願わない心[5]

「ごめんね、さっき。男子トイレじゃメイク直せないからさ。かと言って女子トイレで声出すとばれちゃうから、無視したみたいになっちゃって」

 くらげの水槽の前に戻ると、先に戻っていたキリさんはいくらか気まずそうに、少し早口でそう言った。

 そっか、それで返事もしてくれなかったんだ。

 に落ちたけれど、それにしても同じタイミングで御手洗いに入らなくても、というもやもやした思いは少しだけ胸に残った。

 きっと普段から女子トイレを使い慣れすぎて、デートの相手とかち合ってしまうことにまで気が回らなかったのだろう。

 そう考えると、完璧な人間だと思っていたキリさんの人間くさい部分を垣間見た気がして、それはそれで良いことのように思えた。


「あ、3時からイルカのショーですって。行きますよね?」

 気を取り直してそう言うと、キリさんは急に眉根を寄せ、悲しげな表情になってうつむいた。

「……ごめん、衣織いおりちゃん」

「えっ」

「俺、無理。調教された動物を見ると悲しくなるんだ。野生を忘れた姿が、かわいそうすぎて」

「あ、そうなんですか」

 わたしは慌ててフォローの言葉を探した。

「じゃあ全然無理しなくて大丈夫ですよ、もう充分楽しんだし」

「──なーんて」

 キリさんはぱっと顔を上げた。愉快そうに笑っている。

「うそうそ。そんなデリケートな人間じゃありませーん」

「えっ」

「行こ行こ。早く席取らなきゃ」

 からかわれたのだと、ワンテンポ遅れて気がついた。


 キリさんが調べておいてくれたスペイン料理の店で、わたしたちはお腹いっぱいパエリア(メニューの表記は「パエージャ」だった)を食べた。

 店内にはラテンミュージックが流れ、学生風から落ち着いた社会人まで、多くのカップルが席を埋めている。

「あ、そうだ。わたし、キリさんの卒論読みました」

 ムール貝の殻を皿にはじきながら、わたしは今思い出したかのように切りだした。

 本当はもっと早く話題に出したかったのだけど、落ち着いて話せそうなタイミングを見計らっていたのだ。

「へえ、ほんと」

 キリさんは、アホスープをすくう手を止めてわたしを見た。

 アホとは、にんにくのことだ。わたしはガスパチョにした。

「はい、学生課のデータベースで。キリさん、鷗外だったんですね。なんとなく唯美主義っぽいから、谷崎かと思いました」

 言ったあとで、唯美主義だなんて勝手なイメージで決めつけすぎたかと思ったけれど、キリさんは特に気を害した様子もなく微笑んでいる。

「鷗外を追いかけてベルリンにまで行かれたんですね。着眼がすごく独特で……ドイツのコーヒーがすごく濃いなんて、わたし知らなかったです。『薄いコーヒーがアメリカンと呼ばれる所以ゆえんは対極にドイツのコーヒーの濃さがあるからかもしれない』ってあたり、わたしすごく好きです」

 わたしは夢中で喋った。あの論文を読んだときに覚えた感動を、他ならぬ筆者本人に伝えられる僥倖ぎょうこうに興奮していた。


 気づけば、キリさんがとてもあたたかい眼差しでわたしを見つめていた。

「そんなに熱心に読んでくれたんだ」

「えっ、あっ、はい」

 わたしは急に照れて、パエリヤをぱくぱく口に運んだ。

「少しは、俺に興味持ってくれたってこと?」

 キリさんは頬杖をついて、わたしを射抜くようにまっすぐに見た。

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