願わない心[6]
そんな質問、ちょっと、ずるい。
初めて、キリさんのことをずるいと思った。
わたしはまだキリさんから、はっきり好意を聞かされていないのに。
「あ、そう言えば」
わたしはわかりやすく話をはぐらかした。
「うちのゼミ生の
キリさんは数回まばたきをして、
「えっ、……ああ! 兼子さん」
記憶をたぐるような顔をしたあと、華やかな微笑みを浮かべた。
「そっか、衣織ちゃんと同期になるわけだ。そうだよね、去年3年生だったってことは」
楽しそうに言う。大事な話題を逸らされて怒っているようには見えない。
キリさんの心が、わからない。
「がつがつしてておもしろかったなあ、あの子。手帳にびっしり質問用意してきてて。…えっ、てことは、俺と知り合いなこと話したの?」
「あ、いえ……なんとなく伏せちゃいました、そのときは」
キリさんは少しだけ傷ついた顔をした。
「……そうなんだ」
気まずい沈黙が生まれた。陽気なBGMがいやに耳につく。
どうしてわたしはあのとき、兼子さんにキリさんを知っていることを話すのをためらったのだろう。
冷めてしまったパエリアは、少しぼそぼそして味気なく感じられた。
「衣織ちゃんはさあ」
品川駅まで肩を並べて歩きながら、キリさんは言った。
「欲とかってないの」
「欲ですか」
質問の意図がわからずに、わたしはキリさんの顔を見上げた。
メイク直しのために女子トイレを使ってしまうようなひとだけど、こうして一緒に夜道を歩いていると、やっぱり男性なのだと意識してしまう。
酔っ払いにぶつかられないよう、浜離宮のときのゆったりした足取りとは違って、さりげなくリードするように半歩先を歩いている。
「なんかこう、思いっきり愛されたい、みたいなさ」
……ああ、そういう欲か。
恋愛欲というか、遠回しに性欲のことを言っているのだろうか。
「うーん、どうでしょう」
夜道の雑音に紛れないように、やや声を張った。
「……そうですね、最近はそうでもないです。無欲というわけじゃないけど……」
最後に教授とセックスしたのはいつだろう。授賞パーティー以降はふたりで逢うことさえしていないから、季節が変わる前のことだ。
「求めたり疲れたりを繰り返してて、今はちょうど疲れてる時期なんだと思います」
わたしはできるだけ誠実に答えた。
改札口に近づくにつれ、少しずつ歩むペースが落ちてゆく。
名残惜しいようなそうでもないような、中途半端な気持ちだった。
「そうなんだ」
キリさんの穏やかな声が、夜気に溶けるように消える。
「幸せになりたいとか、ないの」
幸せ。
単刀直入すぎる言葉に、わたしは少し笑った。
「願っても、叶わないから」
そう、いつからか願わなくなっていた。
いちばんに愛されたいとか。約束の言葉がほしいとか。特別に扱ってほしいとか。
わたしの中の何か、敏感であるべき心の芯のようなものが、ずいぶん長いこと麻痺してしまっているのかもしれない。
そんなことを思って束の間ぼうっとしたとき、目の前を若者の集団が笑いさざめきながら通り過ぎ、わたしはよろけた。
わたしの右側を歩いていたキリさんの左手が、かすかにわたしの右手に触れた。
引き寄せようとしてくれたのだと気づいて、耳のあたりがかあっと熱くなる。
顔を上げたとき、キリさんはいつもとまったく変わらぬ様子で
「品川は高層ビル建てすぎだよね、東京湾の海風が全然吹きこんでこない」
と夜の街並みに向かって話すように言った。
腕を絡めて歩く沖くんと兼子さんの後ろ姿を、ふと思いだした。
あの姿をキリさんと自分に重ねてみようとしたけれど、うまく想像できなかった。
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