待つとし聞かば[6]

「生まれ変わったら、あたしを真っ先に見つけてね、先生」

 岩槻教授の小説『待つとし聞かば』の中で、ヒロインの詩織が初老の古典文学研究者の望月もちづきに送るメッセージだ。


 物語は、望月の視点で描かれる。


 助教授から教授になり、メディア露出をする機会の増えた望月の元に、ひとりの女子大学生が訪れる。

「あたし、先生のファンです」

 和歌を愛するその学生・詩織は何度も研究室に押しかけ、望月の身の回りの世話を焼くようになる。

 やがて、ふたりは年の差を超えた恋に落ちてゆく。


 望月には妻子があり、理性で歯止めをかけようとするが、詩織はますます頻繁に望月を誘うようになる。

 やがて倦怠けんたいを感じるようになってきたある日、望月に胃がんが見つかる。

「自分はどうせ、おまえより早く死ぬのだから」

 そう言って詩織と距離を置き、手術で胃の4分の3を切除した望月。

 身体は回復し、転移もなく、徐々に日常を取り戻しつつある望月の元へ、音信の途絶えていた詩織から連絡が入る。

 彼女は望月に出会う前から不治の病に侵されており、既に余命いくばくもないという。

 望月は動転するが、療養中に溜まった仕事の数々のため、駆けつけることができない。

 入院前に冷淡に接したことを悔いる望月。

 最期まで再会を果たさぬまま、詩織はひっそりと若い生涯を閉じる――――。



 わたしたちの不倫が始まってから半年ほど経った頃に執筆が始められたこの物語は、出会いのエピソードも細かい設定も、わたしと教授自身がモデルであることを思わせるものばかりだった。

 1年間に渡って文芸誌にて連載されている間、自分の放った覚えのある台詞が出てくるたびに照れと困惑を覚え、やがて望月が倦怠を覚え始める展開に胸を痛め、気持ちを先回りして苦しむようになった。

 ご都合主義の展開に鼻白はなじらみ、教授がほのめかそうとしていることを考えないように腐心ふしんした。

 書籍化が決まった頃には、わたしたちの関係に冷たい隙間風が吹き始めていたのだ。


 立ち別れいなばの山の峰にふる

 まつとし聞かば今帰り


 百人一首に収められた中納言行平ゆきひらの歌だ。

 あなたが待っていると聞いたならば、ただちに帰ってまいりましょう。

 物語の中で詩織が愛したとされる一首を、わたしは何度も反芻する。

 距離を置くようになってから、教授に対してそんなふうに感じたことが、ただの一度でもあっただろうか。

 そして、もしそれがキリさんだったなら。


 香辛料の残り香が満ちた部屋の中で、いつの間にか深い眠りに落ちていた。

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