第23話 世子微行

 一旬いちじゅんの後、王宮の玄武門から三人の若者と、遅れて目立たぬ輿と数人の武官が出てきた。

 先頭を歩くのは茶と紺の防寒服を着た線の細い貴公子で、傍らには藍の上着に水色の帯を締めたもう一人の貴公子が寄り添い、すぐ背後には大柄で無骨そうな同年代の若者が控える。彼らは男の足にしてはゆっくりな歩調で、宮城を取り巻く官庁街を南へ向かって歩いた。やがて豪壮な邸が立ち並ぶ区画へと至る。


「お寒くなったりお辛くなったりしたら、ご遠慮なく仰ってください、兄上。輿も用意しておりますゆえ」

 桂舜公子がそう言いざま振り返ると、ずっと後方に目立たぬ小さな輿とお付きの者達が見える。

「大丈夫だ。ああ、宮城の外は出たこともないわけではないが、いつも行事があるときに、しかも長い行列を組んで自由になれぬからな。好きな時に好きなところに行けるというのは、何と楽しいものだろう」


 兄の明るい顔は闘病のせいでやつれてはいたが、その穏やかで楽しそうな表情に、桂舜けいしゅんも嬉しく思うと同時に、胸がぎゅっと痛んだ。

「もっと早く微服びふくをしておくのだったな、こんな簡単なことならば」

「これからでも、兄上は……」

 桂舜は続きを言いよどんだ。世子は弟の気持ちに気づいているのか否か、そっと弟の手を握る。

「道はここをまっすぐで良いのか? そなたが私に見せたいもの、食べさせたいものはどれだ?」


 一行は西水潭せいすいたんと称される運河で柳の下を散策し、小舟に乗って遊覧を楽しんだ。潭のほとりの茶館で点心と茶を頼んで休憩し、店内の天井や窓から籠で吊るされた小鳥の品評をする。また、西の市で蔬菜や鶏を買う庶民たちを眺め、そして――。


「いらっしゃいませ、若さま方」

 酒家の入口にて、華やかな笑顔で桂舜を出迎えたのは踊り子の素雲そうんである。彼女は今回の微行の準備にあたり既に桂舜から本当の身分を明かされてはいたが、だからと言って彼に対する態度を変えることはなく、桂舜は彼女を一層好ましく思ったのだった。


 ただ、桂舜の正体を知った彼女がぽつんと一言、

「あたくし、失恋してしまったんですね。いつもこうなんですよ、男運がないの」

と遠い目をして呟いたときには、彼は何も言えなくなった。


「李の若さま、お連れになったのはお兄さまですって? おうの親分からも口添えを頂いたので、今日はとっておきの酒肴を用意して、店で一番良い部屋をお取りしておりますの」

 素雲に案内されたのは酒家の二階、西水潭せいすいたんから泰清池たいせいちを一望できる二間つづきの個室で、入って手前の小部屋には星衛せいえいたちが控えることになっており、奥の窓に面した部屋には、既に酒肴に使う食器が用意されてあった。

 さらに、この酒家の内外の要所要所には「翁の親分」の信頼できる手の者が配置され、密かに貴公子たちの安全を守っている。

 

 世子はもの珍しげに部屋を見回し、窓から外を眺めた。

「そなたはいつもここで飲み食いしているのか? 」

「いえ、馴染みの酒家には違いありませんが、この部屋は少し値が張りますし、やはり人々の会話に耳を傾け世情を知りたいので、普段は階下の広間で飲んでおります」

「そうか、それでは後で階下に降りてみよう」

「ええ、ですがまずはここで一献いっこん


 病中の兄を案じて形ばかりの飲酒を考えていた桂舜だが、兄は「注がれる酒の量が少ない」と冗談めかして叱咤した。素雲の給仕で酒膳が整い、兄弟は互いににっこりして一気に飲み干す。

「ああ、酒など久しぶりだ」

「兄上、くれぐれもお過ごしになられませぬよう」

「そう心配そうな顔を致すな。ふふふ、都城の酒は宮中の酒よりも美味いではないか」

「ええ、私もそう思います」

「あら若様、それはちょっと違いますわ。都城の酒ではなく、ここの酒が天下一品なのでございます」

 踊り子はむくれたが、すぐに笑み崩れた。そして「ごゆっくり」と優雅に一礼して下がった。世子はその後ろ姿を見送り、悪戯いたずらげな表情を浮かべる。


「いかにもそなたが好みそうな女性ではないか?ここに通うのは彼女が目当てなのだろう?」

「いえいえ」

 笑ってごまかそうとする弟の頬を、兄は軽くつねった。

「こいつめ。ほんの数年前までは『あにうえー、あにうえー』と私の後をくっついて回る泣き虫だったのに、いつの間にか身体つきもしっかりして、背も私より高くなって……」

「兄上、ほんの数年前とは殺生な。ずっと昔のことにございましょう……」

 何だか照れ臭くなった桂舜は、下を向いて酒肴をつついた。


 星衛たちが続き部屋で食事を相伴し、兄弟も酒膳に一区切りつけたところで階下に降りた。ちょうど素雲の踊りが始まろうとしている時で、すでに楽師たちが旋律を奏でている。


「さあ、今日は懐かしいお客様、新しいお客様もいらしたことだし、この店も冬の寒さも忘れるほどの多くのお客様で大賑わい、ありがたいことです。あたくしの踊りをご覧になって、どんどんお酒を注文なさってね」


 豊かな胸の谷間が見える赤と黒の衣裳を身につけ、長い袖を振って素雲が舞う。金銀の髪飾りがちらちら揺れ、何重にもはめた腕輪がかちりと音を立てる。切れ味の良い旋回、反った背中の美しさ、手の動きの滑らかさ……。

 世子も桂舜も、口を半ば開いて一心に見つめていた。


「上手いものだな、宮中の舞手たちに勝るとも劣らぬ。しかも、斬新な振り付けと音楽で」

「おわかりになりますか、彼女は舞いだけではなく、気性も良いのです。兄上もお感じになりませんでしたか、先ほど……」

 兄の感嘆に、弟は自分がほめられたかのようにご満悦である。


 やがて舞が終わり、素雲が袖をなびかせながら公子たちの卓にやってきた。

「いかがでしたか、初めて私の舞をご覧になるお兄さま」

 答えなぞ知っていると言わんばかりに素雲は天井向いて高く笑い、

「あなた方ご兄弟は、似ていないようでやはり似ておられます。お二人揃って、私の舞をぽかんとした顔つきでごらんになって。おかしゅうございましたわ」

 ばつの悪そうな兄弟に「ありがとうございました、若様がた」と再び敬礼して、素雲は桂舜に何やら耳打ちすると、次の卓へと回った。

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