第4話

 おしずさんが金属でできた扉を殴り始めたので、近所迷惑とおしずさんの手を心配して戸を開けてしまった。彼女は今、ソファの上で体育座りをしていた。

普段から鍛えているわけでもないおしずさんの手は、さっきの出来事で指の付け根の皮が裂け、血が滲んでいた。なので、いやがるおしずさんを無理矢理洗面所に連れていき、水洗いした後で絆創膏を貼って応急処置をした。まさか、傷口が水で染みるという理由で暴れるとは思ってもいなかったので時間がかかり、昼休みはあと三〇分もない。

おしずさんのぶんのコーヒーを淹れ、テーブルに置いた。

「嫌いなんですよね、コーヒー」

「飲まなくていいよ」

 私は自分のお弁当の包みを開く。

「砂糖とミルク、入れてください」

 キッチンにいるときに言ってほしかった。勝手に家にあがってきて我がまま放題でいらつくけれど、結局私にはおしずさんを退ける力はなく、キッチンまで足を運んだ。

 せめてもの報復として、コーヒー牛乳レベルになるほど大量のミルクと砂糖を入れてやった。

「これなら飲めるでしょ」

「しずこさんのと替えてください」

 おしずさんは見向きもせずにそう言った。私はブラックしか飲まないことを知った上で、こんなことをさせたのだ。なんという嫌がらせ。私は甘ったるいそれをいやいや飲みながら、お弁当箱のふたを開けた。

「しずこさんのお弁当には、冷凍食品が入ってないんですね」

 ソファの上から、膝にあごを乗せたおしずさんが私のお弁当を見ている。

「私が作ってるからね。お母さんそういうの嫌いだし」

「本当はわたしも嫌いなんです、冷凍食品。でも、ママは面倒だからってそればっかり使う」

 おしずさんは自分の弁当箱を開けた。と思うと、突然ゴミ箱の上でそのお弁当をひっくり返して全部捨ててしまった。

「あらあらあ、手が滑ってしまいましたね。大変ですよ、しずこさん。わたしの食べるものがなくなってしまいましたあ。どうしましょうねえ?」

 どうあっても私から弁当を奪いたいらしい。しかし、ここは私の家だ。

「菓子パンなら、あるけど」

「ざあんねん。わたし、菓子パンをご飯として食べるとか無理です。しずこさんは空気の読めない人だと心配してはいましたが、まさかここまでだったなんて、驚きです。言わなければわからないのであれば言わせていただきますけれど、どうしましょう? あ、痛い痛い。しずこさんのせいで怪我した手の傷が痛みはじめました。これは法外な治療費かそのお弁当を頂かない限り治りそうもありません。どうしましょう。……ちらり」

 戦慄が走りそうなくらい白々しい嘘泣きだった。

 しかたない。私が菓子パンを食べればいいだけの話だ。

「なんでしょう? この満足に手を動かせない感じは。ひとりではお弁当を食べられそうもありませんねえ。昼休みは残り二十分ですし、帰り道を考えるとあと十分少々。これはしずこさんが責任をとるのが妥当だと思いますが、いかがですか?」


 ソファに座っているおしずさんの口に、お弁当の卵焼きを運んだ。おしずさんに食べさせることに忙しい私は、お昼ご飯を食べることはできそうもない。

「しょっぱいですねえ。わたし、卵焼きは甘いのが好みなんです。覚えておいてくださいね」

 昼休みは残り七分。もう出発しなくては。

「わたし、次の時間は水泳なんですよね。水着忘れちゃいましたけどお」

 貸せというのか、水着を?

「まさか。全裸のほうがましです。……午後の授業、一緒にサボりましょうか。ここは居心地いいですから」

 どうせ二人きりになれば、いつもよりひどいイジメが待っているだろう。そんなことまで私が許容するとでも思っているのだろうか。

「そもそも、それが誤解なんですよね」

「怪我までさせといて、誤解?」

 なにをされても我慢してきた私だけれど、その言葉は聞き捨てならなかった。

「しずこさんは、恋ってしたことありますか?」

「まだ、ない」

 本当は幼稚園のころにあったけれど、今はそこまで話す必要はないだろう。実際、二度目はまだ来てないのだから。

「わたしはしてますよ。去年からずっと」

 もしかしてと思うのだが、彼女が私をいじめる理由はそれだろうか。彼女が恋した相手が、こともあろうか私のことが好きだとわかり、嫉妬したとか。

「ほんとうに、しずこさんは考えることが単純過ぎますねえ。そういうところに、ときどきひどくいらつきます。それに、しずこさんごときを好きになる人なんて、わたし以外に現れるはずがないじゃないですか。なにを自惚れているんですか? あー、なんとも恥ずかしい人ですこと」

 たった今、なにか妙な言葉を聞いた気がする。私が好き? おしずさんが?

「そう言ったじゃないですか。耳まで悪いんですか? わたしが耳掃除してあげましょうか? 有料で。それに、何度もラブコールしてたはずですよ。休み時間ごとに」

 もしや、それはあのいじめにも匹敵する嫌がらせのことだろうか。

「わたしとしてはそんなつもりはなかったんですけど。ときどき、やりすぎちゃったかなあと授業中に自己嫌悪に陥ってたこともあるんですよ。それもこれもしずこさんが悪いんですからね」

 なんという理不尽。転ばされたり、弁当を奪われたり、罵られたりして、「あ、こいつ私のこと好きだな」とはならないだろう。

「なってもらわないと困ります」

「去年はそんなことしなかったよね」

 おしずさんはソファに置かれたクッションに顔をうずめ、くぐもった声で話した。パンツ見えてますよ。

「だって、クラスが違えばお話しする時間が減ってしまいますし。会える時間が休み時間しかないからアピールしなきゃ、ってわたしも必死だったんです。そうしないと人はすぐ忘れてしまいますから。同じ学校に所属している友達は三か月話さなければ友達じゃなくなってしまいます。ましてやわたしは恋人のポジションを狙っているわけですから、ほかのだれにも負けないようにしないとダメなわけで」

 委員長に攻撃的だったのもそのせいか。

「彼女は女の子だから大丈夫、という理由で敵視しないということはつまり、わたしもしずこさんの恋愛対象に成り得ないことになってしまいますから。男女問わずしずこさんから遠ざけて、わたしだけがしずこさんに構ってあげる。砂漠のオアシス作戦ですね。なのにあの性格ブス。しつこいったらないですよね。そうは思いませんか? 思いますよね。てゆーか、私と話してるときにほかの女の名前とか、出さないでくれませんか? ほんとに無神経な人ですね」

 私は、これから先もおしずさんにいじめられながら生きていかねばならないのだろうか。

「いえ、わたし以外の生物と会話しないとお約束していただければ、平穏な生活と絶対の幸福を与えましょう。監禁は犯罪ですから。あくまで自分の意思で行っていただかないと」

 だったら私は。

「断ったら殺します」

 目の奥が笑っていない、決意に満ちた瞳だった。気圧されたわけではないけど、私はうなずき、彼女のいいなりとなる。

「それでは手始めに、キス、していただけますか?」

 私は彼女の透きとおるような唇を指で軽くなぞり、唇を重ね合わせる。

「それでよろしい、です」

 にやつく彼女の浮かれた声だけが聞こえる。

「しずこさん。あなたにはなにか、要望はありますか?」

 おしずさんは私の頭を撫で、そう問うた。

「おしずさん。私のことだけを、管理してね」

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大静香と小静香 音水薫 @k-otomiju

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