願わない心[4]

 サメが、マンタが、アジの大群が、頭上を通過してゆく。

 海中トンネルはまるで本当に海の底にいるみたいで、わたしは束の間、日常の些事さじから解放されていた。

「珍しいよね、あれ。ドアーフ・ソーフィッシュだって」

 ここへ来ることをリクエストしたキリさんも興奮気味だ。

 照明に照らされて青く浮かびあがるキリさんの横顔はぞくっとするほどきれいで、わたしはやっぱりこのひとの性別を忘れてしまう。


 品川駅前のアクアスタジアムは、水族館としては規模が小さめで、ちょっとしたデートにはぴったりだった。

 小さいとは言え、足を踏み入れればそこは都心のビルに入っていることを忘れさせるほど海のにおいと青い光、そしてたくさんの生命力に満ちていた。

「あ、ねえ見て、休んでる」

 ドアーフ・ソーフィッシュと名のついたノコギリエイが、水槽のトンネル部分のちょうど真上に白い腹をぺったりと水槽に貼りつけて動きを止めている。

 眠っているように見えるけれど、エラはひくひく動いている。

 同年代の若い女の子たちが、きゃあきゃあ言いながらこぞってスマートフォンを向け始めた。

 あの写真は、やっぱりSNSにアップされるのだろうか。

「キリさんは、海、好きですか」

 去年の夏休みに友だちと行ったサイパンの海を思いだしながら、わたしは尋ねた。

「うん、好き」

 水槽から目を逸らさずに、キリさんは即答する。

 一瞬、まるで自分が「好き」と言われたように錯覚して、胸が大きく鼓動した。

「ユメ……ユメウメイロ、だって。ねえねえ、どこで区切れるんだろ。ユメウ・メイロかな、ユメウメ・イロかな」

 わたしをどきどきさせたことに気づかずに、キリさんは魚の名前の表示に夢中だ。

 浜離宮はまりきゅうのデートでは見られなかったキリさんの無邪気な一面に、楽しい気分が底上げされてゆく。


 円筒状の水槽に揺らめくクラゲにキリさんが熱心に見入っているとき、ちょっと、とことわって御手洗いに行った。

 少し並んで個室に入り、用を済ませて手を洗っていると、キリさんの姿が目に入ってぎょっとした。

 ふたつ隣りの鏡の前で、ファンデーションをはたいていたのだ。

「えっ、あれ」

 困惑したまま話しかけようとすると、キリさんはわたしに気づいて口元を軽く引き上げるだけの笑みを見せ、ポーチを閉じて先に女子トイレを出て行った。

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