第22話 翠翁悄然

 その人の殿舎は、いつにもましてひっそりと静まり返っていた。回廊から望む冬の池は寒々しく、人影に驚いたさぎが翼の音も高く飛び立つ。


翠翁すいおう、今日は騒ぎ立てないのだな。それはそれで落ちつかなく感じるが。どうした、そんなにしょんぼりして。餌だってろくについばんでいなさそうな顔色だ。羽根のつやまで失せてしまったかのようではないか?」

「桂舜、そなたは鸚哥の顔色などわかるのか?」

 笑みを含んだ声に、桂舜は反応した。

「兄上……」


 世子は寝台から訪問者を優しく手招きした。いつになく薬湯の匂いがきつい――そう思った弟だがおくびにも出さず、拝礼もそこそこに寝台の脇の椅子に腰かけた。それとなく兄の様子を窺うと、もともと白かった肌は透き通るほどで、頬もそげている。


「急に遠路を呼び戻されて驚いただろう、王妃ははうえが大げさなのだ。いつもの病なのに騒ぎ過ぎ、主上ちちうえまで動かれてしまったのには……」

「お加減はいかがですか?ご無理はなさっておられませんか」

「無理も何も、この寝台で過ごしていたよ、そなたの帰ってくる日を待ちわびながら」


 桂舜は兄の朗らかさにただただ胸が痛かった。実は、桂舜が王宮に戻った当夜、厳重に人払いをした父親は彼を呼び出したのである。彼は初陣を果たした息子を見るなりほっとした表情で、厚くねぎらった後に、声を落として本題に入った。


――えっ?兄上の病はそんなに?

――しっ、声が高い。御医たちの見立てでは、次の春を越すことはできぬと。急変するわけではないが、少しずつ悪くなっていっているとみな口を揃えて申す。

――まさか、そんな。

 桂舜は呆然として、沈痛な面持ちの父親を見つめ返すばかりだった。

――だからそなたを呼び戻したのだ。できるだけ東宮殿に行って顔を見せてやってくれ。そして、あれの望むことがあれば聞き出してやってくれぬか。


――兄上が、そんな……。いや、信じないぞ。

「どうした?そんなに難しい顔をして」

 兄自身は自分の病のことを知っているのだろうか。知っていながら何ごともないように振る舞っているのだろうか、それとも知らぬままで……。

 桂舜は懐から短剣を取り出して鞘から抜いた。鋭利な刃はこぼれ、鈍く光っている。


「ご存じのように多少の小競り合いはありましたが、兄上の剣が私を守ってくれました。寨での暮らしでも、兄上が側におられるような心地がして……」

「ははは、彼の地には酒家も夜市もないから、そなたには物足りなかったろう。だが、こうして呼び戻されたからには、また微行を楽しむことができるな。羨ましいことだが……」

「羨ましい」、その言葉に桂舜は反応した。前のめり気味になって、兄の手を取る。

「羨ましいと思し召しならば、一度兄上もお忍びに出ませんか?私もお伴致しますゆえ。これでも微行の達人とうぬぼれております、世子さまを安全にお連れすることが可能かと」

 思ってもいなかったであろう答えに、世子は驚きの眼で弟を見つめた。

「微行? 私が……いや、母上はもとより主上がお許しになるまい」

 頭を振る世子に、桂舜は食い下がった。


「大丈夫です、兄上。私が主上に申し上げればきっとお許しになります。参りましょう。あちこち街中を見て歩いて、どこか酒家などに陣取って、二人でゆっくり語り合いとうございます」

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