願わない心[2]

 終業のチャイムが鳴り、教授はわたしと目を合わせないまま教室を出て行った。

 いつも一緒にゼミを受講しているたえちゃんが今週は大学を休んでいるので、ひとりで帰りじたくをしていると

本宮もとみやさーん」

と声をかけられた。

 ゼミ内唯一のカップル、兼子かねこさんとおきくんだ。

 ふたりとも、大学名の印刷されたビニールバッグを抱えている。大学生協で売っているやつだ。

「さっき、なにひとりで笑ってたの」

 兼子さんがおかしそうに言う。

「うそ、見られてた?」

「見えてた見えてた」

「ちょっと思いだし笑い」

 ごまかすと、兼子さんはふふふ、と笑った。

 日本人形のような美少女だ、と彼女に対面するたび思う。緑の黒髪に、透けるように白い肌。ふっくらとした、ばら色の頬。

 きりりと揃えられた前髪がこんなに似合うひともなかなかいない。


「卒論、進んでる?」

 沖くんが訊いてきた。

 彼女とは対照的に年中真っ黒に日焼けしている彼は、もう11月だというのに半袖Tシャツ1枚だ。寒くないのだろうか。

「うーん、8割方は書けたかな」

「えっ、はええ。俺まだ半分も書いてないよ」

「沖くんって、永井荷風だっけ」

「うん。本宮さんは三島でしょ」

 この近代文学ゼミの卒論は、近代の文豪をひとり取り上げて論じるスタイルを取るひとが圧倒的に多い。

 誰を取り上げるかで、そのひとのアイデンティティーが透けて見える気がする。

 兼子さんは夏目漱石だし、たえちゃんは泉鏡花だ。見事にみんなかぶらず、ばらけている。

 わたしの中で勝手にチャラ男に分類している沖くんが、太宰治でも坂口安吾でもなく永井荷風を選んだのは意外だった。

「ねえ、このあと暇? 3人で御飯行かない?」

 兼子さんがわたしの袖を軽くつかんで言った。


 大学と最寄駅のちょうど中間にある、地元の学生に人気のインドカレーの店に、少し並んで入った。

 プレートをはみ出し、テーブルにつくほどの巨大なナンが名物だ。マサラチャイも、とても美味しい。

 ときどきたえちゃんやクラスの子と来るけれど、この3人ではもちろん初めてだった。

 カップルと同席するなんてあまり気が進まなかったけど、ふたりの会話の温度やテンポは快く、意外に楽しく食事は進んだ。

 ゼミの話、卒論の話、就活のエピソード。

 わたしも兼子さんたちも、それぞれ来春からの就職先を決めている。わたしは商社。たえちゃんは、院進学だ。

「ほんっと私立文系なんてつぶしが効かないよなあ。何十社落ちたことか」

 ナンをちぎって口に運びながら、沖くんが言う。

 あ、沖くんって左ききなんだ。今気づいた。

「でもさー、一次選考の感触でわかるよね。今はぎりぎり受かっても、いずれ役員面接で落とされるだろうなあとか」

 兼子さんはバターチキンカレーにナンをディップする。その爪はラメ入りのネイルで丁寧に塗られている。

「あれ、兼子さんって出版社だったっけ」

 わたしはマトンカレーのマトンを咀嚼そしゃくしながら、何気なく訊いた。

「うん。S社」

 兼子さんの返事に、どきりとした。

 キリさんの勤める会社だ。

「OB訪問で、うちのゼミの卒業生のところ行ったんだよ。受かったのはほんとそのひとのおかげだと思ってんだけどさ、でもね、すごい変わったひとだったんだ。男なのに化粧してるの」

 わたしの胸中も知らずに、兼子さんはぺらぺらと語った。

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