願わない心
願わない心[1]
大学の学生課にあるPCで、卒業論文データベースにアクセスした。過去の卒業生の卒論を閲覧することができる。
自分の学生番号と生年月日でログインし、閲覧内容を外部に漏洩しないこと、執筆者の権利を侵害しないことなどの項目に「承認する」のフラグを立てる。
近年、過去の卒論の内容を丸写しする悪質なケースが全国的に問題になり、大学側も情報の管理に腐心しているようだ。
キリさんの卒業年を選択し、学部・学科で絞ってゆく。
「近代文学ゼミ
あ、あった。
「森鷗外の珈琲は苦いか」
それが、卒論のタイトルだった。
利用の順番待ちをしている学生のことも忘れて、わたしは夢中で読み
森鷗外の作品群、特に「舞姫」を取り上げながら、鷗外のドイツ留学中の生活、見聞きしたもの、その後の作品に影響を与えたものなどを、実際にベルリンに足を運んで分析している。
テーマ自体は特別目新しいものではなかったけれど、鷗外と言えばビールと言われるところをあえてコーヒーに焦点を当ててみたり、ドイツ語の熟練度を仮定してコミュニケーション力を分析してみたりと、ひとりの青年としての鷗外を丸裸にするような熱量を感じる力作だった。
すごい。
キリさんは、すごい。
わたしは自分の執筆中の卒論の甘さを思い、恥ずかしくなった。全面的に書き替えたくなるくらいだ。
キリさんに会いたい。また話したい。
あの不思議な空気感をまた味わいたい。
何よりも、キリさんといると教授のことを忘れていられる。
不毛な恋に身を投じる自分を、客観的に見つめられる。
世の中には、若くて、未婚で、魅力的なひとがたくさんいるのだということを思い出させてくれる――。
その翌日は、ゼミの日だった。
わたしは極力教授の顔を見ないようにしながら講義を受け、当てられれば淡々と発言し、何もなかったように黙々とノートをとった。
教授も全力でこちらを意識しないように振る舞っているのがわかった。
あの日、浜離宮で教授からの着信を無視したあとは今日に至るまで、電話もメールもいっさい来ないままだった。
わたしは教授の自尊心を大きく傷つけたのだろう。いずれにせよ、もう潮時なのだ。
冷戦状態でもこうしてまじめにゼミに出席しまう自分がおかしくて、わたしはテキストで顔を隠しながらひとりくすくす笑った。
週末にはまた、キリさんとのデートが控えていた。
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