮かべる前で、ふたりはそのまま数秒間、見つめ合っていた。

「……行こ」

 兼子さんが沖くんの身体をそっと押したとき、

「沖くん」

たえちゃんが、座ったままりんとした声で言った。みんながたえちゃんを見た。

「あたし、沖くんのこと好きだったよ」

 それは、今までに聞いたこともないほど澄んだ、よく通る声だった。

「俺も」

 沖くんがたえちゃんを見つめて言った。

 一瞬、時が止まったかと思った。


 ばちんっ。

 兼子さんが沖くんの頰を張る音が、教室に響き渡った。

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